医師インタビューコンテンツ➀

患者の視点から医師が提案する強直性脊椎炎の症状との付き合い方

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インタビュー実施日:2020年8月19日
インタビュー実施場所:ノバルティス ファーマ株式会社 本社

順天堂大学医学部 整形外科学講座 非常勤講師の井上 久(いのうえ ひさし)先生は、強直性脊椎炎(Ankylosing Spondylitis:AS)という難病を抱える重症の患者さんの1人です。長年にわたりASという難病と付き合いながら日々生活されている一方で、医師として同じ病気と闘う患者さんのために診療や患者会の運営などを行っています。

井上先生はどのようにASの治療と仕事を両立し、家族や病気と向き合ってこられたのか、井上先生自身のご経験に基づいてお話しいただきました。1人の患者であり医師でもある井上先生が全国のAS患者さんに伝えたい“思い”とはどのようなことなのでしょうか。

発症から診断まで――井上先生が経験した強直性脊椎炎の症状と体の変化

発症初期――数年単位で背中や腰に突然の激痛が起こる

それまでまったく健康なスポーツ少年だった私が19歳のある日の早朝、就寝中に突然背中に激痛が走りました。なぜいきなり痛みが生じたのかまったく分かりませんでしたが、この痛みこそ私が最初にASの症状を自覚した瞬間であり、強直性脊椎炎の始まりだったのです。

背中の痛みはじっとしていられずにのたうち回るほどで、あまりの痛さに“一体何が起こったのか!?”と思うほどでした。ところがその激痛は1度きりで、しかも20分ほどでケロリと治まってしまい、それから2年間は、一切何の症状も現れませんでした。

しかし21歳のとき、再び体に異変が起こりました。私は運動が大好きな青年で、その日はスキー場で思い切りスキーをした後だったのですが、帰宅後、股関節(こかんせつ)の外側の部分に激痛が走ったのです。ASは、筋・腱が骨に着く “付着部”と呼ばれるところから炎症が起こる病気なので、股関節を外転させる大きな筋、すなわち中殿筋(ちゅうでんきん)の付着部である大転子*の痛みは、今考えてみればASに見られる“付着部炎”の症状に合致しています。その痛みはかなり激しく、3日間はまともに起き上がれないほどでしたが、3日経過したら2年前と同様にケロリと治ってしまったのです。その後は、年に一度の頻度で、今度は殿部の痛み(いわゆる坐骨神経痛**)が左右交互に繰り返しましたが、いつも長くて2~3週間で自然に治ってしまうため、医者にかかることなく、普通に学生生活を送っていました。しかし、さすがに両親はこのような息子の様子に不安を募らせ、受診を強くすすめたので、人間ドックを受けたり、大学病院も含むいくつかの大きな病院の偉い先生を訪ねたりしましたが、原因は不明。結局、そのまま5年が経ちました。

*大転子:大腿骨頭(だいたいこっとう)の下部に位置し、太ももの付け根の外側に隆起した骨
**坐骨神経痛:お尻、太ももの裏、ふくらはぎにかけて生じる坐骨神経に沿った痛み

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画像提供:PIXTA

発症から7年――痛みの発生頻度が徐々に増し、痛む場所にも変化が生じる

医師になって2年目の26歳になると坐骨神経痛の頻度が増し、さらには2~3か月に1回のペースで首から腰にかけての激痛も生じるようになりました。当然のことながら坐骨神経痛の原因でもっとも多い「腰椎椎間板ヘルニア(ようついついかんばんへるにあ)かも」と思ったこともありましたが、通常、腰椎椎間板ヘルニアでみられる下肢の神経症状・麻痺はなく、痛みの発作が生じるとき以外は日常的な動作にまったく問題がなかったため、整形外科医として普通に仕事をしていました。

しかし、次第に背中が持続的に痛むようになってきたため、さすがに「これはオカシイ!」と感じ、改めて血液検査やX線検査をしてみましたが、やはり原因が分かりませんでした。体内に炎症があることを示す血沈(赤沈)値だけが上昇していたのですが、実は私の母親も若い頃から血沈値上昇を指摘されていたものの至って元気であったために、自分も遺伝的・体質的なものだろうと、整形外科医でありながら気にも留めずにいました。しかし、後に、母親がASの合併症として有名な目のブドウ膜炎を発症したことで、実は母親もASで、血沈値の上昇もそのせいだったということが判明しました。母親は、軽症のために埋もれたAS患者だったわけです。以降は年月を追うごとに少しずつ痛みの起こる間隔が狭くなり、だんだんと日常生活や就労にも支障をきたすようになり、当然、精神的ストレスも大きくなってきました。

