126もの学会をまとめる日本医学会の会長、高久史麿先生。日本医学史を辿る上で欠かすことのできないその名は、しばしば「医学の頂点」といった言葉と共に語られます。ところが、当の高久先生ご本人曰く、「学生時代は成績“非”優秀」、医学の道に進んだのも「偶然」だったとのこと。スポーツに明け暮れていた一人の青年が、日本を代表する医学教育者となるまでの道程で、先人たちから学び得たこと、また、現在も高久先生の信条となっている留学時代の指導者の“ある言葉”について、お話しいただきました。
1931年に釜山で生まれた私は、終戦を機に九州へと居を移し、旧制小倉中学校を経て第五高等学校(以下、五高)へと進学します。意外に思われる方も多いようですが、学生時代の私は、決して勉強熱心な生徒であったわけではありません。
今から2~3年ほど前、私は熊本大学構内にある「五高記念館」を訪問しました。五高記念館には、一期生から私たち最後の卒業生まで、全ての卒業生の成績が残っています。五高は内閣総理大臣を務めた池田隼人氏や佐藤栄作氏らを輩出したことでも知られており、旧文部大臣の有馬朗人氏が、彼らの学生時代の成績をみたいと依頼したという逸話も残っています。残念ながら、個人情報ということで有馬元大臣は2人の成績を教えてもらうことは叶わなかったようですが、私自身は自分の情報というわけで、五高時代の成績表をみることができました。3年生のときの成績は227人中なんと109位。卓球ばかりに夢中になっていたからでしょうか、自分でも苦笑してしまう成績で、とても芳しいといえるものではありませんでした。思い返せば、五高時代には、友人の叔母さんからも「高久さんは卓球ばかりしているけど、大学進学は大丈夫?」と、心配されてしまったことがあります。
卓球に関しては東京大学入学後も熱心に続け、その後国立病院医療センター(現在の国立国際医療研究センター)の病院長兼看護学校長を務めていたとき、学生相手の大会で準優勝までしてしまいました。そのときの私は、確か61歳か62歳であったと思います。
数学好きだった五高時代の私は、大学では理論物理を専攻したいと夢見ていました。ところが、実際に五高で物理の講義を受けてみると、相性が合わなかったのか、驚くほど退屈に感じてしまったのです。進路を決めねばならない3年生の私は、「消去法」を採用することにしました。理学を除いた理系の進路としては、工学や農学などが挙げられます。しかし、当の私は図面を引くことも大の苦手で農業にも興味ゼロ。結局、残った医学の道へと進むことに決めたのです。そのようなわけで、当時の私は何か特別に高邁な理想を持っていたわけではなかったのです。
もしかすると、医師を目指していた兄が、肺結核を患って4年間休学し、医学部進学を断念したことが、当時の私に多少なりとも影響を与えたのかもしれません。
また、洗礼を受け、キリスト教の教会に通っていたことも、今振り返ると関係していたのかもしれませんが、それも断言はできません。人生とは、やはり巡り合いや運といったものに左右される部分も大きいのではないでしょうか。
私が東京大学医学部を卒業したのは1954年。当時はまだ「インターン制度」がありました。きちんとしたカリキュラムも存在せず、一銭の給与の保障もないインターン制度は、後に反対運動が起こり廃止されます。このように大変中途半端な制度でしたので、私も興味を持っていた内科や眼科など、いくつかの科を適当に回り、そのなかで唯一先生から誘っていただけた眼科にいこうと決意しました。しかし、ちょうどそのころ実家の母親から電話があり、「一生眼だけみるのはいかがなものか?」と反対を受け、結局、東京医学部第三内科へと入局することとなります。
これにはちょっとした後日談があります。当時私を引っ張ってくれた眼科の先生は、「今年はあと2名眼科に入る予定だから構わないよ。」と私の断りを快く受け入れてくれたのですが、直後の国家試験で落ちた2名の生徒が、なんと両名とも眼科志望の生徒だったのです。結局2人ともその後の試験を経て晴れて眼科医となり、うち1人は高輪(東京都)で開業し、大成功。自治医科大学が設立された昭和47年頃の私たちの平均年収300万円の約10倍もの収入を得ていると週刊誌に掲載され、話題になったものです。
