髙久史麿

1931-2022

髙久史麿先生を偲んで

髙久 史麿先生は、1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任され同大学の設立に尽力されました。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに取り組まれました。その後、1988年には東京大学医学部長、1993年には国立国際医療センター総長、1996年には自治医科大学学長、1997年には地域医療振興協会会長と要職を歴任され、2004年から2017年までは日本医学会第6代会長を務められました。

研究においても卓越した業績を残されており、1971年には、論文『血色素合成の調節、その病態生理学的意義』で、優れた医学研究・論文に対して送られるベルツ賞第1位を受賞。1994年に紫綬褒章を受け、2012年には瑞宝大綬章も受章されています。

また、2017年6月の日本医学会会長退任時には弊社より『栄光は輝く門出 五月晴れー髙久史麿の軌跡』を出版、2018年10月には弊社特別顧問に就任いただき、長く医学の発展と後進育成に貢献されてきた知見からご指導ご鞭撻を賜ってまいりました。

社員一同、生前のご厚誼に深く感謝するとともに、引き続き「すべての人が″医療"に迷わない社会」の実現を目指してまいります。

髙久 史麿先生は、1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任され同大学の設立に尽力されました。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに取り組まれました。その後、1988年には東京大学医学部長、1993年には国立国際医療センター総長、1996年には自治医科大学学長、1997年には地域医療振興協会会長と要職を歴任され、2004年から2017年までは日本医学会第6代会長を務められました。

研究においても卓越した業績を残されており、1971年には、論文『血色素合成の調節、その病態生理学的意義』で、優れた医学研究・論文に対して送られるベルツ賞第1位を受賞。1994年に紫綬褒章を受け、2012年には瑞宝大綬章も受章されています。

また、2017年6月の日本医学会会長退任時には弊社より『栄光は輝く門出 五月晴れー髙久史麿の軌跡』を出版、2018年10月には弊社特別顧問に就任いただき、長く医学の発展と後進育成に貢献されてきた知見からご指導ご鞭撻を賜ってまいりました。

社員一同、生前のご厚誼に深く感謝するとともに、引き続き「すべての人が″医療"に迷わない社会」の実現を目指してまいります。

髙久先生の功績

略歴

1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。公益社団法人地域医療振興協会会長、日本医学会連合名誉会長、東京大学名誉教授、日本医学会前会長、自治医科大学名誉学長、国立国際医療研究センター名誉総長。株式会社メディカルノート特別顧問。2022年3月24日逝去。91歳没。死没日をもって従三位に叙された。

受賞歴
  • 1971年 ベルツ賞第1位(論文「血色素合成の調節その病態生理学的意義」)
  • 1981年 日本医師会医学研究助成費
  • 1989年 日本医師会医学賞
  • 1989年 武田医学賞
  • 1991年 上原賞
  • 1991年 持田記念医学学術賞
  • 1994年 紫綬褒章
  • 1994年 井上春成賞
  • 1999年 日本医師会最高優功賞
  • 2001年 日本癌学会 長與賞
  • 2012年 瑞宝大綬章
  • 2016年 トーマス・ジェファーソン大学 Honorary Degree

追悼コメント

髙久先生と関わりの深かった皆様より、追悼のコメントをいただいております。(50音順)
世界医師会(World Medical Association:WMA) 名誉会長、公益社団法人 日本医師会 名誉会長、医療法人弘恵会 ヨコクラ病院 理事長
横倉 義武
感謝

高久史麿先生のご逝去の連絡を受け、生前のご恩への感謝の念と共に、心からご冥福をお祈りします。

私が高久先生とお話したのは日本医師会の役員になった2010年でした。日本医学会の会長・副会長の先生方の会議に同席を求められ、ご指導を得る事になりました。先生は朝鮮から小倉に引き揚げられ、熊本の第五高等学校から東大に進まれましたので、福岡にご縁があり、懐かしがっていただきました。先生は日本の医療の発展のためには日本医師会が健全に発展しなければいけないこと、日本医学会は医学・医療の面からしっかり支えていく事を会議のたびにお話し頂き、励ましていただきました。

