師匠からの贈り物を次の世代へ

DOCTOR’S
STORIES

師匠からの贈り物を次の世代へ

41歳で伝統ある教室の主任教授に就任した塚原清彰先生のストーリー

東京医科大学 耳鼻咽喉科・頭頸部外科学分野主任教授
塚原 清彰 先生

恩師のダイナミックな頭頸部外科手術に憧れて、耳鼻咽喉科の道へ

父、祖父ともに産婦人科開業医であり、医師になる以外の道を考えたことはありませんでした。自然と医学部を目指した私ですが、大学に入学した当初はいわゆる外科医に憧れていました。そして、大学4年生の頃は消化器外科医になると決めていました。しかし、あるとき目にした手術は私に大きな衝撃を与え、進路さえも変えてしまったのです。

その手術とは、頸を大胆にめくり、臓器があらわになった状態で行う、なんともダイナミックな頭頸部の手術。

「これぞまさしく、自分が理想としていた医師像だ」

そう直感した私は、卒後すぐさま耳鼻咽喉科教室の門を叩きました。そして、この手術を執刀していた医師こそ、のちに私の師匠となる故吉田知之教授だったのです。

耳鼻咽喉科に進んだあとは、故吉田教授の教えに従い、専門医取得までは耳・鼻・音声といった耳鼻咽喉科のあらゆる分野で経験を積みました。正直、ダイナミックな頭頸部手術に憧れて選んだ道でしたから、「俺は早く腫瘍の外科手術をしたいのに、なぜ難聴・副鼻腔内視鏡手術・音声をこんなにしなければならないのか?」と不満に思うこともありました。

しかし、当時の自分は浅はかだったと思わずにはいられません。もしあの頃、腫瘍だけを経験していたら、私はきっと薄っぺらな医師になっていたでしょう。頭頸部外科医は外耳癌、副鼻腔癌など深部顔面や音声に関与する喉頭を手術します。当然、後遺症として生じる難聴、めまい、副鼻腔炎、失声などに対応する力も求められます。そのため、腫瘍しか診られないことは致命的欠点となるのです。

専門医取得後すぐに先代の鈴木衞教授(現東京医科大学学長)のはからいにより、がん研究会有明病院に国内留学に行かせていただきました。そこには想像を絶する高いレベルの手術と、切磋琢磨し合う医師の姿がありました。当時は「鬼ヶ島に素手で乗り込んでしまった」、そんな心境でした。解剖の教科書をめくるように頸部があらわになり、耳鼻咽喉科医が開腹して小腸を採取し、顕微鏡を使って微小血管吻合までしているのです。1つでも多くの技術を習得したい、必死の思いで毎日を過ごしました。病棟当番で手術から外れた日は朝早く処置を終わらせ、9時過ぎに無理やり手術室に入りました。3年が過ぎた頃、故吉田教授から「八王子で一緒に働かないか」と声を掛けていただきました。やっと必要とされたという思いで、3か月後八王子医療センターに赴任しました。八王子では、故吉田教授から担当手術を奪うようにして毎日手術に明け暮れました。人並み外れて手術が大好きで、上手で、豪快だった故吉田教授が「手術を奪わせてくれる」のですから相当な我慢だったと思います。亡くなる直前に2人で話していた時、「あんなにお前に手術やらせてやるとは思わなかっただろ?」と微笑んでくれた優しい表情は今でも脳裏に焼き付いています。

師匠である故吉田教授とともに(左が塚原氏)

父のような存在だった師匠の死。そして自らが教授に

2011年夏、故吉田教授は病に倒れました。病名はスキルス胃がんといって、粘膜下で進行する早期発見が難しい病気です。彼の場合にも例外でなく、発見時には根治手術ができないほど進行していました。

私にとって憧れの医師であり、親父のような存在。八王子医療センター時代を含め13年もの間、公私ともに私を育ててくれた人生の師匠と呼べる人です。当時腕に自信があった私は、生意気なことを言って、その治療方針に意見することも多かったです。とはいえ、心のどこかで「何かあっても最後は助けてくれるはず」と頼りにしていた部分も大きかったのでしょう。目の前からいなくなってしまうなんて考えてもいなかったのです。