沖中重雄先生が教授を務めていた東京大学医学部第三内科、通称「沖中内科」は、縦割り制ではなく、神経内科を中心とした総合内科でした。その中で私が専門として選ぶこととなったのは、当時マイナー中のマイナーであった「血液内科」。これも一体なぜかとよく質問を受けますので、簡単にお話ししましょう。
その当時、沖中先生は病理解剖に熱心で、ご遺族の方に病理解剖をさせていただけないかと交渉するのは、私たち医局員の仕事でした。しかし私は、亡くなられた方の体にメスを入れたいとお願いをするこの交渉が、ひどく苦手だったのです。
患者さんがいよいよ治療不能の状態となると、私は指導医の衣笠恵士先生のもとへ、「患者さんは病院ではなくご自宅で亡くなったほうが幸せなのではないか?ご説明して帰宅してもらったほうがよいのでは?」と相談に行きました。すると衣笠先生は、「お前は病気に関しては全くアドバイスを求めないくせに、患者さんが亡くなるときばかり困って相談にくる。面白いやつだ。」といい、ご自身が所属しておられた血液グループに来ないかと誘ってくださったのです。
そのときの血液グループのチーフが、その後自治医科大学の初代学長となられる中尾喜久先生で、私はのちに中尾先生と共に自治医科大学の創設にも携わることになりました。
さて、血液内科を専門として、東大第三内科で助手をしていた私に大きな影響を与えたのが、1年間の米国留学でした。私は国際原子力委員会の試験に合格し、奨学生として、当時造血因子「エリスロポエチン」の世界の研究の中心といわれたシカゴ大学に行けることになりました。
1年の留学生活の中で、医学も学びましたが、それ以上に参考になったものは「アメリカの人々の生き方」です。
ある程度のポジションに立つ人には「ユーモアのセンス」がなければならない、と学んだのもこの時期です。これは医学に限らず、あらゆる分野においていえることです。私が出会った指導者たちは皆、威厳だけでなく、人を笑わせるスキルも持ちあわせていました。
また、留学時代に師事した教授の言葉は、私がその後東京大学教授、自治医科大学学長の任を務めていくにあたり、大変重要なものとなりました。その言葉とは、「自分が今のポジションに就けたのは、若いときに自分をピックアップしてくれた人がいたから。だから私の使命は若い優秀な人を見つけてチャンスを与えること。それが私の恩師に対する最大の恩返しだ。」という言葉です。
留学中には、よい意味でのカルチャーショックも大いに受けました。
私を含む留学生6名が、シカゴ大学に奨学金を寄付しているというあるお金持ちの家に招待されたときのことです。出資者であるご主人は、「自分の息子はアルバイトで学費を稼ぎ、別の大学に通っている。」と話しました。驚いて詳しく伺うと、彼は「どうせお金を出すならば、自分の息子よりも優秀なシカゴ大学の医学生に出資したほうが、社会のためになる。」というのです。もちろん、その人の考え方が、アメリカ人全てを代表する考え方というわけではありません。しかし、日本とは比べ物にならないほどの資産家が存在し、彼らの一部が縁もゆかりもない学生にお金を出してくれるということ、さらに若者にチャンスを与えてくれる教授たちがいるということ、こういった土壌があるからこそ、アメリカは急速に発展を遂げることができたのではないかと思われるのです。
帰国した私は、その後自治医科大学の学長に推薦された中尾先生のもとで、大学の設立準備に携わることとなります。このとき注力した教員集めの際には、アメリカで得た「若い人にチャンスを」という信条を胸に、若い優秀な人を探し、ポストをどんどん作って、採用活動に励んだものです。
公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長
日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員
公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。