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東京大学医学部第三内科に入局-医師として人として、常に「平常心」

東京大学医学部第三内科に入局-医師として人として、常に「平常心」
髙久 史麿 先生

公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長

髙久 史麿 先生

東京大学医学部を卒業し、現・日本医学会会長の高久史麿先生はいよいよ医師としての道を歩み始めます。入局したのは、沖中重雄教授率いる東京大学医学部第三内科。当時、沖中先生は病理解剖に熱心でしたが、高久先生は受持医の仕事であった御遺体の提供を願う交渉が大の苦手であったといいます。結果、専門とすることになったのは当時マイナーな分野であった血液内科。ここで後に自治医科大学初代学長となる中尾喜久先生と出会い、着実に医師としての力をつけていきます。今回は、医師となってからも変わらない高久先生の心持ちについて、お話しいただきました。

大学卒業後、当時の制度に従い1年間のインターンを経て、私は東京大学医学部第三内科へと入局します。実は、進路を決めるちょうどその時期(1953年)、東大医学部には大学院が設置され、私は医局長のところへ大学院に行きたいと言いに行きました。

「ちょっと待ってくれ」と静止され、すぐに戻ってきた医局長の言葉は、「高久君、君は学部時代の成績が悪いから、院進は諦めたほうがよい」というもの。

これには私もすぐに納得し、第三内科、通称「沖中内科」で血液学への一本道を突き進むこととなったのです。

中尾教授と一緒に写る高久先生のお写真
手前中央が中尾教授 手前左が高久先生 写真提供:高久史麿先生

第三内科では、衣笠先生の誘いもあり、当時亜流中の亜流であった血液内科を専門とすることに決めました。病理解剖のための交渉を苦手としていた私にとって、これは大変有り難いお誘いでした。

(血液内科へ進んだ経緯の詳細はこちら:日本医学会会長はこうして生まれた。高久史麿先生が語る東京大学、シカゴ大学での日々

当時の血液グループのチーフは中尾喜久先生。のちに自治医科大学の初代学長となり、共に大学創設に勤しむことになる私の恩師です。

中尾先生からは学会発表のデータ作成など大きな仕事も任され、随分と可愛がっていただきました。また、私の生来ののんびりとした性格にも寛容な対応をしていただいたものです。

たとえば、あるときのシンポジウムの打ち合わせ中、歌舞伎を観るために中座したことがあります。中座の理由を御存知ない中尾先生は「どうぞどうぞ」といわれるので、私は堂々と歌舞伎座へ向かい、結局その日は大学に戻りませんでした。

なぜ戻らなかったか、その理由は極めて単純です。私は歌舞伎座で可愛らしい女性と出会ってしまい、終演後に喫茶店で話し込んでしまったのです。結局彼女とはその後1、2回食事をしたきり、自然消滅してしまいましたが…。

このようなマイペースな性格を、「いつも平常心だ」と評価してくれる知人もいます。

こうして改めて昔話を綴っていると、自分には将来を思い悩んだり、追い詰められるという経験をしたことはなかったと気づきます。

また、感情を爆発させて怒ったことも、長い人生のなかでほぼ全くありません。私は母の癇癪には少し辟易していましたので、この性質を受け継がなかったことだけはほっとしています。

もちろん、役職につき、部下や後輩を監督するに立場に回ってからは、「注意」をせねばならないことも多々ありました。

そのようなとき、私が気をつけていることは、相手の面子を潰さないよう、人前ではなく個人的に相手を呼んで、穏やかに話すということです。

東大赤門前での高久史麿先生のお写真
東大赤門前にて 写真提供:高久史麿先生

幼少期から友や兄と喧嘩をするタイプではなかった私は、結婚相手も「とにかく穏やかな人」という一点を重視して選びました。それで縁あった相手が今の家内ですから、母は反面教師としても私に好影響を与えてくれたといえます。

もちろん、母には尊敬すべきところも沢山あります。持ち前の気さくさとコミュニケーション力を活かして、突然に始めた商売は大繁盛。その利益があったおかげで、元来のんびりとした父は八幡市役所の役人として定年を迎え、ゆったりとした隠居生活を過ごせたわけです。

 

  • 公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

    日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員

    髙久 史麿 先生

    公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。