発症から10年――AS診断が確定

29歳のとき、ASの患者数が日本の数十倍と言われるアメリカで長年にわたり医師として活躍されていた私の恩師である山内 裕雄(やまうち やすお)先生が、帰国後、助教授として順天堂大学に赴任されました。さっそく弟子になった私の様子を見た山内先生から「君はASの可能性がある」と指摘され、やはり“ただの腰痛”ではないことを改めて認識しました。そして山内先生に私の仙腸関節のX線写真を見ていただいたことにより、ついにASの確定診断がなされたわけです。

このように私の場合、医師になって4年、最初に症状を自覚してから10年以上が経って、ようやく痛みの正体が分かったのです。当時は日本のASに関する医学レベルは低かったとはいえ、整形外科医としてはとても情けない話です。もしもこのとき山内先生にお会いしていなければ、もっと診断が遅れていたことでしょう。

ASであることがはっきりとしたときは少なからずショックでした。私は10代の頃、いわゆるスポーツ少年で、体操競技に熱中して、インターハイに出場したり国際大会でヨーロッパに遠征したりといった経験もあって、将来はスポーツで身を立てようと考えていたのです。「もう大好きなスポーツを思い切りできないだろう」と思うと、頭では理解していてもやはり悲しい気持ちになりましたね。

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診断後の治療――脊椎と股関節の手術で病状が回復、現在薬は服用せず

ASの診断がついたからと言っても、当時は生物学的製剤などない時代で、しばらくはNSAIDs(非ステロイド性抗炎症薬)で痛みをしのいでいましたが、当然のことながら病気の進行は止まらず、その当時可能だった治療、すなわちNSAIDsの効果は私にとっては不十分と言わざるを得ませんでした。そのうち背中が前方に著しく曲がって(脊柱後弯(せきちゅうこうわん))きて前を見られなくなってしまったため、36歳のとき曲がった背骨を伸ばして金属の棒で固定する手術(脊椎矯正骨切り術)を受けました。手術によって背骨の曲がりは改善されましたが、手術という大きな体への刺激がきっかけになって、おそらく炎症物質(サイトカイン)が過剰に放出されたためでしょうか、股関節の病変も急激に進行してしまいました。そこで翌年に右、数年後に左の股関節に人工関節を入れる手術を受けたところ、痛み、そして歩き方が著明に改善してかなり楽に生活できるようになったのです。

やがて40歳代後半に入ると、多くのAS患者さんと同様に病勢が自然に鎮静化して激痛はなくなり、血液検査値(血沈、CRP<C反応性タンパク>)もほぼ正常化しました。もちろん、完治したわけではなく、今でも広範囲の鈍痛があり、それに首から腰まで脊椎はまったく動かない状態ですが、それ以後、痛み、そして身体機能の制限に関する“慣れ”もあってか、2020年現在に至るまで、私は一切ASに関する薬を使用していません。絶対的適応のある患者さんに対しては、QOL改善のために薬を積極的に使うべきではありますが、どのような薬であっても、適応のない症例に対しては安易に使うことは避けるべきと考えます。

同じAS患者さんの診療は医師である自分の“宿命”だったのかもしれない

脊椎矯正術によって前を向けるようになり、人工股関節置換術を受けてからは杖があれば歩けるようになったのですが(杖無しでも200mくらいは歩けます。近代整形外科学のおかげです)、それでも“普通”の整形外科医として、それまで携わってきた救急医療や手術を含めた診療を続けることはさすがに無理だと判断せざるを得ませんでした。そのため、ASが重症化してからは第一線で臨床整形外科医としての人生を送ることは諦めました。

その代わり、現在は私自身の“宿命”として、患者目線で同じAS(疑い例も)の診療を専門に行う“強直性脊椎炎診(AS診)”を1990年に開設して、これまでにおよそ1,000人の患者さんの診療にあたってきました。

そのほか、患者さんの生活や就労ひいては人生相談に乗ったり、主治医との関わり方に関するアドバイスをしたり、障害年金、身体障害者手帳、介護保険、生活保護などさまざまな公費助成に関する情報提供や、そのための診断書作成などが、今では主な仕事になっています。

ASとの付き合い方のポイントは割り切った気持ちを持つこと

私にとってASは、今や“友達”のような存在です。そして運悪くASを発症したことについては、“なっちゃったもんはしょうがない”と考えるようにしています。割り切った考えのように聞こえるかもしれませんが、現状では根治が望めない病気だからこそ“ASとともに歩む人生”を受け止め、“病気と戦って打ち勝つ!“ではなく、症状を可能な限り抑える手段は適宜適切に使うとして、その人なりに、より充実した社会生活ひいては人生を送れるよう前向きに生きることが重要ではないかと考えます。

