困っている人を助けたい。それが原点

「困っている人を助けたい。それが原点」

女性の外科医として、道を切り開いてきた齊藤 光江先生のストーリー

順天堂大学乳腺内分泌外科 主任教授 / 順天堂医院 乳腺センター長

齊藤 光江 先生

大切な人たちの死がきっかけで、芽生えた思い

子どもの頃に抱いた「困っている人を助けたい」という思い。その思いに導かれるように、私は医師になりました。きっかけは、子どもの頃に直面した2人の大切な人の死です。

一人は、小学4年生のときの担任の先生です。忘れもしない、とても素敵な女性の先生でした。その先生が冬休みに入った数日後、突然亡くなりました。くも膜下出血だったそうです。数日前まで元気で、私たちに通知表を渡してくれた大好きな先生が亡くなってしまった。連絡網で知らされたときは、信じられない気持ちでいっぱいでした。

もう一人は親友のお母さんです。小学6年生のときのことでした。よく遊んでいた親友のお母さんが、病院に入院したことを知ります。お見舞いにいくと、おばさんの変わり果てた姿がありました。やせ細り、腕にはたくさんの注射の跡。後に子宮がんであったと聞きました。優しくて明るいおばさんがあっという間に痛々しい姿になり、亡くなってしまった。私は非常に大きなショックを受けました。

この2人の死から少なからず影響を受けた私は、中学校に進学すると保健委員に立候補します。子ども心に、

「先生やおばさんのように、病気で困っている人を助けたい」

という思いがあったからです。

「女の子らしく」といわれ育った私の大反乱

しかし、家族など身近に医師がいなかった私は、医師になる選択肢を与えられていないと認識していました。国語と美術が好きだった私は、当然のように文系を志望します。そんな私に、運命を変える出来事が起こります。

もともと体の弱かった私の母が、入院することになりました。同時に、家庭内にさまざまな問題が生まれ、父と母の別居が決まりました。そこで改めて、私は自分の生き方を真剣に考えることになります。

幼い頃から「女の子らしく生きろ」といわれながら育ちました。しかし、その生き方に疑問を抱くようになります。子ども3人を抱えて別れる決心をした母は、手に職がありませんでした。心理的に辛い状況に追い込まれた母のひとつの助けになったものは、体を立て直してくれた主治医への信頼でもありました。そんな姿を目の当たりにしながら、女性としてどう生きていくべきか、真剣に考えざるを得なくなってしまったのです。

高校3年生の秋のことです。私は、志望を文学部から医学部へ変更します。突然の進路変更に周囲は非常に驚いていました。子どもの頃に直面した死をきっかけに健康に興味があった私は、医学を学びたいと思うようになっていました。さらに、医師であれば、女性でも手に職をつけて生きていけると考えての決断でした。

そうして大反乱を起こした私は、2年後、千葉大学医学部へと進むことになります。

外科医としての経験を積みたい

「医学部に進むからには、メスを握りたい」と思っていた私は、外科を志望していました。当時、外科は人気が高く、医学生たちの憧れの的。私も人気の外科教室の門を叩いたのですが、当時、女性が外科に入ることは難しく門前払いをされてしまいました。

なんとか外科医としての修行を積みたいと思った私は、東京大学医学部附属病院分院外科にたどり着きます。そこは、「女性でも外科医としての経験を積ませてくれる場所はないか」と、探し続けた私が、ようやく見つけた場所でした。

女性は一人もいませんでしたが、教授である近藤先生は、門前払いすることなく笑顔で迎えてくださったのです。それどころか「僕は女性の真面目さを信じています」と声をかけてくださり、入室後も非常に丁寧に指導してくださいました。

在籍中には結婚も留学も果たし、留学中に出産も経験しました。出産後に乳腺炎にかかり手術を受けたことがきっかけとなり、乳腺外科に興味を持つようになります。特に、留学から戻ってからは、乳腺外科を専門にしたいという気持ちが大きくなっていきました。

自分の持ち時間のなかで、高いレベルの手術を

「もっと症例数の多いところで、乳腺外科の修業を積みたい」

その思いは日に日に強くなっていきます。

そんな私が次に目指した場所は、癌研究会附属病院(現・がん研究会有明病院)でした。当時、同病院には、乳腺外科の多数の手術実績がありました。俄然働きたくなってしまった私は、衝動的に手術室をとびだしてタクシーに乗り、癌研究会附属病院へと向かいました。突然の訪問にもかかわらず、当時の乳腺外科の部長である霞(かすみ)先生は話を聞いてくださいました。

