インタビュー

児童精神科の診断留意-流行の病名や言葉を敢えて控える

児童精神科の診断留意-流行の病名や言葉を敢えて控える
竹内 直樹 先生

横浜市立大学附属病院 元児童精神科診療部長/准教授、開花館クリニック 副院長

竹内 直樹 先生

この記事の最終更新は2016年05月18日です。

発達障害や不登校という言葉が日常的に使われています。この原因のひとつには医師や心理職や教員による安直な診断や評価のレッテル貼りの傾向が増えていることが考えられます。発達障害の子どもが実際に増えているのかと疑問視する声もあり、「流行」を懐疑的に見る動きがあります。元横浜市立大学附属病院児童精神科診療部長の竹内直樹先生は、性急で拡大した「診断名」や、発達障害を示唆する「特性」論議が、医療そのものの信頼をそこないかねないことを危惧されています。この記事では、子どもの個人情報であるメンタルヘルスを安直に診断する危険性と、本来は障害のある子どもを守るために存在すべき制度がもたらす弊害についてお話しいただきました。

記事2「児童精神科の初診-迷いながら傷つきながら受診する」では、障害というレッテルを安直に貼ることが、インクルージョンとは反対に、地域社会の秩序への防衛として、子どもの排斥に繋がる危険性について述べました。

本項では、現在の日本であふれている発達障害やPTSDの安直な診断といった「過剰医療」がもたらす問題についてお話しします。

一部にはASD(自閉症スペクトラム障害、広汎性発達障害、アスペルガー症候群など)は10人に1人が抱えているとも喧伝されています。病気の啓蒙啓発や普及によって、診断数が増えていることは事実です。ただし、境界を敢えて設けない「スペクトラム」という概念により過剰診断に傾きやすくなっており、前述のように10%もの子どもが発達障害になると、学校教育現場などでは無用の混乱を招くことにもなるのではないでしょうか。

また、目的をもった「構造化面接」や「尺度診断」が、科学的で誤りのない診断規準として転用され、絶対視されたり、コミュニケーション力を育てる研修や治療教育などの新手の教育・研修ビジネスの参入も懼れますし、実際に生じてもいます。

診断名が優先されて、子どもの生きる姿の全体、あるいは地域での子どもの生活圏全体への関心がうすらぎ、眼前の子どもの在り方から関心を逸する結果にもつながりかねません。一度ついた診断名というレッテルは可塑性に富む子どもに、典拠のない風評としてついて回る危険性もあります。さらに、安易に発達障害と診断された子どもが成人したときに、精神障害年金の受給資格を得る根拠となってしまうおそれもあります。

診断が真摯で妥当性があるものであれば問題ありませんが、卒業後、一般就労が困難なときのみの障害枠雇用を含めて、発達障害の診断既往で年金受給資格者が10%以上になる可能性も論理的には成立するのです。

スペクトラムという曖昧な診断や、記憶の供述によっては年金の誤配分につながります。これは医療の信頼性を失墜させますし、運用の弊害ともいえます。

このほかに、障害年金の発生頻度の地域差を問題視する意見もあります。診断の過剰や過少は不可避とはいえ、診断の「流行現象」に対しては、自重して勇気をもって警鐘を鳴らしていかねばならないと考えます。意図とは離れて、結果的には専門家が不安を煽っているようにも思われます。流行のバスに敢えて乗り遅れる姿勢を、専門家はもちたいものです。

通常の学校教育制度で支援ができない子どもたちのために、特別支援教育制度により特別支援学級、特別支援学校、通級指導などが配備され、また教育支援にも適応指導教室、スクールカウンセラー、スクールソーシャルワーカー、放課後支援など、さまざまな制度や新たな職種が生まれてきています。この選択幅が広がることは好ましいことですが、学籍のある学校との連携など、運用によっては問題が生じています。

特別支援学級は、子どもの障害の程度や地域で異なり、名称は同じでも受け皿は同一ではなく多様化しています。そのために通常教育・特別支援教育が適切か否かという是非をめぐる二者択一ではなく、通常級と現在の担任との連携のとりかた、特別支援教育の目標の設定、その後の進路指導と進学先への移行、休み時間や放課後における他の子どもたちとの交流など、制度の実情にそった運用の確認、それぞれの教育場面の情報を「子どもの顔が見える風景」で把握していく眼差しが必要です。

支援のカギとなるものは、5W1Hによる子どもの日常風景の把握です。制度や運用は総論的に、あるいは名詞形でステレオタイプにスローガンとして語られがちですが、これらは対立した閉じられた議論になりやすく、責任のなすり合いにしかなりません。

かつて、不登校が学校恐怖症などと病気扱いされた時代もありました。実際には、不登校は長期欠席の符丁に過ぎず、障害や病気ではありません。しかしながら、精神障害や貧困に伴う不登校状態もあり、子どもの不登校によって二次的に家族が地域で傷つき、孤立してしまい悩みを抱えて受診される場合もあります。

事情は何であれ、子どもの権利である義務教育の恩恵を受けられず、登校の有無である就学義務のみに力点がおかれることは懸念すべきことです。福祉をはじめ、他の社会資源が介入しなければ子どもが教育権を逸してネグレクトと同じようなことにもなりえます。

現在では、不登校の子どもを対象にした適応指導教室が設置されたり、民間のフリースペースも認められ始めました。学校の教室以外に、教育機会の選択肢が広がることは歓迎すべきことです。以前は向精神薬を服薬中の不登校は対象から外された時代があり、そのために通院を隠し、秘密裡にしたほうが無難であると親に示唆したこともありました。

また、小学校時代に通級指導を受けていた児童が、中学校で不登校になった際に、「発達障害だから通級指導である」という理屈で、不登校のための適応指導教室の利用ができず、きわめて遠方の学校への通学を指導され、教育の恩恵を受けられなかった例もありました。

先にあげた例のように、現場は制度通り運用することができないという現状を抱えています。制度よりも、運用に係る人や些細な日常の機微で、当事者は動揺をします。そのことが非常識であれば、これを改革していく必要がありますが、大多数は無関心であるために、制度は旧態依然を続けて、改善を遅らせてしまいます。

不登校は適応指導教室と本校との連携が必須ですが、適応指導教室に出向かない通常級の教員にも出会います。教員間の交流がない限り、子ども同士の連携は生まれません。適応指導教室は楽だから出席できるとか、原籍校に復学できないから適応指導教室の教育が無力であると断じる教員にも出会います。これは、普通教室への通学復帰至上主義といえます。再登校か不登校かで成否を即断するのではなく、子どもが受けた教育の内容や質こそが問われなくてはいけません。その意味で児童精神科は、「非教育」の現実から子どもの人権としての「教育権」に関心を寄せていくことが重要です。

不登校対策をそれぞれの地域で総括する時期に入ったと感じます。ハード面ばかりではなく、個々の運用の諸問題に対応をしていく時期です。現在は制度の新設に伴い、インクルージョンとは反対方向に向かっているようにも感ぜられます。将来的に制度に縛られている現状を変化させていくためにも、今現在において教育界の外側からモニタリングをしていくことが私たちの努めであり、学校力を支援していくことにも通じることと思われます。

障害名ではなく、「子どもwith障害」で捉えるべきであり、子どもの教育ニーズに関心を寄せるべきです。「障害をもつ子ども」が排除される仕組みが続けば、教員力は低下します。