日本医師会の政策は50近い会議体で全国の意見を集約し結実をさせていきますが、その中で生命倫理懇談会、学術推進会議、医療政策会議を三大会議と位置づけています。

高久先生には、生命倫理懇談会と学術推進会議の二つの議長としてお勤めいただきましたが、生命倫理懇談会の座長は平成12年度から令和元年度まで20年間にわたり取りまとめていただきました。その中でも終末期医療に関し、多くの時間を割いて検討いただき答申としておまとめいただいています。終末期の医療がどうあるべきか、国民のコンセンサスが取れていない時期から人生の最終段階の医療のあり方について、超高齢社会を迎えた我が国のあり方に多くの示唆を頂き、アドバンス・ケア・プランニングの重要性を指摘され、実践にあたっては、地域包括ケアプランニングの中で、かかりつけ医を中心に多職種が協働し、地域で支える視点を重要視され、人生の最終段階における医療・ケアの方針決定に至る手続を明らかにされました。現在、多くの医療現場で活用され、高齢者の方は安らかな人生の終末を迎えられています。

学術推進会議では医療の質の向上に向けた検討を行っていただき、「科学的根拠に基づく医療(EBM)と診療ガイドライン」「専門医のあり方」「かかりつけ医の質の担保」など、多岐にわたる提言をいただき、新たな専門医機構や専門医としての総合診療医が実現し、我が国の医療の質の向上に大きな力になると思います。医療安全にも大変なご尽力をいただき、日本医療安全調査機構で予期しない死亡の原因を調査し、再発防止を図ることにより医療の安全をすすめられました。
先生は医学のみならず我が国の医療体制に大きな道筋を作っていただきました。有難うございました。

Web医事新報 『追悼 高久史麿先生』(https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=19466)より転載

日本医学会 会長、日本医学会連合 会長、堺市立総合医療センター 理事長
門田 守人
髙久史麿先生との出会い

髙久先生との出会いは筆者にとっては正に運命そのものという感じが致します。ご高名な先生のお名前は早くから存じ上げていても、大阪の大学で働く歳の離れた消化器外科医にとっては、内科でしかも血液内科という消化器外科からは程遠い領域の先生と中々接点となるものはありませんでした。そのような理由から、先生とは個人的にお話しする機会はずっとなかったのであります。

髙久先生にお目にかかる様になったのは、筆者が2006年に日本外科学会長に選出され日本医学会(医学会)の一分科会の会長として医学会の行事に関与するようになってからであります。最初に医学会との関係を意識したのは、年度初めに医学会から例年通り各分科会に助成費を送金するということで、外科学会の送金先の確認の連絡が入った時であります。通常であれば、所属している親組織に対して各加盟学会が年会費を支払うものと理解していたのですが、逆に、親組織から助成費をいただくということはどういう関係かと疑問が生じました。その理由を調べていくうちに、医学会は独立した組織ではなく、自らの定款も持たないで、日本医師会(医師会)定款に則って運営されている医師会の下部組織であることを知りました。自主的に学術活動をしている外科学会が、医師会の下部組織である医学会の一分科会として結果的に医師会から助成費を受け取っていることを知ったのでありますが、果たして利益相反の観点から正しいことであろうかと疑念を抱き始めました。そこで、医学会に申し入れて、2006年8月16日に日本医師会館で「日本医学会分科会助成費についての緊急懇談会」を医学会の髙久会長、出月康夫副会長と外科系7分科会、日本内科学会の代表者の出席のもとに開催していただきました。これが髙久先生と初めて対話する機会になったのであります。非常に深刻な話題からのスタートでありましたが、ここで、問題意識の共有化ができたものと思います。そこで、助成費制度はこの年度で廃止となったのであります。

この様に始まった髙久先生との関係でありましたが、引き続き2006年12月8日には外科学会会議室で臨床系学会連絡会議(仮)を開き、髙久先生ご出席のもと48の医学会臨床系分科会が集まり、医学会の在り方について忌憚のない意見交換をして、種々の改革案が出され、翌年2月の定例評議員会でこの内容が会長提案として示され、部会の再編や臨床部会連絡協議会の発足等が決められ、医学会の改革が始まったのであります。
このようにスムースに改革が進んでいったのには理由があります。実は、髙久先生は日本医学会長に選任された最初の定例評議員会において、「医学会が、日本医師会に属する事が医師会の定款になっているが、そのような状況で良いのか、今後慎重に検討していきたい」と述べられ、当初からこの点について問題意識を持っておられたのであります。それから8年を経て2014年に日本医学会の法人化が実現したのであります。

髙久先生は、日本医学会・日本医学会連合の会長を退任された時、ある雑誌社のインタビューで「日本医学会長として取り組んだことは」の質問に対し「一番の取り組みは日本医学会の一般社団法人化です。」と答えられています。66年振りの大改革をご自身でも強く認識されて、満足されてのご回答だったと思います。この改革のお手伝いをさせていただけたことを心より感謝申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。

