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「ネクストリボンプロジェクト2018」イベントリポート

「ネクストリボンプロジェクト2018」イベントリポート
メディカルノート編集部  [取材]

メディカルノート編集部 [取材]

この記事の最終更新は2018年03月01日です。

去る2018年2月4日(日)、丸ビルホールにて世界対がんデーに合わせ「ネクストリボンプロジェクト2018」(主催:公益財団法人 日本対がん協会、朝日新聞社)というイベントが開催されました。

ネクストリボンプロジェクト」は2017年にスタートした、がんとの共生社会の実現を目指すプロジェクトです。

本イベントは2部制で行われ、第1部ではプレゼンイベント「がんについて語ろう」、第2部ではシンポジウム「がんとの共生社会を目指して〜企業のがん対策最前線!健康経営とダイバーシティ推進のために〜」が開催されました。

本記事では、がん経験者の方々が自身の体験や思いを語った第1部プレゼンイベント「がんについて語ろう」の内容をリポートします。

「ネクストリボンプロジェクト2018」のプレゼンイベントでは、がんの経験を持ちながら前向きに自分らしく生きる以下の5名の方が、プレゼンしました。

  • 西口洋平さん(一般社団法人キャンサーペアレンツ代表理事)
  • 松さや香さん(フリーランス広報、文筆家)
  • 向井亜紀さん(タレント)
  • 古村比呂さん(女優)
  • 小西博之さん(俳優、タレント)

私は今から3年前の2015年、ステージ4の胆管がんと告知を受けました。仕事のこと、家族のこと、お金や親のこと、全てが心配で不安でした。

一番引っかかっていたことは、当時7歳だった娘のことでした。病気のことをどう伝えればよいか、死んだら娘はどうなるかと、ものすごく不安でした。

この不安な気持ちを誰かと共有したかったのですが、周囲に同世代のがん経験者は誰ひとりおらず、孤独でした。

がん告知から半年経ったころ、私のように「小さい子どもを持つがん患者が、1年間で毎年約6万人ずつ増え続けている」というニュースをみました。

私と同じようにがんと戦いながら、子育てをしながら、仕事もしながら生きている人がこんなにいた、出会いたい、と純粋に思いました。

その後、いろいろながんの患者会に足を運びました。しかし、がんだけではなく世代を超えたつながり、仕事や子育てなど横断的なテーマでつながれる場所がなかなかありませんでした。

つながる場所がないのだったら作ろうと、2016年の4月に「キャンサーペアレンツ」という会を立ち上げました。患者同士がつながることができ、患者自身が発信して社会とつながれる場づくりをしています。

立ち上げてから1年9か月で、会員数は1,500人になりました。沖縄から北海道まで全国に会員の仲間がいます。

私自身キャンサーペアレンツにより仲間ができて、社会に対して発信しています。このつながる力が、生きる力につながっていると信じています。

今後は、看護学や医学、幸福学の領域の専門家と連携しながら、つながりが生きる力になると証明していきたいです。

私は29歳のとき、念願の雑誌編集者の正規採用が決まった直後に若年性乳がんのステージ2がみつかりました。

29歳で医療保険にもがん保険にも入っておらず、自分で治療費を稼がなければならなかったため、「働く」という選択の一択でした。

今振り返ると、がんの治療はがんとの戦いに加えて、がんのイメージとの戦いでもありました。自分や世間が作ったがん患者のイメージや思い込みから逃げられずにいたのです。また、世間が作ったがん患者のイメージを当てはめて私に向き合う人もおり、疑問をもったこともあります。

がん告知当時、本やインターネットで情報を探しましたが、働きながら治療している人の情報が全く得られませんでした。そのため、がん患者のイメージをテレビの報道や映画のイメージと簡単につなぎ合わせてしまっていました。

そして、私は働きながらがん治療を経験しました。そのとき力になってくれたのはがん患者としてではなく、私自身として向き合って話を聞いてくれる上司でした。

みなさんにも、もし職場に働くがん患者である同僚や部下がいる場合は、テレビや映画のがん患者のイメージで接するのではなく、目の前のその人自身と向き合っていただきたいと思います。目の前の方が、社会生活のなかで何を求め、この先どのようなイメージを抱いているのか話を聞いてあげて欲しいです。

