DOCTOR’S
STORIES
放射線治療の可能性を追い求める藤井正彦先生のストーリー
私が医師を志したきっかけには兄の影響があります。私が中学生の頃、当時高校3年生だった兄が突如「医学部を目指したい」といい出しました。「医師になる」という選択肢はそれまでの私の頭にはないものでしたが、兄の医療に対する強い思いや頑張る姿をみて、「自分も医師を目指したい」と思うようになりました。
当時、父と母は家を建てるため、地道に貯金をしていましたが、兄や私の「医師になりたい」という希望を叶えるため、家を建てることを諦め、二人の子どもたちを医学部に通わせてくれました。
特に父は自分自身が学生時代、自分の行きたかった学校に通うことができず、学ぶことができなかったという苦い経験を持っていたそうで、兄や私に同じ思いをさせぬようにしてくれたようです。
兄と同じ神戸大学医学部に進学し、いよいよ診療科を決定する大学6年生になった頃、72歳の祖父が進行肺がんに罹患しました。2017年現在のがん治療であれば、80歳を超えるご高齢の患者さんに手術など積極的な治療を行うこともあります。しかし、1980年代当時72歳の患者さんに積極的ながん治療を行う環境はなく、本人には肺炎と伝え、緩和ケアを行うことになりました。そして、入院から10日間の後、祖父は安らかに亡くなりました。
自分自身が緩和ケアに携わっている今なら、進行がんを罹患している患者さんに積極的な治療を行わず、苦痛を取り除く緩和ケアだけを行うという選択肢にも納得できます。しかし、医学生であった当時は「何も治療せず、見守っていくしかないのだろうか……」と、歯がゆさを感じずにはいられませんでした。そこで私はがんに携わる診療科に進む決意をしたのです。
数ある診療科のなかで、最終的に私は放射線科を選択しました。その理由は放射線科であれば治療はもちろんのこと診断も行うことができ、臓器別に縛られず幅広い知識を手に入れることができると考えたからです。
1980年代はまだ腫瘍内科という診療科がなく、放射線科の医師が放射線治療だけでなく化学療法、緩和ケアも請け負っていたので、放射線科で学べる知識は多岐にわたっていました。特に私が進んだ神戸大学の放射線科は肺がんが専門であったため、放射線科を選択しました。
これまで私の進路には口を挟まなかった父ですが、私が「放射線科を選択したい」といったら、猛反対されてしまいました。それは、父と祖父が広島の原爆で被爆した経験を持っていたからです。
父と祖父は幸い一命をとりとめました。しかし「被爆の影響が自分の子どもたちにも及ぶのではないか」と懸念し、父は結婚するかどうか非常に悩んだ過去があったようなのです。そんな父からすれば、なぜあえて放射線を取り扱う仕事を選択する必要があるのか。その部分がどうしても納得がいかなかったようです。
私は父に放射線を用いた医療の可能性・安全性をしっかり説明しました。最初はなかなか理解して貰えず渋々受け容れるといったかたちでしたが、最終的に私の活躍を喜んでくれ「お前に訊いたらなんでも教えてくれるから安心だ」といってくれたときは、とても嬉しく思いました。
このように紆余曲折を経て選択した放射線科の道でしたが、私はそこからおよそ20年がん治療とはあまり関係のない分野を専門に学ぶことになります。
まず、放射線科に入局して最初の上司がIVRの専門家であったため、10年間は肝臓がんのIVR治療や画像診断を学ぶことになりました。IVRは日本語では「画像下治療」と呼ばれ、血管造影検査やCT、超音波などを用い、体内の様子をみながら、カテーテルや針などで治療の処置を行う治療方法です。
放射線治療を専門にするつもりで放射線科を希望したので最初は戸惑いましたが、IVR や画像診断もやってみると奥が深く、とても勉強になりました。
関連病院での研修が終わり、大学へ戻りいよいよ自分の学びたいテーマで研究できると思った矢先、今度は導入されたばかりのMRIの責任者に任命されてしまい、MRIによる画像診断で研究することになりました。1990年当時はMRIが普及し始めた頃だったので、MRIの指導者は国内では非常に少なく、結果的にMRI診断を学ぶためアメリカへの留学を経験することになり、学位もMRIの研究で取得しました。
IVR同様、MRIもそれ自体に非常にやりがいがあり、新しい画像診断としてとても魅力的でした。しかし、その一方で「自分の医師人生は、がん診療に専念することなく、画像診断中心で終わってしまうのか」と思い悩むこともありました。
日々の診療にやりがいを感じながらも、がん診療に後ろ髪を引かれていた頃のことです。神戸大学医学部附属病院において、最先端の放射線治療を集めた医療施設を開設するプロジェクトが、病院長で放射線科教授の杉村先生の下でスタートしました。神戸大学は放射線治療装置を増設するスペースがなく、より高度な放射線治療が行える環境が求められていました。この医療施設は「神戸低侵襲がん医療センター」と名付けられ、2013年に無事開院しました。私はこのプロジェクトに放射線科准教授として発足当初から携わっていたことにより、55歳のときに病院長に就任することになりました。
病院長を任されたとき、私は医師として残された10年余りの時間をがん診療に捧げる覚悟で引き受けました。自らが経験してきたことを糧に、放射線治療はもちろん診断や緩和ケアにも力を入れ、今度こそ自分の志した分野で悔いが無いよう努力しようと心に決めたのです。
実際にこの病院でがん治療を中心に診療していると、IVRやMRI診断で学んできたこと、研究してきたことは無駄ではなかったと思うことがしばしばあります。専門的な知識はもちろんのこと、多くの患者さんとの出会いによって教えられたこと、自分のさまざまな経験から学んだものが、今現在のがん治療に役立つのです。医師として最初に志したものをずっと忘れずに走ってきたからこそ、今の私につながっているのだと感じています。
祖父が肺がんで亡くなってから長い年月が経ちましたが、その間にがんの治療は大きく進歩しました。特に放射線治療は、昔の緩和的な照射から、がんの根治を目的としての活用が拡がって、役割は大きく変わりました。私は今、患者さん一人ひとりの背景を汲んで、患者さんやご家族が納得して貰えるようながん治療を提供するように努めています。
私は「おかげさま」という言葉が好きです。「おかげさま」の精神は父から学びました。戦争を経験してゼロから生活を整えてきた父は、歳を取ってからもことあるごとに「みんなのおかげで……」とよく口にしていました。
私が今ここで院長を務めているのも、今まで出会ってきた沢山の方々があってこそのことだと思っています。多くの尊敬する先生方を始めとする医療従事者だけでなく、沢山の患者さんやご家族との出会い、本当にいろいろな人達が今の私を育ててくれたので、その方々への感謝の気持ちをいつまでも忘れず、今後も診療に携わっていくつもりです。
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神戸低侵襲がん医療センター
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