「明日からはお前が看板背負って、一人でやるんだ。もう俺は、頼りにできなくなるから」

スキルス胃がんと判明した日の夜、故吉田教授からそう告げられました。そのとき感じた未熟な自分への大きな不安、責任の重さ、そして何より寂しさで目の前が暗くなる感じがしたのを今でも鮮明に覚えています。

故吉田教授の病気が発覚した頃、私は37歳。同期の多くは海外留学のタイミングでもありました。しかし師匠の急な引退時に私が病院を離れることはできません。師匠が残してくれたものを受け継ぐ使命があるとも感じていました。

2012年春] 、吉田教授は59歳の若さで亡くなりました。その頃から私は漠然と「東京医科大学に残って後輩たちに手術を、医学を教えたい」と思い始めていました。そして、その延長線上に、多くの支援やタイミングの合致がありました。2015年、私は当時41歳で東京医科大学耳鼻咽喉科学分野の主任教授に就任しました。そして2016年に耳鼻咽喉科・頭頸部外科学分野に名称変更をしました。

自分は未熟。自分の修行を継続し、先輩からいただいたものを後輩へつなげる

吉田教授が亡くなり、私が主任教授になるまでの3年間は、非常につらい日々でした。臨床、人間関係など様々な問題に直面するたび、「こんなときに吉田教授ならどうするだろうか?」と自問し、そこにもう姿がないのだと実感します。それまで心の大きな柱になっていた師匠の不在、そして自らの責任で決断して行う治療の数々。今思えば、当時の私には考え、悩み、独り立ちすることが必要だったのだと思います。師匠から離れることで、自分がいかに未熟か知りました。また先輩・後輩・看護師・剣道・合気道の仲間・家族など多く人々に支えられていることを学びました。そして師匠の姿は見えなくても、一緒に過ごした時間が灯台となり、いつも道を示してくれていることに気付きました。

私は医師としても人間としても未熟で、未完成だと自覚しています。どんなに経験を増やしても「絶対に正しいなんてない」ことも分かっています。だから、常に学び、修行を続けていこうと思っています。

教授だから偉いわけでも、すべてを知っているわけでもありません。故吉田教授と私のあいだには強い信頼関係がありました。だから自由に意見を言い合えました。私も決しておごらず、教室員と強い絆のある仲間になり、真摯に耳を傾け、よいものを積極的に取り入れていきたいと思っています。

座右の銘は「繼(けい)」。多様性を活かせる教室でありたい

私は、「医局」よりも「教室」という表現の方が好きです。東京医科大学は1つの学校、医局はその中にある、いわゆる1年B組のような1つの教室です。私は耳鼻咽喉科・頭頸部外科の担任として、教室にいる生徒を愛情深く育てていきたいと考えています。もし私が、話しかけにくい雰囲気の怖い教授だったら、よい関係性は生まれません。私が教室員をむやみやたらに怒鳴りつけていれば、彼らは後輩達に同じように接するでしょう。それでは決して理想的な教室になりませんし、教室員の成長にもつながりません。

医局員それぞれが自分の個性を発揮し、明るく過ごせるような教室。それを実現するために、教授は独り高みに立つのではなく、同じ目線で輪の中に溶け込み、向き合って話し、時間を共有し、そして時に背中をみせることが必要だと思います。故吉田教授が私にしてくれたように、教室員とは、強い信頼関係を持った親子兄弟のような関係でありたいのです。

自分自身も医師・人間として進化し続け、並行して後進を育て、よい循環を紡いでいきたい。私の座右の銘は「繼」です。「継」の旧字体ですが、糸に糸をつなぐ象形からできています。私自身の糸を繼ぎ(つぎ)、そして先輩方が残してくれた文化を多様な糸を持つ教室員と共に未来へ繼續(けいぞく)し太くしていく。その結果が患者さんにとっての良い医療にもつながっていくと考えています。今後はこれまで以上に教育に力を注ぎ、より良い医療を追究し続けます。

 

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