インタビュー

びまん性汎細気管支炎の歴史

びまん性汎細気管支炎の歴史
工藤 翔二 先生

公益財団法人結核予防会 理事長

工藤 翔二 先生

この記事の最終更新は2016年03月12日です。

記事1:びまん性汎細気管支炎とは」では、びまん性汎細気管支炎の症状・検査・診断についてお伺いしました。ここでは、びまん性汎細気管支炎の治療が確立されるまでの経緯について公益財団法人結核予防会 理事長の工藤翔二先生にお話をお伺いしました。

発病してから5年間の生存率は50%前後とされていました。しかし、感染菌の推移から観察しますと、初期にはインフルエンザ菌が気管支に繁殖し、最終的には緑菌が大量に繁殖、緑膿菌に感染すると5年間の生存率はわずか8パーセントという劣悪な状況でした(1980年代前半当時)。 

生存率が非常に低いのは、肺の機能が侵されて呼吸ができなくなってしまうからなのです。いわば、肺に痰が異常に溜まってしまい自力では排出することができず、自分の痰でおぼれてしまい呼吸困難になる状態といえばわかりやすいでしょうか。 

通常は、気管支から出る分泌液は線毛にのって喉の奥へ運ばれます。しかし分泌液の量が多い、あるいは線毛の輸送機能が悪くなると分泌液を運びきれなくなります。分泌液の量も適量で、線毛の輸送機能が正常に働いていれば問題はないのですが、そうでない場合は体外に排出するために、咳で痰を出さなければならなくなります。

肺の機能が正常ですと大きな咳をして痰を出すことができますが、肺の機能が侵された患者さんは小さい咳しかできず、痰を排出できません。ですから、当時はのどに穴を開けて気管切開を行い、1~2時間おきに痰を吸引する必要がありました。 

 

そのような状態で長期間安静にしていなければならないのは患者さんにとって絶望的な状況です。当時はとにかくインフルエンザ菌を根絶やしにする治療を第一優先で行っていたので、ペニシリン系・セフェム系などの抗生物質を徹底的に使っていました。しかし、インフルエンザ菌がまもなく緑菌になり、患者さんは次第に呼吸困難を起こして最終的には呼吸不全で亡くなられるという悲惨な結末だったのを覚えています。

1970年代の終わり頃、当時虎の門病院に勤務していた谷本普一先生が、びまん性汎細気管支炎に関する16症例をまとめて報告されました。その症例中「3人が自殺・自殺未遂した」と書かれておられます。今でこそ治療法も確立し、死には至らない病気にはなりましたが、当時は患者さんにとって、この病気はとても苦しく辛い病気だったのです。

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