倒れている人がいるときに、その人の命を救う医者になりたい

「倒れている人がいるときに、その人の命を救う医者になりたい」

苦難を乗り越え、心臓外科医として再び立ち上がった益田宗孝先生のストーリー

横浜市立大学外科治療学(旧第一外科) 主任教授

益田 宗孝 先生

診療にひたむきな父の姿をみて医師を志す

私が医師を志したのは、医師である父の影響が大きいです。家系には昔から医師が多く、祖父・祖父の弟・父など医師に囲まれた環境で育ってきました。

父は耳鼻科医でした。幼い頃から、急患が来たと毎晩のように叩き起こされ、慌ただしく診察に向かう父の背中をみてきました。そんなひたむきな父の姿は「自分も医師になろう」と思わせるのには十分で、自然と医学部への進学を決めました。

バスケットボール部での恩師との出会い

大学では、中学からずっと続けているバスケットボール部に入部しました。日々の医学の勉学とともに、練習にも力を注ぎ、2年生のときには医学部の大会で全国優勝を果たしました。

当時のバスケットボール部の部長は、心臓血管外科の教授をされており、後に私の恩師となります。誰からも尊敬され、そして愛される先生で、私自身が現在心臓血管外科医でいられるのも、その先生からの影響が大きくあると思います。今でも折りにふれてその先生を思い浮かべては「あんな教授になりたいな」と思います。

心臓血管外科医の道へ

人の命を救いたいと思い心臓血管外科医を志す

私が外科の道に進んだ理由は、「倒れている人がいるときに、その人の命を救うことができる医者になりたい」と強く思ったからでした。

学生時代、私は整形外科医になるつもりでした。しかし整形外科で研修を行うなかで「整形外科医では人の命と向き合う場面は少ないのではないか。医師であるからには命と向き合いたい」と感じたのです。

 

外科にも消化器、呼吸器、心臓血管、脳神経などあらゆる領域があります。そのなかで心臓血管外科を選んだ理由は、バスケットボール部の部長をしていた教授の影響も大きかったのですが、「嘘がつけない」という自分の性格もありました。

当時の外科はがんを告知しない時代で、がんの患者さんに「胃潰瘍です」と伝えることは自分にはできないと感じたのです。心臓血管外科であれば、患者さんに嘘をつくことなく診療や手術ができると思い、心臓血管外科医の道を歩み始めました。

月月火水木金金。休みなく働く!

私の恩師のモットーは「月月火水木金金」でした。つまり、土日という概念などなく休みなく働くということです。

ボスがそういう働き方でしたので、部下である私たちの働き方もそれに倣えです。実際に日曜日の午後に帰宅できれば十分、と感じるくらい忙しい毎日が続きました。当時は若手医師に手術を執刀させるという風土がほとんどなく、若手の仕事といえば術後管理が主でした。卒業後なんと10年もの間、このような生活が続きました。率直に、これから先もこのような生活を続けていける自信が持てず、疲れ果ててしまった私は、逃げ出すような形で海外への留学を決めたのです。

ベルギーでの留学を通して

海外留学の目的は、手術や診療など臨床経験を多く積むことでした。そんなとき、ちょうどベルギーにあるルーヴェン・カトリック大学(Catholic University of Leuven)から帰ってきた同級生に勧められて、さっそく留学希望の手紙を書きました。

偶然とは起きるものなんですね。驚いたことにルーヴェン・カトリック大学の心臓血管外科の先生が、私が初めて執筆した英語論文を少し前に読んでいたそうなのです。その先生も論文を読んだ直後に、私から手紙がきたことにとても驚いたようで、そのような縁もあってか、ルーヴェン・カトリック大学へ留学することが決定しました。

海外留学とこども病院への赴任で多くの症例を学ぶ

ルーヴェン・カトリック大学は症例数が非常に多く、臨床と研究のどちらにおいても密度の濃い学びを得ることができました。心臓弁膜症や冠動脈バイパス術などで著明な先生方にたくさんの指導をしていただきましたが、それは本当に貴重な経験になりました。留学から帰国した後にも、オフポンプでの冠動脈バイパス術(人工心肺を使用せずに、心臓が動いたまま行うバイパス術)が日本で行われはじめたときには、ルーヴェン・カトリック大学の先生のもとへ指導を受けにいきました。

海外留学を終えて帰国してから勤務した九州大学病院で、私は本格的に手術を始めました。その後、福岡市立こども病院へ赴任したのですが、そこでは一転、こどもの患者さんを担当することになります。幸運なことに、福岡市立こども病院には心臓手術の名医である角秀秋先生がいらっしゃり、角秀秋先生から手術を学ぶことになるのです。

今から思うと、海外留学やこども病院への赴任は、心臓血管外科医としての知識や技術を磨き上げる素晴らしい経験でした。

諦めかけた心臓血管外科医としての人生−教授からの言葉

助教授として50歳を迎えようとした頃、心臓血管外科医として生きることを諦めかけた瞬間がありました。脊髄腫瘍を発症し、手術の後遺症で右足が麻痺して動かなくなってしまったのです。

医師ですから、その重大性を認識できましたので、この先、車椅子生活になることを覚悟しました。もちろん手術の執刀もできなくなります。自分の人生に絶望しながらも懸命にリハビリを続け、少しずつ歩けるようにまで回復したときのことです。

「リハビリの途中でもいいから、すぐに退院して戻ってこい。手術ができなくても、近くに立っているだけでいいから戻ってこい。」

教授からそんな言葉をもらいました。

私はこの言葉にどれだけ励まされたか。それから少しずつ麻痺は改善し、手術の執刀もできるようにまで回復しました。言葉の力とは本当にすごいものです。私はこのたったひとつの言葉で、今でも心臓血管外科医をやれているのですから。

横浜市立大学病院外科治療学教室の教授としての現在

脊髄の手術から半年もたたない2006年の正月明けに、横浜市立大学から「教授選に出ないか」というお話をいただきました。

しかし、その頃は後遺症のため満足に歩けるような状態ですらありませんでしたので、お断りの手紙を書きました。ところが、この手紙が教授に見つかってしまいます。

「大丈夫だ。せっかく招かれているのだからチャレンジしてこい。」

私は教授に強引に背中を押される形で教授選に出馬し、2006年5月に現在の横浜市立大学外科治療学教室の教授に着任しました。人の運命とはわからないものです。

現在も私はリハビリを継続しています。リハビリを続けながら横浜市立大学附属病院で手術の指導や執刀などの臨床に携わり、また横浜市立大学附属市民総合医療センターの副院長として仕事をさせてもらっています。

せっかくもらったこのチャンスを活かし、自分にできる限りの努力を続け、臨床・教育ともに医療の未来のために全力を注いでいきたいと思っています。

医師のストーリー 医師には医師のドラマがある

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