私が医師になったきっかけは、若月俊一先生の「村で病気とたたかう」という一冊の本です。私がこの本に出会ったのは高校生の頃で、ちょうど進路に悩んでいるところでした。私は数学・物理が好きだったため「東京工業大学に入って機械いじりがしたい!」と漠然と考えていました。
しかし、若月先生が人生をかけて地域医療に尽力した事実を知り、「医師として地域の役に立つのも面白そうだ」と思いました。私の医師の道は、ここから始まります。
信州大学に入ってから、私は地域医療の現状を更に突きつけられるようになります。特に印象的だったのは、新聞などでも報じられていた「無医村」の存在です。
信州大学のある長野県の最北端には、新潟県・群馬県に隣接する栄村という村があります。栄村は全国有数の豪雪地で、冬になると積雪で交通が遮断され、まさに「陸の孤島」となってしまうのです。栄村への交通が遮断されると、冬の間、診療所はあるけれど医師がいないという状況が起こってしまいます。私は、もともと地域の役に立ちたくて医師を志したので、冬には「無医村」となってしまう栄村でますます働きたいと思うようになりました。
大学卒業後、同級生のほとんどは大学の医局に入りましたが、私は少しでもはやく地域の医療を経験したかったので栄村のすぐ近くに位置する北信総合病院で働くことを決めていました。
しかし、「どの診療科に進むか」は非常に悩みました。このような地域の方々には、どのような医師が求められているのだろう。内科の視点、外科の視点、両方の視点をあわせもって診察する力が重要なのは間違いないが、どういうステップを踏めばそこに到達できるのだろうか。
若かった私は「内科なら自分で勉強すればなんとかなるだろう、まずは外科でトレーニングしよう」と考え、北信総合病院の一般外科で外科医としての総合的な知識・技量を習得することにしました。外科医として日々学んでいると、当時の院長から「一時的でもよいから大学で勉強してみてはどうか」とアドバイスをいただき、信州大学へ戻ることを決意しました。信州大学に戻った私は「どうせならあまり経験したことのない領域に挑戦しよう」と、当時地方では特に遅れをとっていた心臓外科の領域に足を踏み入れたのです。
「地域医療をやるぞ」という思いで医師になった私でしたが、信州大学に戻ってからは、心臓だけしかみていませんでした。まさに無我夢中で目の前の患者さんの治療に取り組みました。
私が担当していた先天性心疾患の子どもが亡くなったとき、ご両親から「深谷先生、もっと修行してうちの子のような病気で苦しんでいる子どもの命を救える医師になってください!」といわれたことがあります。そのとき、「もっと腕を磨く必要がある」と心から感じたことをよく覚えています。
そしてその1年後には、国立循環器病研究センターで働くことに。私はさらに3年間、心臓外科の道を突き進むことになります。
国立循環器病研究センターで3年が経ったころ、当時の部長から「海外で修行しないか」とイギリス留学を提案されました。そのときの私は「心臓外科医としてレベルアップしたい」と必死でしたから、「是非に!」と留学を決意しました。
しかし留学の準備をしている最中に思いがけない誘いがきます。信州大学に心臓外科医が不足しており、「戻ってきてほしい」というのです。そして、幸か不幸かイギリス留学は中止に。私は再び大学に戻ることとなるのです。
そして、心臓外科医の経験が十分とはいえないまま、私は信州大学の心臓外科を率いることになります。当時の大学は、論文をたくさん書き、教授になってから本格的に手術を担当する、というのが一般的でした。臨床経験が中心の、私のような医師がチームを率いるケースはかなり珍しかったと思います。
このような状況だったので、もちろん不安はありました。しかし、「杉田クリップ」を開発したことで知られる脳外科医の杉田虔一郎先生が、いつも私を褒めて励ましてくださったのでなんとか職務を果たすことができました。
約10年間、心臓外科医として走り続けた私ですが、50歳になったことをきっかけに次の人生をスタートさせる決意をします。実は50歳を過ぎた頃から、このまま心臓外科医を続けるのは厳しいと感じるようになっていました。
単純に体力の限界を感じたということもありますが、やはり体力が落ちると気力も落ちてしまい、「是が非でもこの患者を助けるぞ!」という気持ちに自分の体や心が追いつけなくなってきていることに気づいたのです。
50歳を過ぎ今後の働き方に迷っていたとき、「山の次は海の近くで働きたい!暖かい海のある沖縄へ行こう」と、私は沖縄の離島診療所で働く決意をします。
沖縄の離島診療所といえば、私が高校のときに目指していた地域医療にふさわしい場所です。しかし、「地域医療をやるぞ!」という熱い思いからではありませんでした。正直なところ、キャリアチェンジを決意したとき、医師になるきっかけでもあった「地域医療への想い」は頭からすっかり抜け落ちていたのです。
こうして離島診療所での勤務がスタートしました。大学を卒業してから数年の間、救急科や外科を経験していたので、急患に私ひとりで対応することはそれほど困難なことではありませんでした。
しかしもっとも苦労したのは、重症糖尿病の維持など、ほとんど経験したことのない内科領域に対する診療です。「内科なら自分で勉強すればなんとかなるだろう」という考えが、いかに甘かったかを痛感しました。
「このままではダメだ。内科の知識をつけなければ」
それから猛勉強の毎日が続くことになります。
2013年、私は久米島病院の院長となりました。院長になったからには地域のみなさんに貢献したいと考えています。
久米島に限った話ではありませんが、離島では医師確保の難しさや、天候によって物流がストップしてしまうなど、医療資源に限界があることが大きな課題となります。これらを解決するためには、地域のみなさんの理解や離島同士の協力が不可欠です。
島の医療のリーダーとして、今後の離島医療をよりよいものにしていこうとはたらきかけることは、地域医療のやりがいの一つでもあると思います。
もちろん離島に来て、特に院長の立場となった今は大変なことも沢山あります。それでも私が久米島にいるのは、医師になるきっかけとなった「地域医療」の現場で、好きなことをやれているからなのでしょう。
ここへ来て10年ほどが経ちますが、今の私は「地域医療をやろう!」ではなく「この地域での生活を楽しもう!」と考えながら仕事をしています。あまり気負わずにやってきたからこそ、今日まで続けられているのだと思います。
10年もここにいますから、当然、久米島の地域のみなさんとはすっかり打ち解けることができました。先日(2017年10月)も私が自分の田んぼで作ったもち米で、地域のみなさんと一緒に餅つき大会を行うなど友人同然の付き合いをしています。
離島には都会のような便利さはありませんが、ここでは田んぼや畑で作物を育てたり、海で釣りをしたり、そういった遊びには事欠かないので毎日のんびりと楽しく過ごしています。
「自分はどこでどのように生きたいのか、何をしているときが楽しいのか」
私はこの問いの答えを探しながら、これからも暖かい海に囲まれた久米島で、医師として残りの人生を歩んでいけたらと思っています。
この記事を見て受診される場合、
是非メディカルノートを見たとお伝えください!
公立久米島病院
「受診について相談する」とは?
まずはメディカルノートよりお客様にご連絡します。
現時点での診断・治療状況についてヒアリングし、ご希望の医師/病院の受診が可能かご回答いたします。