恩師と患者さんが私の医師の道しるべです

「恩師と患者さんが私の医師の道しるべです」

慶應義塾大学初の女性医学部教授として医療の発展に力を注ぐ別役智子先生のストーリー

慶應義塾大学医学部 呼吸器内科 教授

別役 智子 先生

偶然出会った呼吸器内科に、こんなに魅了されるなんて

はじめはなんでも診られるジェネラルな内科医を目指し、研修医時代を過ごしていました。私の卒業した北海道大学は、当時は臓器別に細分化されておらず、第一内科として幅広く内科系疾患をみるスタンスでした。当時の自分の目的にもマッチしており、とても楽しく学ぶことができましたが、大学院入学にあたり専門をひとつに決める必要に迫られたのです。

当時、自分が何に向いているのかがわからず、ひとりで考えあぐねていました。ふと糖尿病グループの先生に相談へ行ったところ、たまたま呼吸器の先生を紹介され、呼吸器の魅力もよくわからないまま呼吸器グループに入局することになってしまったのです。

こうして特に希望していなかった呼吸器グループに所属することになったのですが、その領域が私にとても合っていたことは幸運だったといえるでしょう。喘息やアレルギー、慢性閉塞性肺疾患(COPD)、肺がん、感染症や肺損傷。呼吸器疾患の種類は他領域に比べても多岐にわたります。呼吸器疾患のもつこの多様性は、もともと興味が広い私の性格にぴったりとはまっていたのです。

呼吸器疾患のなかにはCOPDや難治性の喘息など、まだはっきりと病態が解明されていないものが多くあります。もともと基礎研究に興味のあった私が呼吸器という分野に魅了されるまで、それほど時間はかかりませんでした。

臨床でも研究でも一流の恩師との出会い

どんどん研究にのめり込んだ私の転機は、日本呼吸器学会の講演会での出会いでした。

1992年、日本呼吸器学会の年次講演会が、北海道大学第一内科教授川上義和先生が会長をされ札幌で開かれることになりました。その招待講演者として招かれた先生が、後にアメリカの恩師となるワシントン大学のロバート・M・シニア教授でした。

分子生物学の視点からの肺気腫の病態研究。シニア教授の研究はとても興味深いものばかりでした。たとえるなら、論文が発表されるたびに点と点が線でつながっていくイメージです。シニア教授の研究はまさに研究の醍醐味といえるものでした。

「私もシニア教授のもとで、研究したい!」

次第にそう思うようになったのですが、家族や医局の事情もあり大学院卒業後は関連病院で1年半ほど臨床の経験を積むことになります。

今となっては大きな学びだったと感じていますが、当時はとてもつらかったかもしれません。上司や先輩について臨床の研鑽を積み、大学病院では経験できない実地の医療の経験は、非常に貴重な財産となりました。

そして1996年、念願叶いワシントン大学呼吸器内科のシニア教授の研究室に留学することになったのです。

アメリカの恩師が示してくれた私の道

留学中は基礎研究に打ち込みました。一流の研究者、そして最先端の研究。何もかもが新鮮で、夢中になりました。しかし、留学当初は思ったデータがまったく出ず、論文1本すら書けずに苦労する毎日。分子生物学特有の考え方や手法を身につけることで精いっぱいだったのですが、徐々に結果が出始め、後半はシニア教授が行っている共同研究にも参加させてもらいました。

留学中、特に印象的だったのがシニア教授の姿勢です。分子生物学においてパイオニア的存在でありながら、臨床医としても一流でした。日本では「臨床、研究のどちらかを選択しなければならないのではないか」という風潮があります。しかしシニア教授が自身の研究で明らかになったことを臨床で応用していく姿は、私のなかの常識を一気に覆しました。そして私もシニア教授の足元にも及ばないけれども、臨床と研究の両方を頑張って、日本の医療に貢献したいと思ったのです。

アメリカでの生活は日本のように「女性だから」と過剰に意識をしたり、特別扱いされることもなく、とても居心地のよいものでした。帰国の時は後ろ髪を引かれる思いでしたが、それでも「恩師から学んだ医師、研究者としての姿勢を、きちんと日本に持ち帰って、少しでも日本に貢献したい」という気持ちから、再び北海道大学へ戻りました。

呼吸器内科は患者さんを救えない?

