お子さんの学業成績が全く上がらないことに思い悩んだ経験をお持ちのお母さんも多いでしょう。高久史麿先生の母もその一人。手記には「これでだめなら上級学校進学は諦める」といった記述がみられます。次男の成績向上のため、お母様がとった必死の行動とはどのようなものだったのでしょうか。今回は高久史麿先生のお母様の手記から、小学校高学年時代のエピソードをご紹介します。
長男三年生修業式の日は、右総代「高久舜一郎」右総代「高久舜一郎」何もかも総代で校長先生から賞状をいただき十点平均の通信簿を持って家に帰りました。それに引きかへ、貴方は一年修了、八点ばかりの通信簿を持ちショボショボと帰宅。お父さん曰く
「史麿の通信簿は八点ばかり、まるで雷さまのようだな。ハッハッハッー」
と怒りもせず励ましもせず喜んでいる様子。貴方曰く
「お母さん、僕でも一番になったらお兄ちゃんのように校長先生からお賞状戴けるかしら」
「勿論ですよ。どうですか貴方もひとつ勉強して一番になってみないですか。その時の御褒美はお酒一升がよいですか。お金一万円がよいですか。」
貴方は即答して曰く
「それはお酒一升がよいです」
「よしよし、酒一升買って上げるからよく勉強するように」
と励まされると同時に遊びに飛び出しました(その当時貴方は、お酒の好きな小父さんの家によく遊びに行きチョクチョク酒の相手をさせられ、調子に乗って茶碗でお酒を頂戴した由、耳にしていました。)遊びほうけて真っ黒に汚れて夕方帰宅した貴方は、
「お母さん今朝の約束は一寸止めたよ。」
「何の約束をしたかしら。」
「そら、僕が一番になったら御褒美に酒一升の話。」
私は忘れてしまって
「ああ、そうそう。」
「僕は矢っ張りお金一万円の方がいいです。一万円貰ってその中からお酒一升買って残りは貯金箱に貯金する。」
(その当時旧円時代、一万円は大金、子供には夢。)お父さん曰く
「ヨシヨシまぼさんはそれだけ算数が出来たら大丈夫。」
と励ましました。後で私に囁きました。
「あの子は酒屋に行って酒の値段を聞いて、朝の駆け引きは馬鹿らしいと取り消しを申し出たのだろう。」
と大笑いをしました。その真相は未だに不明、幸か不幸か御褒美に預かるような優等生になることもなく、あるやなしやの存在のまま二年生、三年生と進級しました。
いよいよ、四年生を迎えたとき私も考えさせられました。四年になると上級学校への基礎の授業であり、このままでは如何ともなしがたしと案じ、学校に行きました。新しい四年担任の先生は江見義男先生、四十近い油の乗り切った教育者と見ました。誠に失礼ながら、この先生ならばと思い私は先生に願い出ました。
「先生、六年の兄はあのとおりの子供であり心配なしですが、この史麿は一寸心配です。この子は小さい頃乳母車に乗せて何度か車がひっくりかえったことがありますので、その時或いは小脳に異常を来したのかも知れませんがこのままでは諦めがつきません。親が受けた教育だけは、子供にもさせてやりたいのですが一寸心配です。先生ひとつこの子に注目して下さい。私も暫くこの子の勉強に専念します。先生と私が協力しても進歩がないときは、上級学校進学は諦めます。大学に行くだけが人生ではありません。頭の悪い子供に大きい望みを持つことは親子とも苦痛です。このままでは、諦めがつきません。」
と精一杯訴えました。先生曰く
「よく判りました。六年の高久の弟ですか。名前が一寸変わっていたのでもしや兄弟ではと思ったが、余り成績が違うのと顔が似ていないのでまさか兄弟とは思いませんでした。承知しました。ひとつやって見ましょう。」
と快く引き受けて下さいました。その日、貴方はニコニコと帰宅
「お母さん、僕今日からクラス一番の渡辺君と机が一緒になったよ。」
と嬉しそう。私は、先生やって下さったなあ。と心の中で感謝し
「渡辺君と並んだらまぼさんも勉強しないと恥ずかしいですよ。」
「うん。」
と大きく頷いた貴方でした。その翌日からは日曜、月曜は地理の試験とやらで、朝から「奥羽地方、関東地方等々…」と目を閉じ勉強に余念なし、一寸でもお兄ちゃんが声をかけると
「お母さん、お兄ちゃんがお話をしたから又判らなくなってしまった。」
と泣き出す、貴方はエンエンと泣きだしたら延々と一時間ぐらい情けない泣き声が続きます。私は可哀想やら、煩いやらで
「よしよし明日の地理の試験、70点戴いたらご褒美をあげるから」
と慰めて奥羽地方、関東地方を打ち切らせました。長男曰く
「お母さんは、僕が九十八点を取ると怒るのに、史麿が七十点取れば御褒美とは不公平だ。」
と抗議しましたが
「貴方の九十八点は瞬きをする程の油断、史麿さんの七十点は死に物狂いの七十点、油断大敵。」
と勝手な理屈をつけて片付けたのも親の屁理屈だったでしょうか。
さて、その翌日二時頃右手に試験用紙の端をつまんだまま、
「ターターッ只今」
と玄関を駆け上がりました。地理の試験百点、生まれて初めて貰った百点、嬉しさの余り学校から徒歩で三十分余りの道を一目散に馳せ帰った様子、息も切れそうです。
「どれどれ」
と答案用紙の点検、朝鮮半島の地図の中に北朝鮮、白頭山…。個所個所に有名な地名まで入れてある一寸難しい問題。さては昨日の奥羽地方、関東地方の勉強から見てこれはおかしいぞと思い
「貴方は一寸渡辺君のを見たのでしょう。」
と問うと
「うん、そうだ。でも、全部見たのではないのです。見たところは、此処と此処と…」
とカンニングのところどころを指します。私は思いました。江見先生が貴方のカンニングを咎めず百点下さったこと、渡辺君が寛容なお子で見せて下さったことに感謝して貴方に御褒美をあげました。その品は忘れましたが、お酒一升でなかったことは確実です。このことは、貴方の小学校時代良き師を仰ぎ、良き友を得た大きい宝となりました。此れを切っ掛けにトントンと成績が上がり、その後はカンニングの様子もなく殆ど渡辺君と並行して六年生に進級しました。小学校卒業の時は、渡邊君一番、知事賞。貴方は二番市長賞、江見先生曰く
「実は高久の方に知事賞の価値がある。数学の答案に消しゴムで消した跡がない。」
(なんでも、同じ百点でも答案に修正した跡があることは欠点と見做す由、誠に昔の先生はお偉かったと思います。同じ答案ですから、時間と正確さを考慮される程の先生でした。)私は
「意外のことです。このように、あの子がなりましたのも先生と渡辺君のお陰です。」
と心からの感謝の言葉を述べて、思いで深い鐘路小学校を終えました。
公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長
日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員
公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。