謹んでご冥福をお祈りいたします。(合掌)

順天堂大学血医学部内科学血液学講座准教授
髙久 智生
父の思い出

この度は父に関するこのような企画を発案くださり心から御礼申し上げます。本稿では、私から見た父について書かせていただきます。

私は血液内科医の道を選択しましたので、比較的沢山の方々から父のお話をお伺いする機会があったわけですが、そのたびに私の知っている父親と、皆様がご存じの髙久史麿先生とのギャップをいつも感じておりました。
仕事場での父は温厚で、仕事は早いうえに決断力があり、そしてスピーチはユーモアを少し織り交ぜながらも短めに、まさにスーパーマンでありました。しかし、自宅での父は大変無口で、せっかちであるうえに短気で、いつも仕事ばかりしていました。父が短気であるとお話しすると驚かれる方も多いと思いますので、いくつかのエピソードをお話し致します。
先ずは、父から聞いた話ですが以前スバル360に乗っていた時に、前を走る遅い車に対して、手動で窓を開けて、“早く行け馬鹿野郎!!”と怒鳴っていたんだと自慢しておりました。また、父の運転で出かけるときには、助手席は家族としては最も避けたい場所でありまして、 “何故地図をみているのに間違えるんだ!!” と結局は母がよく怒られていたのを思い出します。まだまだあるのですが、これ以上お話しすると父に怒られてしまいそうですので、これくらいにさせて頂きます。

父と過ごした51年間の中で同居した最後の1年間は、私が感じていたそんなギャップを少し埋めることが出来たと思います。特に、私達夫婦が中心となって父を支えた最後の6か月間は、介護について、治療について、そして父の今後について悩む毎日でした。ただ、それと同時に父を支えてくださる沢山の方々に対する“感謝”の日々でもあり、お陰で私達夫婦は多くの“経験”と“学び”を、さらには素晴らしい“ご縁”を頂くことが出来ました。

辛く苦しい日々でも父は常に前を向き、諦めること無く病気と闘い続け、ユーモアを決して忘れず冗談を言う父に私達は幾度となく救われました。
さらに、父の「自宅で最後を迎えたい」という一番の望みをかなえるために、昨年3月からの同居の期間だけでなく、母の事も含めて、献身的に介護をしてくれた私の妻には心から感謝しています。妻無くしては両親の介護は成り立ちませんでした。

そのおかげもあり、最後は大好きな家族に見守られながら静かに旅立って行きました。

本当に父は最後の瞬間まで幸せな人生であったと思います。
その証拠に私にはっきりと申しておりました。
“自分の人生はやりたいことを、やりたいようにやった”と。

髙久史麿の遺志を受け継ぐものとして、私のこれからの使命はお世話になった方々へのご恩返しであります。いつの日か、天国で両親と再会した時に、胸を張って報告できるよう、これからも精進してまいる所存です。

生前の父へのご厚誼に改めて感謝すると共に、父と関わってくださった全ての方々の益々のご発展とご活躍を祈念致します。

日本赤十字社名誉社長
大塚 義治
感謝と深い哀しみと

医学の「い」すら知ることのない私としては、髙久史麿先生追悼特集の企画に寄稿することが適切かどうか、逡巡するところがあったのだが、先生に対する感謝の思いを表する機会になるとすれば望外のことと考え、お許しいただくこととした。

