満二歳の頃、お祖父様に「この子は大物になるぞ。」といわれた高久史麿先生。小学校に入学すると、お母様の期待とは正反対の意味で、その大物ぶりを発揮します。思わず吹き出してしまうような綴り方や修身の授業での逸話など、高久先生小学校一年生の頃の思い出を綴った「母の手記」をお届けします。
さて、いよいよ侯爵坊やも小学校一年生入学。早産まれ満六才。兎に角絵本一冊読むこともせず、一人遊びの貴方は、お兄ちゃんが一年入学の時は小学校五年の本を読み上げていたのとは裏腹に、タカフミマロと書けることを自慢気に一年生になりました。
さて、それからが大変です。小学校も京城(今のソウル)で一番歴史の古い汚い鐘路小学校に入学、小柄だった貴方は前から三番目。誠に面目ない困ったような顔で来る日も来る日も
「ああ、また学校か。」
と言わんばかりの登校風情です。学校では、教室での勉強ぶりは如何かと参観日に行きました。教室の一番前の席に女の子と二人チョコンと並んでいる貴方でした。私が二時間続けて授業参観しているうち、貴方達二人は一度も手をあげません。他の生徒は一同先生に向かって「ハイハイ」と元気に奮闘しているのに比べ、貴方と女の子(名前は忘れました。A子さんとしておきましょう。)A子さんだけ二人、石の地蔵さんさながら右手を上げるどころか身動きさえしないありさま、情けなくて泣くにも泣けぬ二時間でした。担任の女の先生(スエカネ先生、しっかりした中年の先生でした。)に授業が終わった後、
「二時間参観させていただいた間、史麿とA子さん二人だけは借りて来た猫の如く一度も手が上がりませんでした。誠にあいすいませんがもう少し手が上がる(即ち勉強の出来る)お子と並ばせて戴けませんでしょうか。」
とお願いしました。先生曰く
「A子さんは高久さんと並ぶ前はよく手が上がっていましたがね。」
要するにA子さんはよく出来た女の子だったが、史麿が勉強が出来ないので自然と真似るようになった。との先生のお言葉、親ばかの見本の如き、穴あらば入りたき程の恥ずかしい気持ちでした。それからは、来る朝も来る朝も
「いって参ります。」
「今日は手をあげてくださいよ。」
毎日の言葉で見送りました。
ある日のこと
「この頃、お母さんは学校に行って見ないがお教室で手を上げていますか。」
貴方曰く
「お母さん心配なさるな、上げてるよ。上げてるよ。僕解らない時までちゃんと上げているよ。」
と誠に大真面目。解らない時まで手をあげていて、先生に指されたらどうするのだろうかと私の方が面食らって仕舞うようなこともありました。兎に角素直な子供でしたので、私が手を上げろ手を上げろと一回言った言葉に背くべからずと、ただ黙々と手を上げていたのでしょう。
また、ある日の学校参観日に先生曰く
「昨日の高久さんは家で予習をして来ましたか。」
との問い。私は、
「いいえ、あの子は復習で一杯で予習の時間はありません。」
と答えたところ、昨日の算数の時間次のような問題(花子さんと太郎さんが鬼ごっこをしました。三人見つけましたがまだ二人見つかりません。みんなで何人で鬼ごっこをしているのでしょう。)をだしたところ、この問題に対して一人の生徒答えて曰く
「五人です。」
先生
「五人ですか。」
全生徒
「はい、そうです。」
と答えた中で一番優秀な林部さんという女の子と貴方だけが手を上げない。先生は林部さんは優等生、さもあらんがあの出来ない高久は如何にと思われ
「高久さん」
と貴方を指したところ貴方は
「鬼が居ります。」
と答えた由。
「3+2+1=6と細かい計算は頭に浮かばなかったが、目隠しをしている鬼に気がついたところを見ると全く見込みがない子供でもなきにしもあらずですよ。」
と慰められました。そのような点に気がついて下さった女の先生は良き師だったと偲ばれます。
そろそろ家庭の事情を知るために綴り方を綴らせられるころと、長男の一年生の時のことを考え、この子は何を書くやらと前以て「お父さん」という題で勉強させておきました。
「僕のお父さんは朝鮮総督府に勤めております。大変、碁が好きです。」
と一通りのお父さんの姿を教えておきました。果たして数日後「お父さん」の題材の綴り方だと得意顔で学校から持ち帰りました。
「僕のお父さん」
「僕のお父さんは大変酒が好きです。毎晩毎晩座布団を持って踊ります。」
驚き入りました。私は
「どうして、お父さんは碁が好きと本当のことを書かなかった。」
とただしますと、
「そんなこと書いたら駄目、酒が好きと書かなければいけないのだ。」
と断固として言い張ります。察するに先生は酒の好きなお父さんは正直に酒が好きと書くように注意されたのに、一寸頭の回転が遅れた貴方はここ一番何が何でもお酒が好きと書かねばならぬとお正月元旦の日のお父さんの姿を思い出し意気揚々と綴り方にしたのです。その理由は次の通りです。
植民地のお正月は誠に華やかなものでした。何分寒いところですから暮れの二十九日頃からお正月のお節料理、重詰め、皿盛、三日間分を作り御馳走の山、正月元旦ともなりますと、正装で年賀の指揮を済ませた総督府のお役人さんたちはこの日だけは無礼講、何分にも上下の差の厳しい官史生活、日ごろの鬱憤晴らしとばかりに三十人、四十人と上司の宅を襲い、食べよ飲めよの大騒ぎ、その家の主人公は上座に座り客の接待におおわらわ、うっかりトイレに立って席を外しても
「逃げたぞ。」
とばかり大音声。お父さんも大勢のお客に一生懸命のサービスです。酒を汲み御馳走を勧め宴を盛り上げるつもりで座布団を二つ折って左手に抱き抱え、右手にハタキを、翳し
「一つ二つは風車、三つ四つは乳母車、こうして育てた坊やでも今じゃ芸者のひざ枕」
と誠に芸人さながらに艶やかに謡い踊り若い人達は大喝采宴を盛り上げました。(余談になりますが、お父さんは家では酒は一滴も飲みません、酒は酢に化ける程。而して大正年間の平和な時代、京都大学の法学部に籍を置き、豊かな家の三男坊、親から言うなりの次第の送金、大学の月謝よりも祗園先斗町の月謝の方が遥かに越えて居たと言うことは後で聞きましたが、それは後の祭り。)その光景をじっと嬉しそうに見ていた貴方は、その正月の日を思い出して、ここ一番僕のお父さんも酒を呑めるのだぞとばかり自慢、大威張りで書き作った名作かと思いますと、怒るに怒れず笑うに笑えず茶番劇の一齣も懐かしい思い出です。
その頃小学校では修身の時間があり、教科書がありました。明日は修身の試験とかで、朝から「紀元節とは紀元節とは」と一生懸命勉強振り。後日授業に行きますと先生曰く
「長い間教師をしておりますが、こんな答案は始めてです。」
と言われ、出された答案を見ますと問「二月十一日は何の日ですか。」答え「僕の誕生日です。」
私曰く
「先生あの子は二月十一日生まれですよ。」
先生答えて曰く
「ハア、それでは全然×でもありませんね。」
紀元節は何月何日ですか。の問題だったら、二月十一日と答えられたのに又ここでも笑ってよいやら悲しんでよいやらの親の心境でした。まだまだ色々と十指に余る程の面白い逸話のうちに一年生も終わりました。
公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長
日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員
公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。