インタビュー

東京大学医学部はかつて関西に負けていた?高久史麿先生が取り組んだ自治医大設立、東大第三内科の改革

東京大学医学部はかつて関西に負けていた?高久史麿先生が取り組んだ自治医大設立、東大第三内科の改革
髙久 史麿 先生

公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

髙久 史麿 先生

この記事の最終更新は2016年10月17日です。

現在、日本医学会会長を務める高久史麿先生は、自治医科大学で10年にわたり教鞭を振るった後、東京大学医学部第三内科の教授に就任します。当時、内科学では関西や中部の大学に遅れをとっていた東京大学の内科を、日本をリードする学術機関にまで引き上げた高久先生の医学部改革とは、一体どのようなものだったのでしょうか。また、2023年問題に直面する日本の医学教育は、今後どのように変わっていくのでしょうか。引き続き、高久先生にお話しいただきました。

自治医科大学設立期は、私の人生のなかでも「最も働いた時期」といえます。教員集めのために、若い優秀な先生を探し回り、ポストを作っては、全国各地に直接スカウトにいきました。速度計の壊れたぼろぼろのタクシーに乗って、アメリカの大学まで交渉に行ったことも、今となってはよい思い出です。

また、カリキュラム委員会の委員長にも買って出て、教養課程以降(3年目以降)のカリキュラム作成も一から行いました。カリキュラム作成にあたっては、通称「富士研」という、富士山麓で行われていたワークショップで学んだ手法が大変参考になりました。上級生が下級生を教える「屋根瓦方式」や、見学型ではなく臨床参加型の実習である「クリニカルクラークシップ」などを他大学に先駆けて取り入れた結果、自治医科大学は当時の日本で最も先進的な教育を実践する大学となったのです。

自治医科大学では、私自身も血液内科とアレルギー膠原病科、そして消化器内科、3つの教授職を併任しました。くわえて卒後指導委員長なども兼任し、10年の時を経て、再び東京大学へと戻ることとなったのです。

1982年当時、東京大学は非常に保守的な姿勢をとっており、助手は全て医局員の中から選ぶという選挙制度を敷いていました。医局員には東京大学医学部の卒業生しかおらず、さらに、選挙名簿の名前は医局に入局した順に並んでいました。これでは、外部からの新しい風など入ってくるはずもありません。

そこでまずは、他大学の卒業生も助手となれるよう、推薦があった他大学の卒業生に医局に入ってもらい、旧式の選挙制度を廃止するための改革を始めました。最初に入局してもらったのは、現在筑波大学血液内科教授としてご活躍されている千葉滋先生などです。その後も積極的に他大学を卒業された先生方に声をかけ、選挙制度の見直しに繋げていきました。

また、当時の日本の内科学は、関西が強く関東が弱い「西高東低」の状態にありました。

関西では、後に大阪大学総長となられる山村雄一先生や岸本忠三先生を中心として、免疫学の研究が盛んにおこなわれており、中部では愛知がんセンター総長となられる大野竜三先生や名古屋大学名誉教授となられる日比野進先生を中心に、白血病や血液腫瘍の研究が行われていました。

一方、東京大学は、当時はあまりポピュラーな疾患ではなかった糖尿病の研究などは行われていたものの、免疫学や腫瘍には長けていないという有り様でした。

このような「内科学の西高東低」状態を変えるためには、分子生物学を内科の研究に導入するほかないと考え、空いていた部屋をP2レベルの実験ができる研究室へと作り替えました。最初のリーダーは平井久丸先生にお願いし、以降、東京大学第三内科からは続々と分子生物学の手法を使った研究成果が出され、多くの人が集まるようになっていきました。残念なことに、平井先生は教授に就任されてすぐに亡くなられてしまいましたが、日本の分子生物学は、このように東京大学第三内科が先陣を切る形で始まったのです。

1990年に東京大学を定年退官した私は、国立病院医療センター(現・国立国際医療研究センター)の院長となり、その後ナショナルセンターとなった国立国際医療センターの総長に就任しました。現在も当時の看護学校の生徒達とは交流があり、先日はなんと22年ぶりに共に食事をしました。昔の生徒に会えるということは、教員職の醍醐味だと感じています。

