一般には、医師=頭がよい人というイメージがあります。ましてや、医師のトップであり叙勲者でもある人物と聞けば、幼い頃はさぞや優秀な神童であったことだろうと、想像を膨らませてしまうのも無理はありません。
ところが、日本医学会会長・高久史麿先生は、ご自身の幼少期について、「母を困らせてしまうほど勉強ができなかった」と語ります。時は高久先生小学校四年生の春。「これで無理なら上級学校への進学は諦める」と一念発起して、お母様と担任の先生が実行した成績向上計画とはどのようなものだったのでしょうか。高久先生にお伺いしました。
私が医師を志すようになったのは、第五高等学校(以下、五高)三年生の夏。それ以前は医学とはほとんど無関係の少年時代を送っていました。それどころか、私の幼少期の成績は、医師を目指すなど到底考えられないほど壊滅的なものだったのです。
…といっても、私はその頃の出来事を、あまりよく覚えていません。
私の知らないところで成績向上のために手を焼いていたのは、母・高久(旧姓・太田)綾子だったと、私は後に『母の手記』から知ることとなります。
私が生まれたのは1931年。当時父が朝鮮総督府に勤めていたため、私は釜山の地で生を受け、それから第二次世界大戦終戦までの14年間を、異国の地で過ごすこととなります。
小さな頃はワンワンと泣くことも少なく、親戚相手に人見知りもしなかったと、母の手記にはありますが、何せ80年以上も前のことですから、その当時の思い出は私の記憶にはありません。
6歳を迎え、現在のソウル市にある京城市立鍾路小学校に入学してからしばらくは、授業中に手をあげない、すなわち勉強はからっきし駄目な子どもであったようです。
なんでも、勉強好きのクラスメイトA子さんが、席替えで私の隣に座るようになった途端、悪影響を受けて手をあげなくなってしまったとのこと。それを聞いた母は責任感を感じたのでしょうか、毎朝私に「今日は手をあげてくださいよ」と声をかけるようになりました。
そのように懇願されたからには、子どもとして言うことを聞かないわけにはいきません。
私はわからない問題でも黙々と手を上げ続けるようになり、この行為によりまたしても母を仰天させてしまったのです。
しかし、あのテレビ番組『笑点』の大喜利でも、皆いそいそと挙手をしては座布団を没収されています。
きっと当時の私も、授業中はとるもとりあえず挙手をするのがルールなのだと考えていたのでしょう。
そんな私の一度目の転機は小学校4年生のとき、母と担任教師のはからいにより訪れます。この年の新しい担任の先生は、江見義雄(えみ・よしお)先生という脂ののった男性教師。この先生のことは、今でも記憶に残っています。
学力が高かった兄・瞬一郎は、小学校入学以来、常に学年トップの成績をおさめ続けていたため、母はどうにも諦めがつかず、江見先生のもとへ次男の教育に協力してくれるよう頼み込みにいったようです。江見先生も、「六年生の高久の弟ならば、見込みもあろう」ということで、両者は合意。私の知らないところで、私を上級学校へ進学させるための作戦が開始されたのです。
翌日、早速クラスで1番優秀だった渡辺君の隣へと席を移されました。地理のテストでは、席替えが功を奏したと言いましょうか。一部渡辺君の解答を見たおかげで、私は生まれて初めて100点満点をとることができました。江見先生も渡辺君も、どうやら私のカンニングを知っていて許容してくれていたようです。(もっとも、肝心の私にも、隠す気持ちなど全くありませんでした。)ここで良き友、良き師を得たことが契機となり、私の成績はその後渡辺君の解答を見ずともスルスルと向上していきました。
小学校の卒業式では、なんと1番の渡辺君の知事賞に続く二番府賞(市長賞)を受賞。さらに十一歳の春には、朝鮮でトップと謳われた京城中学校に合格しました。
といっても小学生の時の話ですから、これまた自分がどのような気持ちで何に励んでいたのか、残念ながら語れるほどの記憶はありません。
おそらく私の努力云々というよりも、母と担任教師、そしてずば抜けて優秀だった兄と友が、私を良い方向へと導いてくれたのでしょう。
兄は学問の面で優秀だったたけでなく、クラスのいたずらっ子から、幾度となく私をかばってくれたものです。成人してからも私の子どもを随分とかわいがってくれましたし、兄の心根の優しさのおかげで、「兄弟同士比べられている」という意識を持つことは一度もありませんでした。
お世話になった江見先生には、その後再会する機会には恵まれませんでした。しかし、当時からの友人づてに、先生が私のことを覚えていてくださったと聞いています。幼少期から人の縁に恵まれたおかげで今があるのでしょう。
京城中学校という恵まれた環境下で学んだおかげか、3年生で日本に引き揚げ、旧制小倉中学校に転入したときの私の成績は学年2番!1番は共に京城中学校から転校してきた林君という生徒でした。
その当時まで、小倉中学校で常に1番をとっていた男は突然3番になり、非常に驚いたようです。その男とは随分と親しくなり、卒業以降も長きにわたる友好関係が続きました。
当時の小倉中学校は、進学校というだけでなく、甲子園の強豪校としても名を馳せていました。1947年から48年にかけて二連覇を果たしたときは、学校全体が熱く盛り上がったものです。この頃の思い出をつらつらと述べていても、やはりスポーツや友人、家族の話ばかり。勉学に関しては、特段思い入れのない少年時代であったと思います。
公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長
日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員
公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。