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インタビュー

敗戦、京城中学校から小倉中学校への転校

敗戦、京城中学校から小倉中学校への転校
髙久 史麿 先生

公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長

髙久 史麿 先生

 高久史麿先生中学3年生の夏、日本は大戦に破れました。現在のソウル市にある京城中学校に通っていた高久先生は、日本の中学校への転校を余儀なくされます。父の郷里、会津で第二の人生を送ろうと計画していたはずが、戦後の混乱に巻き込まれ、これも叶わぬ夢となりました。小倉中学校へと編入するまでの道のりを綴った、お母様の手記をご紹介します。

 満十一歳春、朝鮮随一の名門校京城中学校にかなりの成績で合格しました。この中学校に合格する子供は、クラスで二、三人、京中に何人合格したかで先生の格が決定される程の有名な公立中学校でした。中学校に入学した貴方は、親の喜びも他所に嬉しそうな様子もなく、牛にひかれて善光寺参りのような恰好で毎日毎日困ったような、面白くないような顔で登校。ある日、私に

    「お母さん、中学校というところは誠に訳が解らないところだ。」

と不平不満な面持ち。何故、英語は「それは」と解りやすく言えばいいのにわざわざit、is等と言わねばならぬか。簡単に美しいと表現すればいいのに、beauty、prettyとか、難しく舌が縺れるようなことを言わねばならぬのか、となかなか難しい質問をされました。そこで私は、それは国風の違い、習慣の違いと説明しましたが、説明が悪いのか一向に合点しません。丁度小学校 一年の時に1+1=2どうしてなるのかの質問に、私が苦しんだ時のとおり、何れ中学校に馴れたら解明することと鮮明な答えができずじまいで終わったこと、今でも覚えております。

 中学一年生の一学期の中間試験となりました。納得のいかないとページを繰らない貴方はなかなか勉強が進展しません。明日は代数の試験とやら、同じページをにらみつけたまま如何ともなり難く、青柳先生(代数の教師)宅を訪問、難解な箇所を教えていただき

    「まぼ、明日は百点をとれよ。」

と励まされ、意気揚々と帰宅。 さて、その日の午前中代数百点をもらって帰るはずの貴方はなかなか帰宅しないので、私は近くの井戸の所まで出迎えに行きました。貴方は、ただ一人困ったような顔でボソボソと歩いて来ます。私の顔を見るなり

    「代数は五十点」

自分で採点し報告です。

    「何故だ。」

と聞きますと

    「問題の漢字が読めなかった。」

との答え、問題が読めなければ回答出来る訳はなし、またもや可哀想にとの気持ちが先に立ち

「貴方は中学校に入学したばかり。何を聞いても恥ずかしくないので、解らない時は先生にお聞きなさい。」

となかば慰めの言葉をかけました。貴方は

「はい、お母さん明日は国語の試験だが、字が解らぬときは先生に聞いてもよいかしら。」

といいました。側に居た兄曰く

    「国語の試験で漢字を尋ねて先生が教える訳けなし。」

貴方曰く

    「だから聞いてもよいかと尋ねているのではないか。」

と大憤慨、決して親をからかっての言葉ではなく、本人はいたって大真面目、剣道とか柔道等の運動もせず、成績云々も一言も言わず、期待もされず、希望もなしとの状態のまま二年進学。

 この頃になりますと、そろそろ戦争の色も濃くなり私は銃後の守りに駆り立てられ学校でも勤労奉仕の日が多くなりました。それに、長男は中学四年、旧制高校理乙を目指して勉強。史麿は何もかも後回しの日常でした。長男は学校の成績はいつもトップでしたが、気が弱くて所謂長男のジンロクなる性格が案じられ、兄貴分として長男の相手をして貰うべき沢さんという方に家庭教師を依頼しました。(旧制京城大学二年在学の秀才でした。)毎日来宅される沢さんに「兄さん兄さん」と付きまとったのは貴方でした。私はよく解りませんが、その時期に貴方は数学の難問微分積分を沢さんからマスターしたらしいです。このことが、今日の貴方の学問の世界に進む基礎を固めたのだろうと私は信じています。貴方は、小学校時代良き師に恵まれ、良き友を得、中学時代良き先輩に恵まれた幸運な子供だったように思われます。兎にも角にも幸いにして長男も京城大学予科に入学、貴方も中学三年生になりました。(昭和二十年三月)

日本へ引き揚げ

 中学三年の夏休み、八月一五日終戦、何もかもがピリオドです。官史万能の植民地での敗戦、全く筆舌に絶する混乱。私は、貴方がたの学生生活のことが案じられ、早く内地に引き揚げるべしと帰国の準備にかかりました。沢山の書籍を持っている長男が本に執着する姿に、さもありなんと思い、此れを持ち帰ることはなかなかこと、送るほかに手段なしと思案の末朝鮮の人を買収して十三個の小荷物を有り金全部を投じて京城駅より食堂車を買い占め荷物とともに親子四人で釜山に着きました。それは、昭和二十年九月二十七日のことです。紅葉屋ホテルに一泊、荷物一切を連絡船にて翌日送ることを約束した朝鮮の人を信じ第二の人生を送るといった儚いことを夢見て朝鮮海峡を渡りました。

