インタビュー

iPS細胞を用いた神経の再生医療——​​その進歩とこれからの展望

iPS細胞を用いた神経の再生医療——​​その進歩とこれからの展望
岡野 栄之 先生

慶應義塾大学医学部生理学教室 教授

岡野 栄之 先生

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視覚や聴覚などの感覚を通じてあらゆる情報を集約し、司令塔の役割を果たす中枢神経。これまで、中枢神経である脳と脊髄(せきずい)は、一度損傷すると再生することは難しいといわれてきました。実際、医療が進歩した現代においても、障害された脳や脊髄そのものを治療する方法は確立されていません。そのようななか、岡野 栄之(おかのひでゆき)先生(慶應義塾大学医学部生理学教室 教授)は、“不可能を可能にしたい”との思いから、1980年代より神経の再生に関する研究に尽力されています。岡野先生に、神経の再生医療とその取り組みについてお話を伺いました。

神経の再生医療が必要とされる社会的背景としては、脊髄損傷*外傷性脳損傷、脳梗塞(のうこうそく)といった神経系の病気、けがに対する治療の難しさがあります。これらに共通するのは、ある日突然起こり、著しくQOL(生活の質)が損なわれる可能性があることです。さらに中枢神経系(脳、脊髄)の損傷は不可逆的なものであり、それらを再生することは難しいとされてきました。1928年にスペインの神経解剖学者カハールは“この過酷な運命をもし変えるものがあるとするならば、それは将来の科学にほかならない”と話しています。

そのようななか、再生医療の研究が進展し、今ようやく、これまで治療が困難とされてきた脊髄損傷や外傷性脳損傷、脳梗塞などを克服できる可能性が出てきたのです。

*脊髄損傷:脳と体をつなぐ神経の束(脊髄)が何らかの原因によって損傷し、手足が麻痺したり、臓器がうまく機能しなくなったりすること。

私たちは、神経の再生医療に関していくつかの研究を進めています。そのうちの1つが、iPS細胞由来神経前駆細胞を用いた脊髄損傷脳梗塞の再生医療です。

2013年、第1フェーズとして細胞移植の安全性検証および、亜急性期*の脊髄損傷の臨床研究を開始し、同時に、慢性期**の不全脊髄損傷に対する臨床研究を見据えた基礎研究を継続しました。2017年には、第2フェーズとして慢性期の不全脊髄損傷の臨床研究を行い、さらに2020年からは、最終目標である慢性期完全脊髄損傷の臨床研究の実施を目指しています。

このように、これまで研究段階だった神経の再生医療は徐々に進展し、実際に患者さんに届けるために有効性と安全性を確保する臨床試験の段階に差しかかっています。

*亜急性期:急性期経過後に引き続き入院して医療を要する状態。

**慢性期:急性期経過後に治療を継続するとともに患者さんが施設や在宅療養に移行できるようにQOLを回復し、病状の悪化を防ぐための総合的なケアを要す状態。

私たちは、希少難病の克服はあらゆる病気を克服するための試金石と捉え、“From Rare to Common”の考え方を持って神経の再生医療の発展に努めています。この取り組みには、希少疾患の研究を進め、その成果を一般的な病気の治療にも展開することで、より多くの患者さんを救いたいという思いがあります。

From Rare to Commonの考え方は、再生医療を用いた創薬の分野にも通じています。たとえば、神経変性疾患の筋萎縮性側索硬化症ALS)は、5〜10%ほどが家族性といわれていますが、残りの90%ほどは孤発性で、明確な原因が分かりません。これは、パーキンソン病やアルツハイマー病などを含む神経変性疾患の特徴の1つです。

まずは、原因となる遺伝子が明らかとなっている家族性ALSを足がかりにして、しっかりと治療法を研究し、その成果を孤発性ALSに当てはめていく。それはまさに、神経変性疾患に対する治療の分野におけるFrom Rare to Commonの考え方です。

もちろん、家族性ALSの治療が孤発性ALSの全てに効果を示すことはないと思われますが、まずは効果があるものと効果がないものを層別化し、それぞれの群において有効な治療法を開発していくことが重要だと考えています。

世界ではiPS細胞を用いた創薬の治験がいくつか進行していますが、慶應義塾大学医学部では、ALSとペンドレッド症候群(遺伝性難聴の1つ)に対する病態解析と創薬研究を進めています(2019年12月現在)。

神経の再生医療は新規性が高い分野であるため、今後いかにして最適化を進めるかが課題であると捉えています。

新しい治療法の開発では、通常、ヒトで試験を行う前に動物実験を行います。動物実験はいくつかの個体を用いて統計的に解析するため、特定の条件になるよう慎重に整えられた環境で行われます。ところが、実際の患者さんというのは一人ひとり個体差があり、条件が異なります。この違いたるや非常に大きいもので、特定の条件下で効果を示すだけでは不十分であり、新たな治療を広く普及させるためには最適化の過程が必須なのです。

では、神経の再生医療ではどのように最適化を進めていくべきでしょうか。

再生医療は、細胞の再生能力を引き出しながら臓器を再生させる組織工学的な側面があります。そのため、たとえばiPS細胞を移植するときにどのような形状がより効果的なのかを検証することが重要です。根本となる細胞成分が共通であっても、移植するものの形状によって効果に差が生まれる可能性は十分にあります。よって、最適と思われる方法を求めて、一つひとつの工程をくまなく調べて微調整しながら臨床研究を進めていくことが必要です。

近年では、再生医療とほかのさまざまな分野の技術を組み合わせた新たな治療法の研究、開発に注目しています。たとえば、遺伝子治療と組み合わせた例として、ALSの治療に関する動物実験では、肝細胞増殖因子(HGF)という神経栄養因子(細胞の外側から、神経細胞に有益にはたらくたんぱく質)を脊髄腔内投与したときの顕著な延命効果が示されています。現在、有効な治療法が存在しないALSに対して新たな治療法が開発されれば、社会にもたらす恩恵は大きいでしょう。

先ほどFrom Rare to Commonのお話で“層別化”について触れましたが、遺伝子治療などの発展によってサブタイプと治療法の層別化が進めば、病気の分類そのものが大きく変わる可能性があります。つまり、これまでは病理や臨床症状などに基づき病気の診断を行ってきましたが、今後、遺伝情報やiPS細胞技術を用いたフェノタイプ分類*などのしっかりとしたバイオマーカーに基づく層別化を行うことができれば、それぞれの病態に応じた個別化医療の実現に近づく可能性があるのです。実際、がんの分野では個別化医療の考え方が徐々に浸透しています。

*フェノタイプ分類:遺伝的素因と環境要因によって形成された臨床像に基づき分類された病気のサブタイプ(=フェノタイプ)を解析し、分類すること。

iPS細胞の技術は、再生医療のほかにも、病気の原因を解明する研究にも活用できます。その方法は、難治性疾患の患者さんの体細胞からiPS細胞をつくったあとに患部の細胞に分化させ、患部の状態、機能がどのように変化するのかを解析するというものです。この方法は、外側からアクセスすることが難しい脳内の神経細胞の変性を観察することができる点、また、人体では実施の難しい薬剤や治療法の検査などが可能になるという点から、画期的な方法といえるでしょう。

神経の研究を始めてから30年余りが経過しました。今、ようやく再生医療を通じて患者さんを治すという段階にまで到達しようとしています。私はこれからも基礎研究の道で、治療が困難といわれてきた病気の解明、そして新たな治療法の開発に尽力する所存です。

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