医師として、また先輩患者として、AS患者さんたちが、病気を受け入れつつも充実した人生を送るためのお手伝いが少しでもできればと思っています。

家族や周囲への病気の伝え方、関わり方

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画像提供:PIXTA

井上先生の場合

私の場合、「自分が辛いとき、家族もまた辛い思いをしている」ということを強く意識して家族と接するようにしました。

具体的には、まず、痛くて痛くて仕方がないときでも、決して家族には当たらないことです。

以前妻から、「あなたは人に当たらなかった、それが私にとってはとてもありがたかった」と言われたことがあります。病気でもっとも辛い思いをしているのは患者さん自身ですが、病気を抱える患者さんと共に生活する家族も、患者さんと同じくらい辛い気持ちを抱いています。50年以上の闘病(本当は闘うのでなく、お付き合い)、71年の人生を送ってきた先輩として、患者さんたちには、このことを忘れないでいただきたいといつもお話ししています。

それと、「自分は病気だから頑張らなくていい」「家族や周囲に助けてもらうのが当たり前」などとは決して考えず、家庭でも職場でも、できる範囲で自分なりの努力を怠らないことです。一生懸命真面目にやっていれば、周囲は、頑張っている姿を見てくれているものです。それでどうしてもできないことがあるときには助けてくれるはずです。周囲に頼り切らず、症状や機能障害があるなりにできることをせいいっぱい続けていきましょう。

周囲や家族は患者さんとどのように接するべきか

“お母さんは何でもできる、少し手を貸してもらえればね”。これは、私がかつて担当した女性患者さんの娘さんが書いて県知事賞を獲得した作文の内容の一部であり、私が事務局長を務める患者会の“日本AS友の会”のモットーでもあります。

ですから、家族あるいは職場も含めた周囲の人には、“痛みや身体に障害があってかわいそう、できないことが多いからいろいろと気遣ってあげなければ”という目で患者さんを見るのではなく、“困っているようであれば手伝おう”という意識で見守ってもらいたいという気持ちを伝えましょう。もちろん本人は、やれる範囲のことをせいいっぱいやっていることが前提です。

ちなみに私の場合、妻には時々仕事で書いた書籍や診療ガイドラインを渡したことはあっても、面と向かって自分の病気について話したことはありません。妻自身もこの病気についてはあまり積極的に知りたがらず、もしかしたら私が渡したASに関する書物も読んでいないかもしれません。

ただ、妻は私が生活したり仕事をしたりする姿をずっと傍で見ていてくれて、その様子から、ASが直接死ぬ病気ではないということだけは、分かってくれているはずです。死なない病気だと分かっていたからこそ、あえて問い詰めずに見守っていてくれたのかもしれません(ただ、これは、私が特殊な状況・環境の人間であるためでしょうから、全ての患者さんやそのご家族には当てはまりませんが)。

井上先生から体軸性脊椎関節炎の患者さんへのメッセージ

繰り返しになりますが、病気を治そう、病気に打ち勝とうと頑張りすぎず、病気を受け入れて折り合い付き合いながら前向きに生きることを意識してみてください。私は昔から、何かとすぐに割り切るタイプの性格です。完治は望めず、痛い痛いと言っているうちに次第に体に障害が生じるASという特殊な難病と付き合ううえでは、この性格が幸いしたように感じています。

実際のところ、ASを含む体軸性脊椎関節炎(axial spondyloarthritis:axSpA)は数十年にわたる慢性の経過を辿るため、病気と長く付き合うには割り切った考え方が大切に思えます。“新しい薬を使えば必ずよくなる”“いつかきっと名医に会えて治るはず”と気張りすぎてしまうと、自分の思ったように治療が進まない場合にストレスがかかって、それによりかえって症状が悪化してしまうことがあるからです。だからこそ、患者さんには、よく言われる言葉、“自分が置かれたところで咲く”、“配られたカードで勝負する”という心構えが大切なのではないか? と、診察室や患者会の場でもお伝えしています(あくまでも個人的意見としてですが)。

もう1つお伝えしたいことは、ASあるいはaxSpAは基本的に“死ぬ病気”ではないということです。私自身は、重症度の観点からいえば最重度の患者に該当し、左右両方の股関節は人工関節になっていますし、背骨にもたくさん金属が入っています。でも、70歳を越えた現在もこうして元気に生活して、今なお精力的に動き回り、臨床医療とは別の仕事ですが現役で働いています。杖をついてはいるものの自分の足で歩けています。

1人のAS患者として、この身をもって“AS(axSpA)では死なないし、適切な治療を受けつつ、病に負けず上手く付き合って前向きに頑張れば、それなりに充実した人生を全うできる”ということをお伝えしているつもりです。

私の生きる姿を見て、同じ病気の患者さんの不安が少しでも軽減して、希望を抱いていただけたらうれしく思います。

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井上久 先生