私は、広島で生まれ育ちました。幼い頃は体が弱く病気がちで、たびたび近所の病院にお世話になりました。1歳のときには大きな感染症にかかるも、ある医師のおかげで一命をとりとめたのだと、のちに両親から聞かされます。そのような病弱な幼少期を過ごしたせいか、小学校に上がる頃には「自分は医療のおかげで生きている」という感覚が芽生えていました。
幸い、ある時期からはほとんど病気をしなくなりましたが、幼少期の記憶は私の心に深く残っていて、小学校卒業の文集には「将来は医者になる」と書いてあります。高校2年の冬には改めて医学への道を決心し、無事、広島大学医学部へ進学しました。
1982年に医学部を卒業し、研修医としてさまざまな診療科をまわりました。その頃は特に進むべき診療科を見定めていたわけでもなく、内科か外科さえも決めかねている状態でした。ぼんやりと「どの診療科を選んでも、いつかは地元で開業医としてやっていこう」と考えていたように思います。
いくつも診療科をまわるうち、腫瘍外科に興味が湧きました。当時は、がんの発症メカニズムの解明がものすごいスピードで進められ、がん治療の歴史における第一フェーズともされる時代でした。今では信じられませんが「あと10年で、人間はがんを克服する」といわれていたのです。同級生からは「今がんを選んでどうするんだ?」といわれたりもしましたが、腫瘍外科に話を聞きに行ったところ、当時教授だった服部孝雄先生に出会い、教室の雰囲気に惹かれました。服部先生から「腫瘍外科はあらゆる治療をするんだよ」と教えられ、私は入局を決意します。
腫瘍外科では、消化管外科・乳腺外科を中心に扱っていました。当時、乳がんは患者さんの数自体が少なく治療内容も今よりシンプルでしたから、乳腺外科は臨床(実際に患者さんを診察・治療すること)より基礎研究に重きを置いていました。2年目からは佐賀県医療センター好生館などで研修を行いました。それまで地元で開業しようと考えていた私も、そこで医学の広がりを感じ、もっと腫瘍外科の分野を極めたいと考えるようになります。
研修後は広島大学へ戻り、研究に没頭。1987年からは、九州がんセンターに勤めました。九州がんセンターは、乳がんの領域で日本のみならず世界的にも確固たる地位を有していました。乳がんのプロとされる著名な医師に囲まれ、最先端の研究・治療に触れたことで、乳がん治療の奥深さを知り、大きな刺激を受けました。
「乳がんのプロフェッショナルになりたい」
私は、そう心に決めたのです。
乳がんは、女性ホルモンが大きな関わりを持つ疾患です。もし女性の持つ女性ホルモンが、男性と同じレベルの分泌量であるとするなら、乳がんの発症リスクは100〜200分の1ほどになります。我々が子孫を繁栄させるために種としての性別があり、しかし同時にその性差をつくるホルモンが、我々の体に脅威をもたらしうる—。そこには、生命の不思議が垣間見えるようです。
先にも述べましたが、私が医学を学んでいた1980年代当時、がんの発症メカニズムについて急速に研究が進みました。乳がんに関しては、ネズミやラットの実験を通して少しずつ発症メカニズムが解明されつつあったのです。現在のようにインターネットで膨大な情報から取捨選択できる時代ではなかったため、私は乳がんについての本や医学雑誌を片っ端から読み漁り、乳がん治療の面白さにのめり込んでいきました。
1988年、研究を深めるために留学しようと考え、国の助成システムに応募しました。しかし初年は申請が通らず、翌年、アメリカの大学に4通、イギリスの大学に1通のレターを直接送り、留学の受け入れを打診しました。そのうち2つは「すでに日本人が在籍しているため今すぐには難しい」との返事を受けましたが、アメリカから1通、イギリスから1通の受け入れ許可の返事をもらいました。
イギリスへのレターは、エイドリアン・ハリス先生へ送りました。彼は30代の若さで教授になった、腫瘍学の権威です。彼からのレターには、3枚に渡って歓迎の文章が綴られていました。私はその手紙を読み、すぐにお礼の返事を書きました。
