インタビュー

栄光は 輝く門出 五月晴れ-子どもが親元を離れるとき

栄光は 輝く門出 五月晴れ-子どもが親元を離れるとき
髙久 史麿 先生

公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

髙久 史麿 先生

この記事の最終更新は2016年12月26日です。

これまで4回にわたり公開してきた「高久史麿先生の母の手記」も、今回で締めくくりとなります。東京大学受験に合格した高久史麿先生を、地元九州から送り出したお母様の心情とは、子どもを持つ全ての親の胸中と通ずるものがあります。ぜひ、御覧ください。            

 旅行好きの長男は、東京、東北と汽車に乗り回っている間、貴方はどこにも行かず毎日毎日私の愚痴を聞きながらニコニコと笑い、コツコツとお勉強を続けていました。勉強するときも熱心に、また、遊ぶ時も熱心に、よく学びよく遊べの中学三年生でした。試験発表と言いながら、不良らしき友達を連れて来て薄暗い玄関先で将棋に夢中になっていた時もありました。毎日毎日が愉快らしく何の苦労も無き風情で三年、四年と進学。四年生になりますと、上級学校(旧制高等学校)進学のための勉強、あの敗戦後の日本、停電停水、親も子も大変な時代でした。家財道具は何もないガランとした部屋、あるのは机だけ、その机にローソクを二本立て配給の軍隊払い下げの国防色の外套を引きかぶり夜遅くまで来る日も来る日も猛勉強、その時の勉強は英語の辞書を全部暗記してしまったほどの苦闘ぶり、案ずるに余りあります。試験が近くなり担任の先生が来訪

「小倉中学校から高等学校(旧制)受験は熊本の第五高等学校よりも福岡の福岡高等学校の方が高率だ。お兄さんも福岡高等学校に行かれている故、史麿君も福校の方に。」

との勧めがありました。私は、先生に一任しました。先生は、貴方に一時間余りの時間を費やして福高行きを勧めたそうです。貴方曰く

「先生、僕は五高か一高でなければ行きません。不合格になってもよいから五高を志望します。」

大きく出たものです。幸いに昭和二十二年の春見事五高に合格、通知とともに私は何処かでその当時高等学校の学生のシンボルであるマントを求めてお祝いとしました。貴方は、馬糞紙で五高の柏のマークを作り、古い帽子に白線二本を巻き付け手製のマークにマント姿でその日お兄ちゃんと二人写真を撮りました。その恥ずかしそうな嬉しそうな写真は今も大切にしまってあります。

その時あなたは十四才、親元を離れての寮生活の第一歩。これ又よく遊びよく学べの流儀で成績も良く案じることもなく進級。その時代、よく貴方は物理学者になるのだと言っていました。私は

    「まあまあ何にでも好きなものになって下さい。道を外さぬように。」

と、ある日突然

    「僕、医者になるよ。」

    「ハア、これまた何にでも好きなものになって下さい。」

当然九大の医学部志望のようでしたが、これまた突然三年の二学期頃に東大医学部の希望に転じました。高等学校生活の三年二学期も終わり冬休み帰宅。狭い家ながら貴方の勉強部屋を御不浄の隣に三畳ほど建て増ししました。貴方は昼は眠り、夜中丹前を頭からかぶり夜明けまで、私が起きてトイレに行き

    「おはよう。」

と声を掛けますと貴方は眠そうな目で

    「お母さんこの部屋は便所臭いよ。」

と嘆かわしそう。

    「ヨシヨシ便所哲学といって臭い所が一番頭に入るものだ。」

誠、勝手な親の哲学でした。今から考えると恥ずかしい。(これはまた、余談になりますが、その年だけ旧制高等学校の最後の年で、何らかの理由で九大、東大両方受験出来るシステムになったとかで貴方は両方に願書を出したそうです。)先に、九大の試験を受けるために、便所臭い部屋から出てきた貴方は

    「万歳、万歳」

と言って勉強は終わりだと万歳三唱のなかに九大受験のため福岡に出発、受験の二日間はお兄ちゃんのお友達の九大医学部の早田君の家にお世話になりました。早田君の後日談によると

「高久の弟変わっているぞ。試験受けに来て一ページもノートを読まず、アハハアハハと笑いどうしだった。」

と、九大は学科試験と同時に体格検査があり、それらを終えるとその日の午後東大受験のために博多駅から東京駅に直行のためその日の七時頃小倉駅の急行列車をお兄ちゃんと二人ホームで待ちました。ニコニコと汽車の窓から顔を出した貴方は

