いつか師匠のような外科医になりたい

「いつか師匠のような外科医になりたい」

熱き思いで書いた一通の手紙が繋いだ鷲見賢司先生のストーリー

昭和大学医学部脳神経外科学講座 助教

鷲見 賢司 先生

たまたま授業で目にした脳腫瘍の手術に心奪われ、脳神経外科を目指す

腎臓の病気で生死の境を彷徨ったこともあった幼少期、自分のそばにいてくれた医師の姿に憧れて、自然と医師を志すようになりました。その夢の実現に向け、防衛医科大学校に進学したものの、学生時代はラグビーに明け暮れる毎日。自分はどんな医者になりたいのか、一体何を実現したいのかの具体的なイメージがない中、授業をさぼったり居眠りしたりしているのが日常茶飯事でした。

そんな学生生活を送っていた私に転機が訪れたのは、たまたま聞いていた4年生の講義中のことでした。

その授業では、脳腫瘍に対する外科手術の様子が動画で紹介されていました。それは当時の私ですら「これは助からないのではないか」と予測できるほど困難を極める手術でした。しかし、私の予想は大きく外れました。術後、患者さんは見事に自力で立ちあがり、文字を書けるまでに回復されたのです。

「あれほど重篤だった患者さんが、劇的に回復する手術があるなんて、脳神経外科ってすごい!自分もこんな医師になりたい」

この授業がきっかけになり、私は脳神経外科の道に進むことを決意したのです。

今の自分は、後輩に何も教えられない?

防衛医科大学校には卒業後9年間、自衛隊関連の病院や部隊(衛生隊等)で勤務する義務があります。そのルールに従い、私も大学校卒業後は脳神経外科医として自衛隊の関連施設で勤務をしていました。

卒後7年目、6年生の指導教官に任命された私は母校の防衛医科大学校に戻り、自衛隊医官としての教育とともに、生活や日々の悩みなど相談に乗る仕事をした期間がありました。しかもそのとき担当していた学生のうち4名が脳神経外科に興味を持ち、4名全員が防衛医科大学校の脳神経外科に入局してくれたのです。

彼らが同じ分野の仲間として脳神経外科に入局してくれたことは本当に嬉しかったです。しかし同時に、「果たして今の自分は後輩たちを一人前に導くだけの実力を持ち合わせているのだろうか?」という疑問が生じたのです。

卒後7年目といえば、専門医取得をしたばかりでまだまだ若手医師の部類。しかも防衛医科大学校は他大学と異なる特殊な教育システムを採用していたため、他大学の同級生に比べて私の臨床経験は半分以下でした。

せっかく医局に入ってきてくれたのに、このままでは、後輩に何一つ教えられないかもしれない。そんなのはいやだ、もっとレベルアップして、同じ道を選んでくれた後輩たちを支えたい。もっとスキルを磨ける場所はないか。

この頃から、経験を積めるような症例数の多い施設がないか徹底的に調べるようになりました。そしてある媒体で、都立多摩総合医療センターの症例数が群を抜いていることを知ります。このときの施設長こそ、現在の師匠・水谷徹先生だったのです。

水谷先生は当時から脳神経外科領域では有名だったのでお名前だけは知っていましたが、連絡を取る手段もなければ門下生を募集しているかどうかも不明。しかし、どうしても水谷先生のもとで修業をしたかった私は、病院宛に直筆で手紙を送りました。

ダメもとで送ったこの一通の手紙が、その後の私の人生を大きく変えることになります。

一通の手紙に記した脳神経外科としての正直な思い

手紙には、どうしても脳血管障害の手術をしたいこと。今の自分は臨床経験も手術件数も不足していること。今の自分には何もできないこと。それでもいつか、難しい手術をできるようになりたいこと。水谷先生のもとで学ぶチャンスを与えてほしいこと……。そのときの自分の思いを、思いのままに羅列しました。