髙久史麿先生の訃報に接したのは、公益財団法人難病医学研究財団のスタッフを通じてだった。私は数年前から同財団の理事長を拝命しており、髙久先生には、同財団の評議員会会長を長くお務めいただいていたから、最近ご体調がすぐれないことを多少は耳にしていたが、ご逝去の報は思いもよらないことであり、大きな衝撃であった。同時に、深い悲しみに襲われ、〝人懐っこい〟と表現していいだろうか、先生のあの独特の笑顔ばかりが繰り返し眼前に浮かんできた。
髙久先生は、いわば医学界の文字通り〝重鎮〟というお立場にあられたから、もちろん私も厚生労働省在職中から存じ上げていたし、お会いすれば、いつもにこにこと気さくにお声をかけていただいた。しかし、より頻繁にお目にかかり、より親しくさせていただくようになったのは、私が退官し、日本赤十字社に奉職するようになってからかもしれない。
それも、日赤の仕事にからんでということではなく、例えば他の団体やNPOの活動等に関連して、ご一緒したりお話をすることが格段に増えたような気がする。それは、これまでとは違った角度で髙久先生の謦咳に触れることができ、私にとってはたいへんありがたく貴重な機会となった。
高名な方であられたから、数え切れないほどの団体や組織の代表、役員等に名を連ねておられたが、私が驚いたのは、決してお名前だけのことではなく、実際にそれぞれの活動に参加し、大きな貢献を果たされていることであった。
こんな思い出がある。
東日本大震災の後、被災地の復興支援を目的として数多くのNPO等が生まれたが、その一つに、被災地の人々の健康支援を行う、ある小さなNPOがあった。私も、縁があってこの活動に関わっていたが、役員に髙久先生のお名前も掲げられていた。
震災一、二年後の週末のことだったと思うが、福島県のある市で、この団体が主催する市民を対象としたセミナーが開かれ、私も見学方々参加していた。この冒頭の挨拶に、時間ギリギリになって髙久先生が駆けつけられた。そして、ご挨拶が終わると、先生は着席するいとますらなく、ただちに東京への帰途につかれたのである。
被災地の方々への励ましと、小さな団体の活動支援という目的があったとはいえ、わずか数分のために多忙な時間を割かれ、新幹線でまさに蜻蛉返りをされたのである。私はその真っ直ぐで温かいお気持ちがいやというほどに感じられ、心の底から感激し、感服した。
この出来事から、さらに連想したことがある。以前、先生の自伝とも言うべき小冊子をちょうだいしたことがある。その中で、私が強く心を打たれたあるエピソードがあった。
「最も嬉しかった手紙」と小題が付されていた。
髙久先生が2012年秋の叙勲で瑞宝大綬章を授与されたとき、たくさんのお祝いの手紙が寄せられた。その中に、先生が東大病院中尾内科時代に指導医として治療にあたった白血病患者の方のお兄さんからのものがあった。
患者さんは懸命な治療の甲斐なく亡くなることになるのだが、学会の都合でその最期の場に立ち会うことができなかった髙久先生は、お別れのために、おそらく遺骨を抱いて郷里に向かうのであろう親族の方を訪ねて羽田空港まで出向かれたという。
「最も嬉しかった手紙」とは、患者のお兄さんが、先生の叙勲のお祝いとともに、あのときの感謝と感激を熱く綴ったものなのだが、羽田空港でのお別れから、何と、四十二年という歳月が経過していた――。
私は、この逸話に、医学医術の水準の高さといったこととはまったく別の意味で、医師、医学者の〝真髄〟を見たような気がした。前述の被災地支援のエピソードも、何か重なるものがあるような気がしてならない。
もう一つ、私の知る髙久先生について触れておきたい。こちらは、ある華やかなパーティでのひとコマである。
大きな会場だったが、たまたま隣り合わせの席となった髙久先生が、私の耳元に小さな声で何事かをささやく。同じテーブルの向かい側に座っているのは誰かと言うのである。その席にいたのはよく知られた女優の方で、それをお伝えするとうなずいておられた。
そこから先は、私が勝手な忖度をして、彼女に髙久先生とのツーショットをお願いし、後日、先生に出来上がった写真をお届けした。これも私の勝手な判断ではあるが、かなり喜んでいただけたのではないかと思っている。
こんな、いかにもささやかで、しかも私限りの密やかな思い出が、懐かしくも言いようのない寂しさとともに浮かんでくる。

先生との永のお別れが現実のものとなってみれば、あれもお聞きしておけばよかった、これも教えを乞うべきであったと悔やみたくなることも多々あるが、もはやそれも詮ないことと言わざるを得ない。今となっては、生前のご厚誼に心から感謝申し上げるとともに、髙久史麿先生が安らかにお眠りいただくことを、ただひたすらお祈りするばかりである。

読売新聞グループ本社 代表取締役会長・主筆代理・国際担当(The Japan News主筆)
読売新聞東京本社 取締役論説委員長
老川 祥一
髙久先生の「目利き力」に感謝する