実際の私の術後は、元気でご飯もしっかり食べられました。イメージしていたことは、実際に経験をしてみたら違ったことが多かったのです。

がん告知をされたとき、「私はもう友達と遊びに行けない、働き続けられない、旅行は難しい、結婚も諦める、子どもを持つことは不可能」このような自分で作り出したイメージでがんじがらめになっていました。

しかし、私は治療を終えた後、旅行に行くどころか国際線の客室乗務員になりました。子どもこそいませんが、38歳で結婚することもできました。

全く想像できなかった未来は、自分の頑張り次第で開いていくと身をもって感じました。

自分で見聞きしたこと、テレビや映画、社会で作られたがん患者のイメージに自分からはまって行く必要は一切ありません。

自分は自分自身の治療、自分自身の生活で生きて行く必要があるように感じます。

がんキャリアの方には、自身の経験を心から誇りに思っていただきたいです。

次世代の患者さんにとって、あなたは立派なロールモデルであり次世代の希望になっていきます。ぜひ、多くの人に共有していただきたいと願っています。

向井亜紀さん

私は35歳のとき、妊娠をきっかけに子宮頸がんがわかりました。

子宮頸がんに気がつくのが遅かったため、3回にわたり手術を行い、子宮を全摘しました。手術は無事成功しましたが、赤ちゃんを産めなくなりました。

検診を受けてこなかった自分のミスのために、せっかくお腹のなかにきてくれた大事な1つの命を摘み取ってしまいました。その辛い気持ちが鬱を呼び、心が粉々になり、生きる方向がみえなくなりました。

心のダメージが大きく、術後に敗血症などの感染症を引き起こし、その後遺症を抑えるための手術を14回受けました。そして、17回目の手術で子宮頸がんとの戦いが終わりました。

子宮頸がんの次はS状結腸がんになり、18回目の手術をすることになりました。

その頃には、私は心の持っていきかたのスペシャリストになっていました。

子どもに心配されても「線路(のような手術跡)は1つ増えちゃうけど、手術が楽しみ!」といえるようなテンションで18回目の手術を受けました。

「心の持っていき方」は本当に大事です。心が落ち込むと、体も一緒に落ち込んでいきます。心と体のバランスが崩れると、体は素直に階段を駆け下りて行くと実感しました。

多くのがん患者さんをみてきた先生によると、がんは早期発見と、患者になってからの気の持ちようが本当に大事だそうです。

地球上の生き物で人間だけが、物理的刺激がなくてもイメージ的な刺激で体の状態を変えることができます。

私の場合は、退院の日に夫が強い力で握手をしてくれる強力なイメージを持っていました。私は、このイメージのパワーで18回の手術を乗り越えることができました。

みなさんも大好きな人の笑顔や、待ってくれている仲間の気持ちを胸のスクリーンに何回も何回も映し出してください。

そして、病気の告知を受けたときに心の向きを下向きに間違えないように、大好きな人の笑顔と温かい心を思い出して治してください。

私は全部で3回がんがみつかり、現在も通院治療をしています。ここでは、今までの私とがんのあゆみについてお話します。

古村比呂さん

ナミビア共和国という知らない国での仕事を控えていたため、薬をもらいに近所の産婦人科に行きました。そのときに、たまたま受けた検査で「要精密検査」という結果が出て動揺しました。

別の病院で精密検査を受け、2012年3月に子宮頸がんがわかりました。

子宮を全摘する手術は6時間くらいかかったものの、がんの転移はなく、手術治療で一区切りがつきました。その後は経過観察を受けながら仕事に復帰でき、順調に回復していました。

そしてその約1年後、仕事の疲れがあったのか、2013年4月に左足に手術の後遺症である「リンパ浮腫」を発症しました。

リンパ浮腫は完治しない病気です。現在にわたり自己ケア、手術、専門的なマッサージなどで生活の質が下がらないよう試行錯誤しています。

2017年3月、がんになって5年目でした。更年期の症状はありつつも腫瘍マーカーが安定していたため、完治する日がきたと思い、病院に行きました。

しかし残念ながら、子宮頸がんの再発がわかり、怖さがこみ上げ混乱しました。

がん再発の告知を受けてから1週間後に治療を開始しました。抗がん剤治療と放射線治療治療の結果、2017年の7月末に腫瘍マーカーが落ち着き、仕事に復帰することができました。

