DOCTOR’S
STORIES
内科的アプローチでよりよい肺がん治療を目指す髙橋和久先生のストーリー
私の父は医師でした。そのため「医者」という仕事がどういうものなのか、幼いころからよく知っていました。
「私も将来は医師になろう。その中でもがんを診れる医師になりたい」
漠然と、そういうことを学生のころから考えていました。
医学部に進んだ私は、診療科選びに迷いました。内科にするか、外科にするか、その二択にすらも迷っていたのです。最終的には「内科」を選んだわけですが、その意思決定に大きく影響を与えたのは、「やっぱりがんの診療をしたい、全身を診る診療がしたい」という自分の直感。そして何よりも迷っていた自分に父が投げかけてくれた言葉が大きかった気がします。
「がんの外科治療が必要なくなる世の中が一番良い」父はそう言いました。
メスを入れないで治す、それが理想の医療なんだと。この言葉を聞いて私は内科的なアプローチでがんを治していきたいと強く決心しました。
医学部を卒業し、2年間に及ぶ初期研修を終えた私は、どの専門に進むか、再び大きな意思決定に迫られます。循環器内科、消化器内科、膠原病内科、目の前には様々な道が広がっています。
「どの専門を選ぶべきか……」
そう考えたとき、「一番治らないがんを診よう」と思ったのです。
当時、最も難治とされていたがんは肺がんでした。当時、肺がん患者の生存率は著しく低く、特に進行性肺がんのほぼ全例が「余命6ヵ月」の診断。数多くの方が肺がんで亡くなっていました。こんなにも治らないがんがある。絶望する患者さんを救える医師になりたい。肺がんという病気にたどり着いた私に、そうした想いが芽生えるようになりました。
人には様々な形の「やりがい」があると思います。たとえば、亡くなってもおかしくない容体の患者さんでも、適切な治療をすることで元気に歩いて退院させるまでに回復させられる循環器内科のような診療科もあります。一方で、医師がどんなに頑張っても、結局、延命以上のことはできない。そんな疾患を診る診療科もあります。
呼吸器内科における肺がん治療の位置付けはまさに後者でした。治療方法や診断方法が確立していない領域が私にはきっと適している。こうして私は、呼吸器内科の道へと導かれていったのです。
そして、呼吸器内科に入局した私は、病が治らず、亡くなっていく、数多くの肺がん患者さんを目にします。こうした現実に直面することを覚悟していたのですが、実際に目の当たりにすると、もどかしい気持ちが止みません。
とはいえ、もどかしい気持ちを抱えていても前には進めません。それでは、どういう方法があるのか。考えぬいた末、私は肺がんの原因を突き止める仕事、つまり病態の研究に取り組むことにしたのです。
それは、入局して2年目、医師になってから5年目のことでした。
私は医学部6年生のとき、国家試験を受けて結果が出るまでの1カ月間、スタンフォード大学に留学し、ラボに入り浸っていたことがありました。ここは今では有名であるフローサイトメトリー(FCM)を作り出したラボです。この留学のきっかけは順天堂大学医学部 免疫学講座の奥村先生に作っていただいたものでした。
研究へと取り組むことを決めた私は、大学院生として国内留学をするのであれば奥村先生の研究室へ行きたい、と思いつきます。先生は私が学生時代にスタンフォード大学に行った時のことを覚えていらっしゃいました。そして奥村先生のもとで免疫の研究を進めていくこととなります。この決断は、結果的に私の人生の舵を大きく切るきっかけとなりました。
2年間の国内留学で基礎研究の大切さを学びました。しかしここでは一般の免疫学の研究が主で、がん免疫を詳しく学ぶことはできませんでした。「がん免疫の研究がやりたい。」そう思っていた私に大きな転機が訪れます。大学に免疫学の講演に来てくださった先生(佐谷秀行 現慶應義塾大学教授)が、アメリカでラボを開いているという話を耳にし、その先生へコンタクトをとると、「自分の弟子が、ポスドクとして独立してハーバード大学へ行く。留学したいなら紹介してあげるよ」と嬉しい話が舞い込んできました。
当時は今のようにEメールがない時代でしたので、紹介してもらったハーバード大学のKenneth K. Tanabe先生へ、ファックスを送ります。するとすぐにTanabe先生から電話がかかってきて、「君はどんな人なんだ」とインタビューが始まりました。そしてインタビューのあと、「わかった、きなさい」と返事をもらいました。こうして私の留学は一瞬で決まったのです。
留学は、約3年間にわたりました。あの名門のハーバード大学ですから、はじめてラボに向かったときは、それはすごいところにちがいないと気を張っていましたが、現地の研究室にはボスとテクニシャン、そして私の3人のみ。ラボは立ち上がったばかりだったのです。
おかげでラボのセットアップをすべて任せられる事態になりましたが、その結果、ボスの指導を手厚く受けられたことは大きな収穫でした。こうしてボスであるTanabe先生は、私の人生の2人目の恩師になってくれました。こうした過程を経て、私は呼吸器内科学、特に肺がんの病態研究に深く携わるキャリアを形成していきました。
このあと順天堂大学へと戻り、44歳のときに教授へ就任しました。24歳で医者になり、44歳で教授になったので、教授になるまでは20年。この20年で学んだ肺がんの診療・研究の経験はかけがえのないものになりました。
私が教授をつとめる教室では、肺がん患者の臨床と病態・治療研究に力を入れています。肺がんの治験にもたくさん携わり、未来の「創薬」の実現を目指しています。「がんを内科的治療で治したい」「肺がんで亡くなる患者さんを救いたい」今の環境は、私がずっと抱いてきたこうした想いを実現させていくために、最も理想的な場所だといえるでしょう。
「優れた医師とは、優れた研究者であると同時に優れた臨床医である」私はそう思っています。臨床と研究の大切さを伝え、私を超える医師を育てていく。これからはそういった形で一人でも多くの呼吸器疾患の患者さんを救っていきたいと思います。
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