医学、工学、薬学などの若手研究者らが将来、ノーベル賞を取れるほどに成長してほしい、という願いを込めて創設したのが、読売テクノ・フォーラムの「ゴールド・メダル賞」だった。1995年のことである。2004年の受賞者である京都大学の山中伸弥さんが12年に見事、ノーベル生理学・医学賞を受賞したのをはじめ、19年までの25年間に受賞した73人と2チームはみな、現在それぞれの分野で活躍中で、日本の科学技術のレベルアップに貢献してくれている。
このようにゴールド・メダル賞が大きな成果をあげることができたのも、たくさんの研究内容の審査にあたってくれた選考委員の先生方の、「目利き力」にあった。その中心におられたのが、医学担当の髙久史麿先生である。
先生には07年から12年間にわたって、毎回丁寧に精査し、ご自分の専門外の論文も丹念に読み込んで、的確なご意見を述べていただいた。受賞者による講演会や研究者らとの交流会などにも出席し、熱心に聞き入っておられた姿が目に浮かぶ。
発足当初は賞の応募者もさほど多くなかったのが、医学界の第一人者の髙久先生が選考にあたっておられると知ってだろう、がぜん応募数がふえて賞のステータスが高まったのも先生のおかげだ。
近年は日本人のノーベル賞受賞者がふえ、ゴールド・メダル賞も19年に、初期の目的を果たして役割を終えた。その後、髙久先生にお目にかかる機会がないまま永のお別れになってしまったのは残念の極みだが、歴代受賞者たちのこれからのご活躍を、先生は天上から優しいまなざしで見守ってくれていることだろう。

NPO法人ロシナンテス理事長
川原 尚行
小倉高校の大先輩、髙久史麿先生

髙久史麿先生と知り合うことができたのは、群馬大学学長を務められた鈴木守先生のお陰です。鈴木先生には、私が外務省の医務官としてタンザニアに勤務していた際に、群馬大学で行われたマラリア研修で大変お世話になりました。その後、スーダンに勤務し2005年に外務省を辞して同国で医療支援活動をはじめますが、鈴木守先生にいろいろと助言をいただきました。私たちの団体であるロシナンテスを設立・運営するにあたり、母校である小倉高校の同窓生の方々から多大な支援を受けていましたので、そのことを鈴木先生にお話しすると先生は「たしか髙久史麿先生は小倉高校の卒業じゃないかな」と言われたのです。この時は言葉にならないくらいに驚きました。

髙久先生に最初にお会いする機会で、私が小倉高校の後輩だということを告げると、あの優しい眼差しで、「僕は本当のところは小倉中学出身なんだよね。旧制小倉中学、小倉高校野球部が全国大会で二連覇したでしょう。あの時の福嶋投手たちと同級生なんだ!」と誇らしげに言われました。
1947年、春の選抜で小倉中学は準優勝、夏の大会で全国優勝です。学制改革があり小倉高校となった1948年、春の選抜では一回戦で敗退するも夏の大会ではまたしても全国優勝したのです。翌年は、準々決勝で敗退したのですが、その時の小倉高校の投手が無意識に甲子園の土をズボンのポケットに入れて持って帰っていったという伝説があります。その伝説の投手が福嶋一雄さんであり、髙久先生と同級生だったのです。
小倉高校は、私が中学3年生の時に春の選抜で甲子園に行ってから40年以上出場できていないことを考えると隔世の感があります。髙久先生が目を輝かせて、その当時の話をされますので、私まで高揚感を抱いたものです。

小倉高校創立百周年の記念行事があり、校長先生から髙久先生に記念講演をしてもらいたいと相談がありました。髙久先生はきっと喜んで引き受けてくださるだろうと私も心が弾んで髙久先生に小倉高校の申し出を取り次ぎました。髙久先生は、「僕なんかより、日本銀行総裁である白川方明さんや、NHK会長であった福地茂雄さんが適任じゃないのかな」と言われましたが、医学部を志している高校生が多いことや、何より私自身が髙久先生に記念講演をしていただきたいとの個人的な思いもあり、先生に強くお願いをして最終的に承諾してもらいました。

2008年、小倉高校創立百周年記念として髙久史麿先生の講演が行われました。私もスケジュールを合わせて日本に帰国していましたので、卒業生として先生の講演を聞くことができました。先生はご自分の高校時代の思い出を、顔を綻ばせながら話をされました。今はもう無くなった西鉄電車(路面電車)で通学の途中、電車の中に可愛い女の子がいて先生は一目惚れをしたそうです。そしてその女の子を見るだけのために電車に乗るようになったそうです。その女の子は近くの西南女学院に通っていたのですが、小倉高校と登校時間が若干ずれていたために髙久青年は連日遅刻をしていたそうです。そんなことが許される高校生活とはなんと牧歌的なのでしょうか! このような青春時代を過ごした上での先生の医学会でのご活躍に、小倉高校生は驚いたに違いありません。
当時高校1年で同校に在籍していた息子と一緒に髙久先生の講演を拝聴し、高校の同級生であった妻とともに家族で髙久先生のことが話題になり大いに盛り上がりました。