北海道大学へ戻ってからは、後進の指導にあたりながらも自身の臨床の腕をさらに磨くべく、研究者・臨床医の二足のわらじを履いて忙しい毎日を送っていました。しかしそこで私は、呼吸器内科特有の壁に突き当たります。

呼吸器内科で扱う疾患は慢性疾患が多く、病気と一生付き合っていかなければならない方も多くいます。慢性疾患の場合、根治よりも、いかに症状を抑えて普通の生活が送れるようサポートするかが求められます。「私の病気は一体いつ治るのですか?」と患者さんに詰め寄られ、きちんと病気を治してあげられないことに、悔しさや限界を感じることもありました。

「外科医みたいに悪いところを切り取って治して、患者さんが健康に笑顔で帰れるような医療ができたらいいのに」と他の診療科の医師を羨むこともあったのです。

「私も患者さんから感謝される医療がしたい」

そう考えていた矢先、私は重度のCOPDから呼吸不全に陥った高齢の男性の患者さんを担当することになります。

愛娘のために命を振り絞って立ち上がった患者さん

その患者さんには、結婚を控えた娘さんがいました。人工呼吸器が必要なほど病状は深刻でしたが、本人は人工呼吸器の装着を強く拒否されていました。

そして迎えた、娘さんの結婚式当日。入院ベッドのうえで寝たきりの患者さんをみても、とても結婚式の参加を許可できるものではありません。しかし「娘の晴れ姿を、父親が見届けないでどうする」と、ご本人の強い意思をむげにはできず半ば折れるようなかたちで外出許可を出しました。たくさんの酸素ボンベを抱えて、患者さんは式場へと向かいました。

目の前には、美しいウエディングドレスに包まれた娘さん。その姿が患者さんに力を与えたのでしょうか。入院中は立ち上がることも難しかった父である患者さんは、酸素マスクを外して立ち上がり、娘さんの手をとりました。そして、一歩一歩ゆっくりとバージンロードを歩かれたのです。

それは医療者の視点からみれば、まさに奇跡ともいえる光景でした。

花嫁姿の娘さんを見届けた患者さんは、その日の晩、病院で静かに息を引き取りました。その眠った顔はとても安らかで、私は患者さんの顔をみて涙が止まりませんでした。言葉にできずとも、患者さんが「娘の結婚式に出席させてくれてありがとう」といっているように感じられたからです。患者さんは、自らの命をもって私に生き様を示してくれました。

患者さんの病気そのものを治せなくても、患者さんが悔いなく生きられるようにサポートはできるのかもしれない。そのことに気がついた、とても長く心揺さぶられる一日でした。

私の経験を、日本の医療に還元する

それからは患者さんの生き方をサポートできる医療を目指し、さらに臨床と研究に打ち込みました。そして2010年、研究のためのサバティカルを大学から許可され二度目のアメリカ留学をしていた最中に慶應義塾大学教授への応募の話が舞い込んできたのです。

はじめは「自分があの慶應の教授なんて務まらないだろう」と恐れ多く思っていたのですが、周囲の方々の強い推薦もあり、お話を引き受けることにしました。そして2011年に、慶應義塾大学医学部として初めての女性教授に就任しました。

私の経歴は、日本の女性医師としては異色かもしれません。女性医師そのものは少なくありませんが、キャリアを積んでいく方はほんの一握りですから、物珍しさからメディアに取り上げられることもたびたびありました。

しかし、私自身はキャリアを意識したことはありません。その場その時で、精いっぱいやっているだけです。患者さんのことを第一に考え、日本の医療をよくしたいと思い、日々研究と臨床、そして後進の教育に勤しんでいる、日本にたくさんいらっしゃる医師のひとりです。

私が女性ということを負い目に感じず、そしてくじけずにここまで来られたのは、アメリカでの恩師の姿、協力してくれた家族、育児などがある私に配慮してくれた先輩、同僚のおかげです。

日本では、まだまだ教授のポストに就く女性医師はほとんどいません。けれど、本音ではもっと研究をしたいという女性医師は多くいると思います。かつてのシニア教授が私に道を示してくれたように、私も誰かの道を、自身の背中で示していけるよう、これからも臨床と研究に励みたいと思います。そして、少しでも日本の医療の発展に貢献できれば幸いです。

 

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