腫瘍マーカー…血液中などに現れる、そのがんに特徴的な物質

2017年11月末にCT検査を受けたところ、今度は肺とリンパ節にがんがみつかりました。2018年1月から抗がん剤治療を始めました。どこかで気持ちの整理がついていない部分もありますが、がんの早期発見ができてとてもラッキーでした。

今は、通院治療をしています。通院で抗がん剤治療ができるとは、6年前に子宮頸がんになったときは考えられませんでした。通院治療をすることで、がんになる前と変わらない生活スタイルで過ごせることが多く、治療の励みになっています。

今までは、「がんをやっつけるぞ!」という意欲で戦ってきました。しかし、がんとの戦いが2回、3回になってくると非常に辛くなり、疲れてしまいます。がんと戦う姿勢でいるのは正直厳しいと痛感しました。

そして、自分の体に「がんさん、もう頑張る気持ちでいるのは疲れちゃうので、もうやめませんか?それよりも、お互いあるべき姿に戻って共に仲良く歩みよっていきませんか?」と言葉をかけました。そうすると体の力が抜け、気持ちがとても軽くなりました。そのとき初めて、この気持ちでよいのではないかと感じたのです。

今、私はがんとは戦わず、寄り添って歩んで生きたいと思っています。

これからしばらく続く治療に不安はありつつも、がんとの向き合い方に新たな気づきがあると楽しみにしています。新たな自分に出会うために、がんと向き合っていきたいと思います。

小西博之さん

私は大きさが20センチもある末期の腎臓がんだったため、みつかったとき医師から「即死」といわれました。つまり当時の私は、いつ死んでもおかしくないというほどの病態でした。

事務所の後輩たちには、がん告知されたことを「死ぬわけないやろ!」といいながら話しました。しかし、1人になったときに死の不安がつのり、ソファーを蹴り、お皿を割り悲しみました。それでも涙は止まらず、「死にたくない!」とお風呂で思いっきり泣きました。

泣いたら肩の荷が降りて、さまざまなことが冷静に考えられるようになりました。そもそもなぜがんを治療するときだけ「闘病」というのか。がんとどうやって戦えばいいのか。病気となんて戦いようがないのです。まずは「闘病」という言葉をなくそうと思いました。水虫の治療と同じでがんも「治療」です。

「闘病」というと病気と戦わなければいけないようで気を張っていなければなりません。「闘病」という言葉をなくしましょう。

私はがんになってもなっていなくても、苦しかったら、我慢せず泣くべきだと思います。たとえば、上司に嫌なこといわれたときも、我慢せずに泣けば肩の力が抜け、気が楽になるものです。

子どものころはあれほど泣いたが、なぜ大人になって泣けなくなったか。それは親に「お兄ちゃんやお姉ちゃんだから泣くな」といわれてきたからです。

しかし、そんなことはありません。泣かずに頑張っているからこそストレスがたまってしまいます。泣いて肩の力を抜くことが非常に大切だと思います。

集合写真

2人に1人ががんになる今、がんとの共生は国民全員が向き合わねばならない課題です。「なんで私ががんに?」という時代は終わりを迎えたのではないでしょうか。がんは予防ができ、早期発見もできる、治療しながら働くことができ、完治ができる、治ったあとはまた自分の好きなように生きる「がんと生きる時代」がきています。

また、がん患者の3人に1人が20歳〜64歳の就労可能年齢でがんになっています(注)。がんの間違った認識により生まれた経済損失は計り知れません。働きながらがんを治療することが当たり前になるよう、がんについて正しい認識が広まるよう、これからもメディカルノートは「ネクストリボンプロジェクト」について発信していきます。

(注)国立がん研究センターがん対策情報センター「がん患者の就労や就労支援に関する現状」より