2009年、日本看護協会とジョンソン・エンド・ジョンソン社が共催するヘルシー・ソサエティ賞を光栄なことに私が受賞することになりました。これは髙久先生と髙久先生の高校大学の後輩となられる紀伊國献三先生のお陰であります。笹川保健財団理事長でもあった紀伊國先生が私の推薦人となってくださり、髙久先生が授賞式のプレゼンターを務めてくださいました。授賞式には妻も同席することができ、我々夫婦にとっての高校の大先輩であるお二人に授賞式でご挨拶できたことは本当に光栄なことでした。

髙久先生は、私や周囲の方々に、「川原さんがアフリカで支援活動ができているのは奥様のおかげですよ」と仰ってくださいました。妻は、私が外務省を辞したときに、北九州市で小学校の先生として再就職し我が家の家計を支え、3人の子供を育ててくれていたのです。髙久先生は、ご自身がご家族を大事にされていらっしゃるからこそ、そのような言葉をかけてくださったのだと思われます。髙久先生には本当に感謝の言葉しかありません。

髙久先生が自治医科大学の学長をしていらっしゃる時のこと、たびたび私も自治医科大学を訪問しました。自治医科大学という地域医療のために作られた大学というのは世界でも珍しい存在です。髙久先生は、地域医療とアフリカの医療という共通点を見出そうと、私を客員教授にしてくださり、自治医科大学の関係者と話をする機会を作ってくださいました。髙久先生には多くの先生の紹介をしてもらいました。中でも現在慶應大学でご活躍の小林英司先生と知り合いになれたのは至上の喜びでした。自治医科大学の学生に呼ばれて学園祭で講演を行ったこともありますし、ラグビー部の連中とも仲良くさせてもらいました。自治医科大学と関われたことは私にとって大きな財産となっています。

先生の訃報はスーダンにいる時に届きました。いつもお元気な姿しか知りませんでしたので、本当に愕然としました。髙久先生の秘書を務められていた能見佐和子さんにスーダンから電話をして先生の様子を伺っているうちに涙がこぼれてきました。妻が先生の弔問を行いたいと言っていましたので、帰国した成田空港から都内へ移動し、上京してきた妻と合流して先生のご自宅に弔問に伺いました。突然の訪問を受け入れてくださった髙久智生先生ご夫妻には本当に感謝を申し上げます。先生のお写真は、いつもの優しい眼差しで私たちを見つめているようでした。智生先生の奥様から、高久先生はロシナンテスからの活動報告書をよくご覧になられていたことを伺い、最後まで私たちを応援してくれた髙久先生の思いに涙しました。

私自身、日本の地域医療とアフリカでの医療をどのように進めていったら良いのか、スーダンで20年近く支援活動をしてきてようやく進むべき方向がみえてきたのではないかと思えるこの頃です。もう髙久先生にお会いして相談することは叶いませんが、先生ならどうなさっただろうと考えながら、この先もアフリカでの医療を進めていき、いつか日本の地域医療に結び付けられるように頑張っていきたいと思います。

髙久先生、本当にありがとうございました。

東京大学大学院医学系研究科 糖尿病・代謝内科 教授
山内 敏正
髙久史麿先生を偲んで

髙久史麿先生のご訃報を受け、生前のご恩への感謝の念と共に、心からご冥福をお祈り申し上げます。

髙久先生に初めてご指導いただいたのは、医学生として第三内科にお伺いした時でした。受け持ち医による新入院と週間の症例プレゼンテーションに対して、髙久先生が要を得て簡潔にご指導され、一人ひとりの患者さんが抱えるmultimorbidityに関し、それぞれの専門家チームを凛としたご姿勢で統率し、重要度を的確にご判断されて方針を決めていかれるのは圧巻でした。「総合内科」としてのあり方、髙久先生の第三内科教授としての矜持に感銘を受けました。

直接のご指導をいただくようになったのは、しばらくの時を経てでございました。髙久先生の臨床の専門分野は血液・腫瘍で、私は糖尿病・代謝で異なりましたが、東京大学における「肥満が糖尿病を惹起する分子機序解明と診断・予防・治療への応用研究」が髙久先生の御目に留まり、表彰していただく機会を賜ることがございました。研究内容の詳細について髙久先生に説明させていただく為、医師会館内の医学会長室で直接お会いしていただくことになり、大変緊張してお伺いしたことを今でも鮮明に覚えております。髙久先生は、温和な笑顔とお人柄が溢れるお話ぶりで、優しく、温かく激励してくださいました。さらにご自身で勉強されたとのことで、「全ゲノム関連解析GWASの研究でも2型糖尿病の新規感受性領域を複数同定していて素晴らしい」とお言葉を賜ったのは望外で、この上ないモチベーションになりました。
髙久先生は大変勤勉でいらっしゃり、重要な原著論文にはほぼ全て目を通され、糖尿病に関する論文に関して少しでも質問が生じた際には、以来直接、重要性や意義に関してお問い合わせいただくようになりました。「絆」を大切にして、どこまでも高みを目指して「努力」し続けて知を極めようとされる志や、髙久先生の秀でたご見識を学ぶかけがえのない機会をいただきました。

