DOCTOR’S
STORIES
医療機関の立ち上げを三度経験、地域を見守る関口忠司先生のストーリー
医師を志すようになったのは高校生のときでしょうか。当時私は理系のクラスにいましたが、具体的に将来の目標が決まっていたわけではありません。しかし、人の役に立つことができる医師という職業に惹かれていました。閃めきや発見よりもどちらかというと日々の積み重ねが評価されるのでは感じたことも後押ししました。
正直なところ、医療の世界の実態はあまりわかっていませんでしたが、周囲に医学部を目指す友人が多かったこともあり、いつしか医学部受験に向かっていました。
そのようななか、新聞で私の地元である栃木県に自治医科大学が開設されることを知りました。「栃木に医大ができるのか」とは思ったものの、当時の私はあまり気に留めていなかったように思います。
しかし、医学部受験に向けて下見に行くと、大学の伝統に関して重さの真のプラス面を感じるよりも少々重苦しいと感じてしまい、対極にある新しくできる大学が魅力的に感じるようになりました。
そして私は、自治医科大学を受験。経済的に自立に近い状態になれることもありがたく、栃木県の1期生として自治医科大学に入学しました。
晴れて医学生となった私は、将来の進路に関しては外科の知識を身につけていれば、へき地での医療にも役立つだろうと単純に考え、外科をベースとしてあらゆる疾患に対応できるような医師になりたいと考えました。外科指向となったもう一つの出来事は、医学部5年時に姪が生後間もなく嘔吐を繰り返し、消化管の異常である、輪状膵(りんじょうすい)と診断され、手術で劇的に回復する様子を間近でみていたことでした。 学生時代は、卓球部で汗を流し、吉新理事長に誘われてビッグバンドで初めて手にするテナーサックスを吹いたり、家庭教師のアルバイトをしたりと、学業だけでなくさまざまなことに打ち込んだ日々でした。自治医科大学は全寮制で、しかも私たちは1期生100数人でスタートしたということもあって横のつながりが非常に強くまとまっていました。2期生が入学し、二学年体制になったとき先輩後輩の関係が不思議な感覚でした。
卒業後は、まず自治医科大学の付属病院で多科ローテーション方式の初期研修を受け、3年目は大田原赤十字病院(現:那須赤十字病院)の外科に移り、そこでは週一回と隔週で2カ所のへき地で巡回診療にも当たりました。
そして卒後5年目の春、栃木県の北西部にある栗山村(現:日光市)派遣という辞令を拝命し、湯西川診療所の新規立ち上げという大きなプロジェクトを任されました。それまで同地区では巡回診療が行われていたものの、温泉地でもあり夜間の人口が住民の数倍に膨れあがることもあり医師の常駐が求められていたのです。着任後レントゲン、超音波、内視鏡などの器機の選定、採用薬、外注検査の委託先との契約、後方病院への挨拶回りなどを行い9月の開所に漕ぎ着けました。
無医村に常勤の医師がやってきたことは、ニュースの価値があったようで、テレビや新聞の取材が多くあり連日報道されていたことを覚えています。アメリカにいた妻の兄夫婦が、日本人向けに放映されていた関東のローカルニュースで、湯西川診療所開設の動画を見ていたことには驚きました。
海抜は800m近くの高地であり、栗山村の冬は寒さが厳しく、朝の気温はマイナス15度から18度、私が経験したもっとも寒い日は、マイナス24度でした。湯西川は温泉地として有名で、予想されたとおり旅行客や湯治場の急病の夜間診療を行う機会が多かったことも思い出されます。
村内に二人の医師がいたのですが、もう一方の診療所の先生は神奈川から来られている定年退職後の先生で、週末はご自宅に戻られたため、広い村に医師一人の状態でした。
そのため夜間に雪で閉鎖されている山道を迂回しての、片道50キロの往診なども得がたい経験でした。
へき地の診療所に若手医師が一人で勤務するということは足りない部分も多かったとは思いますが、よそ者とならないように診療所のスタッフが気配りをしてくれるなど、常に「地域住民のみなさんに育てられている」という感覚がありました。
後期研修を自治医科大学で行った後、「栃木県立がんセンター」前身の「栃木県立がん検診センター」への辞令により、検診業務に当たりましたが、同時に翌年に予定されていた治療部門をもつ新規病院の開院準備にも加わりました。帳票の作成や、人・モノの流れを想定したマニュアルを作るなどの作業でした。開院後同センター外科で2年勤務した後、義務年限を終了し栃木県を退職し、母校自治医科大学の消化器一般外科に移りました。
