自分が志したものを忘れずにここまで来た

神戸低侵襲がん医療センター 理事長・病院長 神戸大学大学院医学研究科客員教授
藤井 正彦 先生

自分が志したものを忘れずにここまで来た

放射線治療の可能性を追い求める藤井正彦先生のストーリー

公開日 : 2017 年 09 月 29 日
更新日 : 2017 年 09 月 29 日

診療科の決定までの歩み

私が医師を志したきっかけには兄の影響があります。私が中学生の頃、当時高校3年生だった兄が突如「医学部を目指したい」といい出しました。「医師になる」という選択肢はそれまでの私の頭にはないものでしたが、兄の医療に対する強い思いや頑張る姿をみて、「自分も医師を目指したい」と思うようになりました。

当時、父と母は家を建てるため、地道に貯金をしていましたが、兄や私の「医師になりたい」という希望を叶えるため、家を建てることを諦め、二人の子どもたちを医学部に通わせてくれました。

特に父は自分自身が学生時代、自分の行きたかった学校に通うことができず、学ぶことができなかったという苦い経験を持っていたそうで、兄や私に同じ思いをさせぬようにしてくれたようです。

祖父の肺がんをきっかけに放射線科へ

兄と同じ神戸大学医学部に進学し、いよいよ診療科を決定する大学6年生になった頃、72歳の祖父が進行肺がんに罹患しました。2017年現在のがん治療であれば、80歳を超えるご高齢の患者さんに手術など積極的な治療を行うこともあります。しかし、1980年代当時72歳の患者さんに積極的ながん治療を行う環境はなく、本人には肺炎と伝え、緩和ケアを行うことになりました。そして、入院から10日間の後、祖父は安らかに亡くなりました。

自分自身が緩和ケアに携わっている今なら、進行がんを罹患している患者さんに積極的な治療を行わず、苦痛を取り除く緩和ケアだけを行うという選択肢にも納得できます。しかし、医学生であった当時は「何も治療せず、見守っていくしかないのだろうか……」と、歯がゆさを感じずにはいられませんでした。そこで私はがんに携わる診療科に進む決意をしたのです。

数ある診療科のなかで、最終的に私は放射線科を選択しました。その理由は放射線科であれば治療はもちろんのこと診断も行うことができ、臓器別に縛られず幅広い知識を手に入れることができると考えたからです。

しかし、父からは反対されてしまう

1980年代はまだ腫瘍内科という診療科がなく、放射線科の医師が放射線治療だけでなく化学療法、緩和ケアも請け負っていたので、放射線科で学べる知識は多岐にわたっていました。特に私が進んだ神戸大学の放射線科は肺がんが専門であったため、放射線科を選択しました。

これまで私の進路には口を挟まなかった父ですが、私が「放射線科を選択したい」といったら、猛反対されてしまいました。それは、父と祖父が広島の原爆で被爆した経験を持っていたからです。

父と祖父は幸い一命をとりとめました。しかし「被爆の影響が自分の子どもたちにも及ぶのではないか」と懸念し、父は結婚するかどうか非常に悩んだ過去があったようなのです。そんな父からすれば、なぜあえて放射線を取り扱う仕事を選択する必要があるのか。その部分がどうしても納得がいかなかったようです。

私は父に放射線を用いた医療の可能性・安全性をしっかり説明しました。最初はなかなか理解して貰えず渋々受け容れるといったかたちでしたが、最終的に私の活躍を喜んでくれ「お前に訊いたらなんでも教えてくれるから安心だ」といってくれたときは、とても嬉しく思いました。

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神戸低侵襲がん医療センター 理事長・病院長 神戸大学大学院医学研究科客員教授

藤井 正彦 先生

1982年神戸大学医学部卒業。2013年より神戸低侵襲がん医療センター理事長、病院長に就任。

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