返事が来なくても仕方ないと思って出した手紙でしたが、すぐに名刺と連絡先が同封された返事が届いたのです。そしてそこに添えられていたのは、水谷先生からのメッセージ。

「すぐに手術を見に来なさい。話はそれからだ」

2010年3月、この手紙を握りしめ、私は水谷先生の待つ病院へ向かいました。

そこで目の当たりにしたのは、圧倒されるほどレベルの高い手術。無駄な動きは一切なく、完成された一連の流れは、何かの舞台を鑑賞しているかのようでした。

気分は高揚し、「これこそ自分の求めている領域だ」と確信したのですが、正直なところ、あまりにレベルが高すぎて、自分がついていけるのか自信が持てませんでした。とはいえ、こんな素晴らしい手術を実際に見られただけでも十分幸せなことで、ひとまずお礼を言おうと、手術を終えた水谷先生のもとへ挨拶に伺ったのです。

手術を終えたばかりの先生は、私の顔を見るや否や「でさ、いつから来られるの?」と声をかけてくださったから驚きです。そんなにすぐ決めてもらっていいのだろうかと戸惑いましたが、とても嬉しかったことを覚えています。

その後、私は正式に水谷先生の門下生として都立多摩総合医療センターに入職し、成長したい一心で必死に診療に励みました。しかし翌年、私は診療の場で非常に大きなミスを犯してしまいます。

もう医師でいられないかもしれない

そのミスは診療上でのトラブルが原因で不可抗力だったのですが、辞職を促されても仕方ないと思えるほどの重大なミスでした。しかも、その患者さんは水谷先生が主治医として診ていらした方で、幸い患者さんの命は助かりましたが、患者さんにも水谷先生にもご迷惑をかけてしまったことは事実です。「ああ、俺はもうだめだな」とひどく落ち込み、責任をとって医師を辞める覚悟ですらいました。

そして予期していたとおり、丁度そのタイミングで水谷先生から部長室に呼び出されました。「こうなったら脳神経外科医を辞めて実家に帰るしかないかな」と覚悟を決め、部長室のドアを叩いたのです。部屋に入ってから先生の言葉を待つ時間は、永遠のようにも感じられました。

しかし、先生の言葉は意外なものでした。

「実は昭和大学の教授就任が決まった。僕はここを離れなければならない。だが鷲見君は僕を頼って来てくれた大切な後輩の一人だ。途中で手放すようなことはしたくない。もちろん無理強いはしないけれど、君さえ良ければ一緒に昭和大学に行って、もっと僕のもとで勉強を続けてみないか」

そもそも教授就任とはとても重大な出来事で、門下生が教授の就任先についていく例はあまりありません。仮に水谷先生が異動されることになっても、私は都立多摩総合医療センターに残って研鑽を積むとばかり思っていましたから、この誘いには本当に驚きました。ましてや私は大きなミスをした直後で、職を失う覚悟すらしていましたから、あまりにも予想外で嬉しくて、思わず涙が出そうになりました。

「捨てられるものだと思っていました」。そのとき感じていた不安を後日正直に伝えると、「そんなことあるか!」と一喝。水谷先生の人情に、私はまたしても医師としての命を拾われたのです。

医局長として、この教室にもっと仲間を増やしたい

あれから年月が経ち、2017年4月現在、医局長として教室運営の一員に携わらせていただいています。

まだわからないことばかりですが、社会にこの教室の魅力を推し進めていける立場に就かせてもらったのだから、精一杯、期待に応えたいと思っています。

たまたま見た手術動画、ダメもとで送った手紙と返事。水谷先生に昭和大学に連れてきてもらったこと。偶然と奇跡が重なった結果、私は脳神経外科医として、とてもありがたい経験をさせていただいています。

今後の課題は、医局長として教室運営をスムーズに行っていくこと。そしてもう一つは、水谷先生が築き上げた昭和大学脳神経外科という教室を、もっと多くの医師に共感してもらい、そして共に歩む仲間を増やしていくことです。実現に向け、全力で教室の環境整備などの課題に向き合っていきたいと思っています。

余談ですが、最近は脳神経外科学会でたびたび母校・防衛医科大学校の後輩に遭遇します。少し歳をとった彼らが頑張っている姿をみると、将来は何かの形で彼らを支えられる人間になっていたいと、改めて身が引き締まる思いがしますね。

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