髙久史麿先生のご逝去にあたって、長きにわたってご指導いただきましたことを深く感謝申し上げます。有難うございました。ご生前のご功績を偲び、謹んで哀悼の意を表します。

思い出のお写真

髙久史麿先生の思い出のお写真を髙久智生様からご提供いただきました。
また、2022年6月26日に「髙久先生お別れの会」が行われました。

髙久先生と
メディカルノート

髙久史麿先生には創業間もない時期より大変あたたかくサポートしていただき、特別顧問として弊社の発展に尽力していただきました。右も左も分からない状況でご挨拶に行った若輩者の私をとても丁寧に迎え入れて下さったときのことは今でも忘れられません。

何度か取材などでお世話になる中で、より深いご縁をいただいたのは「母の手記が出てきたけれども、これを一度読んでいただけないか」と髙久先生からお電話をいただいたときからであったと記憶しています。その後、駒込の日本医学会会長室にお伺いさせていただきました。
拝読させていただいたところ、さすが髙久先生のお母様というような素晴らしい内容でしたが、どうもいろいろお聞きしていると紙として残っているだけで、電子化もされていないとのこと。「この1枚がなくなってしまったらそのまま埋もれてしまうので、何とかしたいと思っている」とおっしゃっていました。
そのようなご縁があって、日本医学会の会長退任時には髙久先生のお母様の手記と合わせてご提供いただいた自叙伝をメディカルノートから刊行させていただきました。髙久先生よりサインをしていただいた上で、各所で配布していただいたようで、様々な感想をお聞きしました。
その時のことを以下、日本医事新報に記載していただいたときには大変感激しました。
https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=9087

刊行や修正にあたっては、長門宏子さん、大槻あかねさんにも大変お世話になりました。

また、日本医学会会長退任後にも「英語の論文をいろいろ読んでいるけれども、広く世間に発信ができないか」ということでお電話をいただきました。この時には永田町の海運ビルの地域医療振興協会会長室にお伺いさせていただきました。拝見すると、論文を元にご自身の考察も含めてまとめておられ、学問に対して真摯な姿勢に大変感銘を受けたものです。メディカルノートNEWS&JOURNALとYahoo!ニュースにも掲載させていただき、人気のコーナーになりました。髙久先生は移動やちょっとした待ち時間の時にでもいつでも勉強されており、ご自身が持参していたものを読み終えてしまうと「何か勉強することはないか」ということで私が持っていたビジネス誌などをお貸しすることもありました。
メディカルノートがCMを放映する時にはぜひお世話になった髙久先生に出演していただきたいと思い、吉新通康先生にも合わせてご依頼させていただいたところ快諾いただき、鶴見のスタジオでの撮影にお付き合いいただきました。撮影後の乾杯の挨拶や会食などでも若手医師に向けてユーモアに富んだお話をたくさん頂戴しました。
その他にもお食事も何度もご一緒させていただきました。ステーキなども完食されており、終わった後にはご自身でいつも歩いて帰宅されていました。

髙久先生からメディカルノートにいただいたメッセージを再掲させていただきます。

“真に有用な情報を発信するために、メディカルノートには次の2点を大切にし続けてほしいと願います。
ひとつは、本物のスペシャリストへの丁寧な取材により一次情報を得ること。 もうひとつは、針小棒大な伝え方をしないことです。
健康や生命に関わる医療情報を記事化することは、「話題になる記事」を作ることではありません。 信頼できる医療情報はともすると退屈になりがちです。 そんな地味な情報でも一生懸命に提示し続けていくことが、真に患者さんや医療者の信頼を得ることにつながります。
これからは医療人自身もより情報発信をしていかねばなりません。 メディカルノートには良識ある医療人のサポートを期待しています。”

“メディカルノートはエビデンスに加えてエクスペリエンスの発信を大切にしてきました。日本においても普及しつつあるEvidenced Based Medicine(EBM)は、臨床経験をとても大切にしています。EBMの定義の中にwith "clinical expertise"(熟練した臨床経験/技術)があることは1996年にDavid SackettがBMJで述べている通りです。
Medical Note Expertにおいてもエビデンスと共に、臨床現場における生きた「経験」がデジタルの力を用いて共有されることを期待しています。”

