自分がなぜ医師になったのか。その志の始まりをすでに思い出せないほど、私にとって医師になることは自然な成り行きであったように思います。
私は、父が産婦人科医、母が耳鼻咽喉科医という家庭に育ちました。幼少期から両親が医師として働く姿を近くでみていたこともあり、小学生時代には自然と「自分は将来、医者になるのだろう」と考えるようになりました。
東北大学医学部へ入学した当初は、外科分野に漠然とした興味を抱いていました。しかし実際に大学で医学全般の知識を吸収していくうちに、私は生命の本質に迫る内科分野の奥深さに心惹かれていきます。
1978年に医学部を卒業後、東京女子医科大学で内科研修を行うため、私は上京しました。そこで出会ったのが、当時呼吸器内科で活躍していた滝沢敬夫教授です。私はほかの研修医たちと切磋琢磨しながら、彼のもとで呼吸器内科の基礎を幅広く学びました。滝沢教授はたいへん面倒見がよく、同じ東北大学出身ということもあり、何かにつけて可愛がってもらったことを覚えています。
滝沢教授のもとで学ぶうち、呼吸器内科は人の生死にダイレクトに関わっていること、呼吸器疾患の病態はダイナミックに変動することを肌で実感しました。
「呼吸とは、人が生きることそのもの」
「呼吸」という「人が生きること」のもっとも基本的な部分で患者さんにかかわれる呼吸器内科に魅力を感じ、私は呼吸器内科へ進むことを決心しました。単純に思われるかもしれませんが、当時そう考えて進んだ呼吸器内科医の道を、私は今でもよかったと思っています。
医師になって7年が経った1985年、私はカリフォルニア大学サンフランシスコ校 心臓血管研究所へ留学します。海外で生活すること自体が新鮮な体験ではありましたが、何よりも、研究の面白さに心揺さぶられた日々でした。
今もそうですが、当時、有効な治療法がなく死に至ってしまう呼吸器疾患が数多く存在する一方、研究のおかげで治療できるようになった疾患も存在したのです。なかでも当時、免疫学の解明が進んだことより、喘息に対する治療は画期的な治療法が生み出されようとしていました。
「研究で、多くの患者さんを救いたい」
そう強く感じた私は、指導教授であるJay Nadel(ジェイ・ネーデル)先生のもとで研究に没頭しました。呼吸器内科の研究は免疫学、遺伝学、分子生物学など多方面からアプローチできるため日々新たな発見があり、留学先での時間は非常に充実していました。およそ2年間留学していたサンフランシスコは、今でも大好きな街のひとつです。
留学先で抱いた研究に対する情熱は、今でも私の根底に絶えず流れています。
どのような研究であっても、常に新しい何かを発見する可能性がある。そして、成功しても失敗しても、自分が情熱を注いだ研究からは必ず何かを得ることができるのです。
病態メカニズムの研究に基づいた仮説を治療に活用し、それが効果を示すとき、私は一人の医師として大きな喜びを感じます。そのようなときには治療の効果がダイレクトにあらわれるので、患者さんも非常に喜んでくれるものです。
私はこれまで医師としての長い時間を、東京女子医科大学で過ごしてきました。現在では同学呼吸器内科の主任教授として、教育にも力を注いでいます。
「物事の本質を掘り下げて理解し、学んでほしい」
教育の現場で、私はいつもこう伝えています。
治療法をただ暗記するのでは、医師としては不十分と言わざるを得ません。なぜその治療が必要なのか、どのようなメカニズムで病気が治るのかという本質的な部分を理解しながら学ぶことで、表層にとどまらない良質な医療を手がけられると考えるからです。
呼吸器内科の分野には、未解明のことが数多く存在します。喘息や肺がん、COPD(慢性閉塞性肺疾患)なども、2000年代に入ってから有効な薬が実用化されました。まだ原因不明の疾患があるということは、これからの研究次第で、救える患者さんがいるということです。そのような点において、呼吸器内科は非常にやりがいのある分野だと感じています。
現在の私の使命は、呼吸器内科に進んだ医師たちがそれぞれ描いたキャリアプランを実現しやすいよう、サポートしていくことです。ひいてはより多くの患者さんを病気の苦しみから解放することにつながるでしょう。
私はこれからも誠意と熱意を大切にして、研究、患者さんの診療、そして後進の教育に力を注ぎ続けていくつもりです。
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