インタビュー

日本医学会会長・高久史麿先生「母の手記」を公開-2歳頃の将来の夢は?

日本医学会会長・高久史麿先生「母の手記」を公開-2歳頃の将来の夢は?
髙久 史麿 先生

公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

髙久 史麿 先生

この記事の最終更新は2016年12月18日です。

日本医学会会長、高久史麿先生のお母様は、教育熱心で外交的な女性であったといいます。後年は入院することも多くなり、その期間中に、高久先生との思い出を母としての愛情溢れる手記にまとめられました。

高久先生は、ご自身も年をとったことで、お母様の生き方やお考えが詰まった手記を、記録として残したいという思いが芽生え始めたと語ります。

高久先生の思いを受け、日本医学会会長の母の手記を全文公開させていただきます。

 昭和六年二月十一日夜明と共に初声を上げました。(韓国京城の石段の高い家で)貴方は生まれ出る時から、一寸普通の赤ん坊とは異なっていました。「オデコ」から生まれて来ました。それで、貴方の頭は幼児期はオデコが秀で小脳が後ろに突き出し、お父さんは貴方のことを「朝鮮半島、朝鮮半島」と呼んでいました。私は、また大人になって帽子がかぶれないのではないかと案じました。

 三つ年上の長男瞬一郎に余りに手をかけ過ぎ、その育児に泣いた私は貴方は思いっきり放任にしようとお腹にいる時より決心して、極寒の二月ストーブは勿論寝床には湯たんぽも入れずスパルタ方式をきめていました。

ある日、知人の夫人がお見舞に来られて

「この赤ちゃんは色が白いのではないですよ。可哀想に寒さで青くなっていますよ。」

と注意され、「余り。」と自ら反省して湯たんぽの中に寝かせた様な始末。貴方は、よく眠り沢山恵まれた母乳をよく飲み、夜など乳房を離してほっぺたを二三回バタバタとたたくと、パチパチと瞬きをしてそのまま夜明けまで熟睡、夜中起きておむつを替えるようなことさえない程に全く手のかからない赤ん坊でした。産まれて六か月ごろ、ハイハイを始め八カ月から歩き始め、長じてはいかなるような運動神経の持ち主になるやといささかの期待を持ちましたが、成長するに従ってさにあらずでした。よくお乳を飲み、よく眠り、いつもニコニコと風邪など引かず元気な可愛い赤ん坊でした。長男瞬一郎を一人育てるより貴方のようなおとなしい赤ん坊を二〇人育てる方が楽だと母親の私は大げさに表現した程でした。

 二歳ごろになりますと、一日中一人で水遊び、泥んこ遊び、近所の子供と遊ぶ様子もなくお兄ちゃんの言うまま自分のたった一つのおもちゃでもお兄ちゃんに横合いから取り上げられても泣きもせず、ハイハイと自分から差し出して渡していた赤ん坊のころからの貴方の姿、今日も目に浮かびます。絵本など、振り向きもせず日当たりのよい廊下で終日一人で黙々と積み木遊び。余りにも才気換発な長男に圧倒されて仕舞い、自分は不肖の子よと思い込んでいる様子でした。

 そのころ(二歳頃)でした。部屋の窓から長閑に「チンチン」と鈴を鳴らして楽しそうに売り歩く豆腐売りの小父さんをつくづくうらやましそうに(その当時豆腐売りの人は朝鮮の男の人が桶に豆腐を入れ天びん棒でかつぎ片手に鈴を鳴らしながら誠にのんびりと「トーフー」「トーフー」と売り歩いたものです。)絵に描いたような長閑な風景にしばし見とれていた貴方はかん発を入れず実に悲壮な声で

    「アボ豆腐売りになろうか知らん。」

と(このころ貴方は自分の名前をフミマロと正確に発音できなかったため「マボマボ」との自称が「アボアボ」と愛称されて仕舞っていました。)訴えられた時は、情けないやら可哀想やらで思わず吹き出して仕舞ったあの京城(ソウル)の六畳の子供部屋の風景まで判然と懐かしく頭に浮かびます。

 ある時、私の友人数人の集まりの時、一人が

    「マボさんはマボさんマボさんと呼んでいるが本当の名前は如何に」

との質問に、私は

    「戸籍の名前は侯爵のごとく史麿」

です。それ以来、貴方は侯爵坊ちゃん侯爵坊やと皆から可愛がられたものです。

座敷

 丁度貴方が満二歳のころ、主人の妹の結婚のため東北会津から両親、妹一同五人来客、貴方はお祖父さん、お祖母さんと初対面。両親初めての来訪とて、私は前日からもてなしのため大忙し。いよいよご到着の当日、朝から貴方はグッタリして寝床から起きようともしない。貴方のことが気になりながらも、それどころではない忙しい状態。午後暫くして一段落した後、朝から眠り続けている貴方のことが気になり、若しやそのころ流行していた睡眠性脳膜炎なのではとあわてだし、小児科の加藤先生に来診を乞いました。念入りに診察してくださった先生、

    「何も悪いところはないが坊や一寸たってごらん」

と言われ、貴方は立ち上がろうとしてフラフラと寝床に倒れてしまう姿を見て先生曰く、

「お母さん、坊やは病気ではない。腹が減って立ち上がる元気すらないのですよ。私 を呼ぶ前に、まあご飯を食べさせてください。」

と言われ、

「ああ、先生忙しかったのでこの子に昨日からご飯を食べさせるのを忘れていました。」

と平身低頭謝り、冷や汗をかきました。腹は減ってもひもじくないとおとなしく何も求めずじいっと辛抱していたのでしょう。今から思うと申し訳なさで一杯です。早速夕餉の食卓に一同向かいました。始めてみるお祖父さんの側にチョコンと困ったような顔で座っている貴方に、お祖父さんは

    「この子は目付きが違う。偉い子になるぞ偉い子になるぞ。」

としきりに頭を摩って下さいました。お祖父さんは何を思われたのか茶わん蒸しの椀に一箸つけると、貴方に椀を廻し

    「うめえから食ってみっせえ。」

(東北の訛りで、食べろ食べろの事です。)勧めました。すると貴方は、ちょうど犬が皿の食べ物を嗅ぐような恰好をして「クンクン」と嗅いでいましたが、

    「祖父さん臭いからいらない。」

と椀をかえしました。私は、主人の父親に申し訳なくてどうしようかと泣きたい気持ちでしたが、お祖父さんは

    「この子は大物になるぞ。」

とニコニコ顔、一同はその格好に大笑い賑やかな食卓を囲むことができましたのも大事な懐かしい思い出のひとつです。それがお祖父さん、お祖母さんにお会いした初めてであり、それがまた最後でした。 その後は病気もせず平凡な幼児期を過ごしました。

 

  • 公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

    日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員

    (故)髙久 史麿 先生

    公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。