髙久史麿先生から頂戴したお言葉やご厚誼を大切に、これからも信頼できる医療情報の発信を通して全ての方が医療に迷わない世界を創っていきます。本当にありがとうございました。

2022年7月
株式会社メディカルノート代表取締役・共同創業者/医師・医学博士 井上祥

髙久史麿先生には創業間もない時期より大変あたたかくサポートしていただき、特別顧問として弊社の発展に尽力していただきました。右も左も分からない状況でご挨拶に行った若輩者の私をとても丁寧に迎え入れて下さったときのことは今でも忘れられません。

何度か取材などでお世話になる中で、より深いご縁をいただいたのは「母の手記が出てきたけれども、これを一度読んでいただけないか」と髙久先生からお電話をいただいたときからであったと記憶しています。その後、駒込の日本医学会会長室にお伺いさせていただきました。
拝読させていただいたところ、さすが髙久先生のお母様というような素晴らしい内容でしたが、どうもいろいろお聞きしていると紙として残っているだけで、電子化もされていないとのこと。「この1枚がなくなってしまったらそのまま埋もれてしまうので、何とかしたいと思っている」とおっしゃっていました。
そのようなご縁があって、日本医学会の会長退任時には髙久先生のお母様の手記と合わせてご提供いただいた自叙伝をメディカルノートから刊行させていただきました。髙久先生よりサインをしていただいた上で、各所で配布していただいたようで、様々な感想をお聞きしました。
その時のことを以下、日本医事新報に記載していただいたときには大変感激しました。
https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=9087

刊行や修正にあたっては、長門宏子さん、大槻あかねさんにも大変お世話になりました。

また、日本医学会会長退任後にも「英語の論文をいろいろ読んでいるけれども、広く世間に発信ができないか」ということでお電話をいただきました。この時には永田町の海運ビルの地域医療振興協会会長室にお伺いさせていただきました。拝見すると、論文を元にご自身の考察も含めてまとめておられ、学問に対して真摯な姿勢に大変感銘を受けたものです。メディカルノートNEWS&JOURNALとYahoo!ニュースにも掲載させていただき、人気のコーナーになりました。髙久先生は移動やちょっとした待ち時間の時にでもいつでも勉強されており、ご自身が持参していたものを読み終えてしまうと「何か勉強することはないか」ということで私が持っていたビジネス誌などをお貸しすることもありました。
メディカルノートがCMを放映する時にはぜひお世話になった髙久先生に出演していただきたいと思い、吉新通康先生にも合わせてご依頼させていただいたところ快諾いただき、鶴見のスタジオでの撮影にお付き合いいただきました。撮影後の乾杯の挨拶や会食などでも若手医師に向けてユーモアに富んだお話をたくさん頂戴しました。
その他にもお食事も何度もご一緒させていただきました。ステーキなども完食されており、終わった後にはご自身でいつも歩いて帰宅されていました。

髙久先生からメディカルノートにいただいたメッセージを再掲させていただきます。

“真に有用な情報を発信するために、メディカルノートには次の2点を大切にし続けてほしいと願います。
ひとつは、本物のスペシャリストへの丁寧な取材により一次情報を得ること。 もうひとつは、針小棒大な伝え方をしないことです。
健康や生命に関わる医療情報を記事化することは、「話題になる記事」を作ることではありません。 信頼できる医療情報はともすると退屈になりがちです。 そんな地味な情報でも一生懸命に提示し続けていくことが、真に患者さんや医療者の信頼を得ることにつながります。
これからは医療人自身もより情報発信をしていかねばなりません。 メディカルノートには良識ある医療人のサポートを期待しています。”

“メディカルノートはエビデンスに加えてエクスペリエンスの発信を大切にしてきました。日本においても普及しつつあるEvidenced Based Medicine(EBM)は、臨床経験をとても大切にしています。EBMの定義の中にwith "clinical expertise"(熟練した臨床経験/技術)があることは1996年にDavid SackettがBMJで述べている通りです。
Medical Note Expertにおいてもエビデンスと共に、臨床現場における生きた「経験」がデジタルの力を用いて共有されることを期待しています。”

髙久史麿先生から頂戴したお言葉やご厚誼を大切に、これからも信頼できる医療情報の発信を通して全ての方が医療に迷わない世界を創っていきます。本当にありがとうございました。

2022年7月
株式会社メディカルノート代表取締役・共同創業者/医師・医学博士 井上祥

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