    「お母さん、九大は大丈夫よ。」

と自信ありげ、まあまあよかったと一安心。長男曰く

    「まぼさんが大丈夫と言った以上完璧だったかも判らないよ。」

と耳元で囁きました。

    「人間に完璧なし。」

と窘めましたが果たせるかな完璧だったらしいです。そのことは後のページで述べます。

電報を届ける配達員

東大試験を済ませて帰宅した貴方は

「東大は皆目自信なし。夜十時に東京駅着。朝九時試験会場、山が当たったのは生物だけ。」

と言いました。二頭を追うもの一頭も得ず、欲を出すべからず。それから間もなく九大から合格の電報

    「これが東大だったらなー。」

と嬉しそうな様子もなし。数日後、東大からの合格通知

    「万歳、万歳」

玄関先の電報配達の人は唖然として棒立ちの恰好

    「お母さん、もしかしたら僕、九大はトップ合格だったかもしれん。」

大学入学、一番は万人に一人、千人に一人だ、人間は自惚れが第一の危険なり。といましめました。

四月十日

    「本当だろうか。本当だろうか。」

と不安げに東大入学のため東京に出発。本人が心配するので側の者は一層不安です。四月十二日、九大から

    「タカクフミマロ、ニュウガクシキニクルカコナイカ。」

のウナ電。おかしなことだ、合格者の一人一人にウナ電を打っていたら費用も大変だろうにと考えていましたら、その当時九大の工学部三年在学の私の姉の子が来訪、

「史麿さんはどうしたのですか。四月十三日九大の校門の入り口と玄関の入り口に大きな看板に(高久史麿事務所に出頭すべし)と書いてあるのに史麿さんの姿はなし。」

と、貴方達の予想通り九大は一番でパス。貴方は入学式の当日、答辞を述べる予定だった由。しかして貴方は上京、いかんともしがたくそのままにしておりますと、一ヶ月余り後東大と九大二つの大学に籍があることが判明すれば二つとも駄目になると貴方からの手紙、それは大変と九大の方に取り消しの手続き。嬉しき悲鳴でした。その時の九大からの合格通知、ウナ電、九大の規則書、封筒はボロボロになりながら家の宝と大切に保存しております。

汽車を見送る女性

東大入学時は昭和二十四年四月、早生まれで中学四年から五高に入学の貴方は十七才。誰からも可愛がられ、皆から好かれた貴方、体のことが心配で

    「煙草は吸うべからず、酒少々は呑むべし、女は切るべし、」

三カ条の宣文の元に旅立ったとは言え少年の身の上が案じられ子供達が飛び去った私の懐には空っ風が吹き、大きい空洞が出来ました。

 

       絣着て吾が手に在りし子は遠し

       赤門の銀杏並木を誰と歩く

       葉桜や母と言う名に強く生き

       子のためにも線も崩さぬ花菖蒲

       三四郎池誰と写すや水鏡

 

次ぎ次ぎと駄作を屑籠に捨てたのも、その当時でした。また、その頃貴方の好物を大きな小包にして下宿先なる本郷YMCAに送りました。喜んでお友達と配けているだろうと思いきや、貴方からの手紙は

「お母さん、これからは小包等送らないように。僕はお母さんのことを思うと勉強が出来なくなる。」

との返事。その時私は考えました。最もだ。貴方は私の愛情が大きな重荷になると、それ以来貴方への愛情はひたすら学資金を送るのみ、厳しい象牙の塔の中に在る貴方を遠くから見守る親であることを深く心に誓いました。

 昭和二十九年東大医学部卒業、沖中内科研究室、昭和三十五年学位拝受、同三十五年群馬大学中尾内科勤務、同三十七シカゴ大学留学、同三十八年帰国、同年東大中尾内科勤務、お見合いまたお見合いお見合い、同三十八年十月十日結婚、あれよあれよと見上げるうちに今日の栄光に輝く子供に完成してしまっていました。

    「千の年より子は宝。」

これ以上の親孝行はありません。今日ある貴方は、貴方が時計の秒針がコチコチと進むごとく「コチコチ」とたゆまなき努力と研鑽あるは申すに及ばぬことながら、大恩ある沖中先生、中尾先生の偉大なるご指導のおかげであること夢夢忘れてはなりません。これからも身体に気を付けてよき医者であるとともにより良き学研者であることを神仏に念じ続けます。

 

   昭和五十七年五月十日 東大教授拝命の日

      「栄光は輝く門出五月晴れ」

          「愚作一首添えて」       

                        昭和五十七年十月二十七日病室にて

 

  • 公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

    日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員

    (故)髙久 史麿 先生

    公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。

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