そのころ、栃木県では救急医療体制の不備が問題となっていました。南那須地域でも救急車が受け入れられなかったということが何回か報道され、地域住民の「公的病院を誘致してほしい」という要望が高まったのです。
栃木県の援助も受けながら広域行政事務組合が南那須地域に病院をつくることになり、私にとって三度目の病院立ち上げのお話となりました。要請により消化器一般外科の助教授が院長、私も外科科長として開設時のスタッフとして加わりました。地域医療の充実を求める地域住民の熱い心に後押しされ1990年医師4名、病床数50で開院しました。
地域住民の要望に応えるかたちで病院を開院したものの、3か月ほどすると病床50床はすべて埋まってしまい、患者さんの受け入れが難しくなりました。救急車で運ばれてきた患者さんに対して、処置を行うことができても、満床で入院してもらうことができない状況が続きました。那須南地域での医療ニーズにある程度応えるにはどうしてもマスタープランに示されていた150床まで増床する必要がありました。
開設3年目で院長を任され、経営面や、スタッフの確保には苦労していましたが、地域の熱い要望は肌で感じていました。開院時に150床の開設許可は申請しておらず、地域医療計画で示されるたびに不足病床分を細切れに獲得していくことなりました。増床許可申請には人員確保計画、財政計画、建物の図面などが必要でしたが、増床許可の得られていない建物の設計図作成費用が予算化されることもなく、私自身がパソコンで作成した暫定的な図面を後に差し替えることで受理してもらったことなども思い出されます。そのような道をたどりつつもなんとか当初の目標でもあった150床体制となり、住民の期待通り救急車を受け入れられるようになったのです。
まさか人生で三度も病院の立ち上げに携わるなんて考えてもいませんでした。
いずれも結果的に「望まれることに応える」というかたちでしたが、これは地域医療だからこそのやりがいであると思います。やりたいことをやるというのも魅力的ですが、その地域で望まれていることに応えられる楽しさもまた格別です。
また、地域に根付いた医療を行い、地域住民と密にかかわることができるのも地域医療の魅力だと思います。
忘れられない患者さんに、トラクターから落ち大きなタイヤに腹部を轢かれた4歳の男の子がいます。男の子は肝臓が破裂していたため、三次の救命救急センターに受入を要請し、了解を得たものの、急速な血圧低下に対する処置を行いましたが改善しませんでした。そのため搬送は断念し、状況を説明し当院での開腹手術に踏み切りました。幸いにも男の子は助かり、元気になって退院することができました。後日、中学生がサッカーの試合でゴールポストに頭をぶつけて意識障害で運ばれてきましたが、男の子は軽い脳震盪で事なきを得ました。駆けつけた親御さんから「あのとき先生に助けてもらった子はお陰様でこんなに元気です」と声をかけられたのです。このように地域住民の人生に長く寄り添っていると感じられる瞬間は、私にとってかけがえのないもの。また、患者さんのご家族が、今度は自身が患者さんとなっていらっしゃることも多々あります。同じ地域で長く仕事をすることで、患者さん達に身近な存在と思ってもらえるのかなと思います。
若い医師がへき地へ行くのは不安が大きいと思います。私自身、卒業して5年ほどでへき地の診療所を任されたときは心細い気持ちがありました。しかし、全国各地で地域医療に取り組む仲間と連絡を取り合うなかで、「自分だけじゃない、日本全国でみんな同じように頑張っているんだ」と励まされ、その時代を乗り切ることが出来ました。
大きな病院のように医療者がたくさんいて、医療者の論理で育てられるのではなく、地域住民のみなさんに育ててもらう時代を過ごせたこと。このような経験ができたことは私の財産になっています。これからも地域住民のみなさんに安心していただけるような医療を届けていきたいです。
この記事を見て受診される場合、
是非メディカルノートを見たとお伝えください!
那須南病院
「受診について相談する」とは?
まずはメディカルノートよりお客様にご連絡します。
現時点での診断・治療状況についてヒアリングし、ご希望の医師/病院の受診が可能かご回答いたします。