1990年から、英オックスフォード大学分子医学研究所に留学し、エイドリアン・ハリス先生の指導のもと腫瘍学の研究を行いました。留学先の研究所には、海外からたびたび著名な医師が訪れました。彼らは到着した日に研究所のボスと会合し、翌日はほぼ1日中ラボ(研究室)にこもります。お昼には講演会がありますが、講演会の前や後にもラウンドをしてくれて、質疑応答の時間が設けられました。彼らは、私が拙い英語で必死に疑問をぶつけても、丁寧に答え相談に乗ってくれたものです。
またオックスフォード大学では研究テーマの設定から開始までが非常にスムーズで、たいへん驚きました。
「これまで私がみていたものは、世界のほんの一部だったのか」
大きなカルチャーショックでした。国が違えば人と文化が違う。文化が違えば、研究のスピードも異なり、医療に対する世界観も異なるのです。私は驚きと同時に、刺激を受けました。自分のみてきたものが覆され、その土地の当たり前を知る。留学経験は、私自身の価値観に大きな影響を与えました。
帰国後は、東京都立駒込病院の外科に勤務しました。東京都立駒込病院は日本のビッグボリュームセンターの1つで、国内で2番目に多くの患者さんを受け入れていた(1992年当時)ため、非常に忙しい環境でした。まだ乳がん専門の医師も少なく、患者さんの需要に対する供給の不足を感じざるを得ませんでした。
2000年6月から3ヶ月、米ハーバード大学医学部ダナ・ファーバー癌研究所に短期留学をしました。ダナ・ファーバー癌研究所では、医者はもちろん専門看護師や薬剤師など多くのスタッフが揃い、乳腺専門のチームを構成していました。1日に100名もの患者さんをみていることにまず驚きましたが、さらに様々な臨床研究、臨床試験を行っている現実を目の当たりにして、私はあらためてアメリカの臨床基盤の強さや患者さんの治療データに基づく応用研究の凄まじさを感じました。多くの患者さんをみて、その膨大なデータをもとに研究をし、さらにエビデンスを創る、それは臨床研究の理想であると同時に、当時の日本ではまだまだ遠い出来事のように思えました。私は、アメリカで感じた臨床研究における日本とのギャップを、なんとかして埋めたいと考え始めました。
1992年から在籍したがん・感染症センター都立駒込病院は、日本における臨床試験のモデル病院の1つです。2004年からは臨床試験科の部長として治験(医薬品の製造販売に必要な臨床試験)事務局を担当し、アメリカの完成されたシステムを見習い臨床試験の基盤をつくるべく奔走しました。国際共同治験や医師主導型の臨床研究を行うなど、かなりのエネルギーを注ぎ込んだ結果、少しずつ乳がん専門医を始めスタッフは増加、システムも整い始めました。数年後には本格的にグローバルな臨床試験に参加するまでになります。
腫瘍(がん)学は非常に奥深い領域で、未だ解明されていないことが数多く存在します。学生時代に「あと10年で、人間はがんを克服する」といわれていたことが、嘘のようです。がんの治療は1980年代からものすごいスピードで研究が進み、これまで内視鏡手術やホルモン療法、標的治療、がん免疫療法など、さまざまな薬や治療法が開発・実用化されました。
乳がんに関する文献は、がんのなかでも圧倒的な数が存在します。年間に何千本もの文献が新たに書かれている、その事実が、乳がんの奥深さを物語っているように思います。今後さらに乳がんの研究が進めば、より多くの患者さんを救うことができるはずです。
2007年からは京都大学大学院医学研究科で教育に携わっています。現在は、これまで私の医師人生で培ってきた知識・経験を惜しみなく伝え、乳がん治療の新たな時代を担う人材を育成することに、やりがいを感じています。これからは教育を通して、乳がん治療の世界で活躍する次の世代を育成し、医療の発展に少しでも貢献したいと考えています。
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がん・感染症センター東京都立駒込病院
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