 三十日、山口県の仙崎着、東北会津のお父さんの郷里に帰る決心でしたが、その頃、八幡製鉄所勤務の義兄のところに一時骨休みに立ち寄るべく鹿児島行きの貨物列車に乗りました。鮨詰めの天外車に腰掛けコックリコックリと居眠りする貴方、下は深海、しっかり貴方の襟がみを握り締めたまま下関通過、無事八幡市枝光駅に到着。黄色い国民服のお父さん、貴方達二人、モンペ姿の私、リュックサック一つの乞食同然の姿で疲れ果て駅の出口にペタンと座り込んでしまいました。

    「よかったよかった。」

と無事を喜んでくれた姉夫婦でしたが今は既に亡き人。

 引き揚げの第一歩は八幡の私の姉の家でした。二、三日到留のつもりが一週間となり、一週間が一か月と過ぎるなかに、内地の情勢も痛いほどに判明してきました。送った命から二番目の荷物は到底到着しないと解り、これでは東北に帰るべからずの決心を私は固めました。家もなし、職もなし、学校もなし、何もかもナイナイ尽くしの状態でした。私は貴方達二人に詫びました。(女賢して牛売り損なう)お母さんが利口ぶったばかりに貴方方を裸にしてしまい申し訳ないと。気の弱いお兄ちゃんは

    「お母さん良かれと思ったことが裏目に出たからとて詫びる必要なし」

と私を慰めてくれましたが、貴方はさもありなんとばかりの顔つきでニヤニヤ無言だったこと今も記憶に新たです。私は言葉を続けました。

「今、お母さんは猿が木から落ちた状態(私は申年生まれ当時三十七才)いずれの日にか猿が木に登る日もあらん。今、こういう一番逆境にある時、皆が力を合わせて頑張り、良き楽しい思い出になるよう努力しよう。」

とまるで楠正成の四篠畷のような場面もありました。(而して、私は大木に登ることもなく、今日こうして病室のベットの中にあり、貴方の大きい重荷となっている親であることを心苦しく思うと同時に、その孝養に感謝合掌致しております。)

 苦しい境地に在ても、貴方達の転校を如何にすべしと念頭から去りません。終戦の時生まれて初めてニュース映画以外に見た映画、無法松の一生、坂妻の太鼓が印象に残ったのか、小倉中学校と小倉工業学校が川を挟んでの夏の夜の喧嘩の場面が印象に残ったのか

    「小倉中学校以外の学校には転校しない。」

と頑張ります。ままよ、後は野となれ山となれと、大きい気持ちになり、まづ言うままに小倉中学校に転校の手続きを取りましたのが、その年の十一月中旬頃で当時の担任後明(ごめい)先生は、引き揚げの可哀想な生徒と思われたのかクラス一同に紹介の時に

    「高久君は朝鮮随一の名門校京城中学校の大秀才」

と紹介下さったよし、貴方の面目躍如たるものがあったようです。その日が臨時試験の一日目、先生は

    「君は今日来たばかりだから受験免除」

とのことでしたが、貴方は

    「今日から僕も生徒です。受けさせてください。」

と申し出て、お隣の席の和田君からチビッた鉛筆を借り、その日の試験数学百点、国語百点、そのことから貴方は大いに自信を持って意気昂然と通学に専念しました。数学においては、先生も肝をつぶされたよし。だれ彼言うこともなく数学の神様たる称号を得たとのこと。(後で聞いた話です)京城中学校二年の時、沢さんから教えてもらった微分積分のお陰であることを感謝しました。(その沢さんの兄さんも引き揚げ後、苦境の中から旧制四校から阪大工学部に進学、工学博士になり今香川県の有名な会社の重役の由、一度再開したいと念じています。)

本記事内には一部配慮すべき語句や表現がありますが、執筆時の時代背景を考慮しそのままとしました。

 

  • 公益社団法人 地域医療振興協会 会長、日本医学会 前会長

    日本血液学会 会員日本内科学会 会員日本癌学会 会員日本免疫学会 会員

    髙久 史麿 先生

    公益社団法人地域医療振興協会 会長 / 日本医学会 前会長。1954年東京大学医学部卒業後、シカゴ大学留学などを経て、自治医科大学内科教授に就任、同大学の設立に尽力する。また、1982年には東京大学医学部第三内科教授に就任し、選挙制度の見直しや分子生物学の導入などに力を注ぐ。1971年には論文「血色素合成の調節、その病態生理学的意義」でベルツ賞第1位を受賞、1994年に紫綬褒章、2012年には瑞宝大綬章を受賞する。