そうして癌研究会附属病院へと移ることになったのですが、最初のうちは通勤のための定期券を買うことができませんでした。幼いこどもを抱えて1か月続けられないかもしれないと思ったのです。それくらいハードな現場であるという噂を聞いていました。

しかし、そんな心配をよそに、最終的には7年半もの年月を過ごしました。外科医としての感覚や技術が研ぎ澄まされたのは、この経験があったからです。

同病院では、合併症のない速い手術を目指しました。プライベートでは小さな子どもの母親でもあった私は、夜には子どもを迎えに行かなければいけません。自分の持ち時間のなかで、他の医師と同じレベルのことをしなければいけないと常に思っていました。これは大変なことでもありましたが、非常によい訓練になりました。

思いがけない打診で、順天堂大学へ

癌研究会附属病院で経験を積み7年が過ぎた頃、もともと在籍していた東京大学医学部附属病院本院から声をかけていただきました。それは、乳腺外科を専門とする新たなチームを立ち上げる計画があり、戻ってほしいという打診でした。

悩みましたが、家庭の事情も考慮し、私は大学へ戻る決意をします。大学へ戻ってからは、あらゆる症例をみる機会に恵まれました。総合病院であるため、がん専門病院ではめずらしい精神疾患を持っていたり妊娠中であったりする乳がん患者さんの診療に携わることができ、非常に勉強になりました。

2年が経ち、診療数も当初の約3倍へと増えた頃、今度は思いもよらない道が開けます。順天堂大学から打診を受けたのです。

しかし、日々の診療に充実感を抱いていた私は、あまり気が進みません。「断られてもいい」という気持ちが少なからずあり、順天堂大学の面接では生意気なことをいいました。乳腺センターをつくり、医師や看護師だけではない多職種が働く、壮大な構想を説明したのです。

それは私の希望でもありましたが、実現には大きな労力がかかることもわかっていました。

生意気な意見を嫌がるだろうと思いきや、当時の院長先生は大変興味をもってくださったのです。予想に反した反応に、私は迷うことになります。東京大学に残るべきか、順天堂大学へ移るべきか。考えあぐねるなか、癌研究会附属病院でお世話になった霞先生にこんなアドバイスを受けました。

「残りの社会的寿命のなかでなし得ることを考えてみなさい」

信頼する恩師の言葉で熟考した私は、可能性を信じ、順天堂大学へ移る決意を固めます。

面接で話した乳腺センターの構想は、順天堂大学からの話が持ち上がった翌年に実現することができました。力強いアドバイスをくださった霞先生もセンターの設立のために協力してくださったのです。

これは日本で初めて、大学で立ち上げた乳腺センターになりました。2018年現在も乳腺疾患の患者さんのために、メンバー一丸となり診療に取り組んでいます。

患者さんを徹底的に助けたい

2012年に私は教授に就任しました。教授になってからも変わらず、医師として、患者さんには相当おせっかいを焼いているかもしれません。患者さんに対して、私ができることであれば徹底的に助けてあげたいと常に思っています。それは診療だけにとどまりません。

こんなことがありました。お子さんがいらっしゃるシングルマザーの患者さん。彼女は余命が残りわずかな状態でした。患者さんは、自分が亡くなったらお子さんを施設に入れる計画を立てていました。

「あなた本当にそれでいいの?」

そう尋ねた私に、実はけんかしたお姉さんがいることを教えてくれました。私は仲直りのための場を急遽用意し、その後、お子さんは患者さんのお姉さんと養子縁組を結ぶことになりました。

患者さんは、私にとって、みんな私の家族です。一切の躊躇(ちゅうちょ)なく、そう答えることができます。家族が困っていることがあれば何でも助けてあげたいと思っているのです。

「困っている人を助けたい」これからも原点は忘れない

子どもの頃に直面した、2人の大切な人の死と母の苦境。それらが私の原点です。

「大好きな先生やおばさんを何とか助けることはできなかったのか」

「母のように体の障害と生活苦が重なった人の助けになれるのは、自分のような人間かもしれない」

子どもながらに抱いた思いは、医師になった後もずっと、私を支えてくれています。この気持ちは、いつまでも薄れることはありません。

私も数年後には定年を迎えます。定年後には医師という立場を度外視して、自分がこれまで学び得たことを世の中に思う存分還元していくつもりです。医師というよりも一人の人間として、やるべきことがあると感じています。

その根底には、変わらず「困っている人を助けたい」という思いがあります。これからもこの気持ちとともに、道を切り開いていきたいと思っています。

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