人生の大半を医学教育にささげてきた私が、最も長く籍を置いたのは、自治医科大学です。

1996年、私は2代目学長として再び自治医科大学に戻り、2012年に退職するまでの間、優秀な教授をリクルートすることに全力を尽くしました。

自治医科大学の教授選びは、東京大学のそれとは大きく異なります。

東京大学時代には、研究に強い人材を選ぶことが多々ありましたが、自治医科大学では臨床の現場で優れた評価を得ており、面倒見がよい人を探すという選び方をしました。

また、2004年からは日本医学会会長も兼務し、「日本医学教育評価機構(JACME)」「日本専門医機構」「日本医療安全調査機構」の社員になるために、2014年には同会を法人化しました。

地球儀イメージ画像

日本医学教育評価機構(JACME)とは、日本の医学教育の質を国際的な見地から評価するために、2015年に設立された機関です。現在日本の医学教育は、「2023年問題」という大きな課題に直面しています。

日本の医学教育はアメリカに大きく後れをとっており、現状のままでは2023年以降に日本の医学部を卒業しても、アメリカの医師国家試験の受験資格を得ることはできません。この問題を解決するためには、アメリカの医学部と同水準の教育を、日本の医学部でも実施する必要があります。そのため、日本の医学部は今、教育内容をグローバルスタンダード化すべく、カリキュラムの改訂に勤しんでいます。

たとえば、従来の医師国家試験は3日間実施、出題数は計500題とされていましたが、これでは臨床実習の期間が十分にとれないため、今後は2日間300題とする案などが出ています。

また、改訂した教育が本当に世界水準といえるものかどうか、WFME(世界医学教育連盟)による国際認証を受けることが必要となりました。

WFMEの認証を受け、WFMEの代わりに評価を行う第三者機関がJACMEです。既にいくつかの大学では試行的に医学教育評価を実施しており、現在WFMEの国際認証を待っています。

2023年問題を機に、日本の医学教育はよい方向へと大きく変わっていくと考えます。

高久先生

日本の医学・医療は、教育面だけでなく、様々な点で先進諸国に遅れをとっています。

たとえば、研究に使える費用が少なく、結果として研究がスムーズに進まないという問題があります。現在の日本の文部科学省科研費はトータルで約2300億円、日本医療研究開発機構(AMED)の研究費等の総額は約2000億円(2015年度)ですが、アメリカではNIH(アメリカ国立衛生研究所)が約3兆3000億円、大きな大学一つで1千億円近い研究費を持っており、臨床研究も桁違いのスピードで進んでいます。

また、日本ではアメリカのようにベンチャー企業が育ちにくく、大企業はチャレンジングな動きをとれないため、新たに日本で開発された医療機器・薬剤が海外製になってしまうという例も、少なからずあります。これは、ベンチャーに投資する資産家の有無など、その国の風土の差から生じている問題ですので、なかなか改善は見込めないかもしれません。

このほか、2020年の東京オリンピックまでに、たばこ規制を徹底する必要もあります。日本のように、宿泊施設や飲食店で分煙というスタイルをとっている先進国は、いまやほとんど存在しません。

当初はオリンピック開催都市である東京都のみを対象とし、喫煙に関する規制を敷いていこうとする動きがみられましたが、海外からの観光客は全国各地を訪れます。そのため、現在は地域を絞ることなく、国を挙げて対策を講じていこうという姿勢へと日本全体が変わりつつあります。

もちろん、たばこ問題に関しては、ただ規制をするだけでなく、たばこ農家の方々をどのようにして守っていくか、行政庁や政治家が中心となって検討していく必要があります。しかし、日本が本当に観光立国を目指していくならば、受動喫煙が様々な場で起こっている現状を放置するべきではなく、厳重に規制をしていかねばならないと考えます。最終的には政治家が決断を下す分野の問題ではありますが、日本医学会会長を務める医師として、真剣に向き合わねばならない問題だと感じています。

  • 公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

    日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員

    (故)髙久 史麿 先生

    公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。