社会全体の高齢化に伴い、義歯(入れ歯)による口腔機能の回復はますます重要になっています。現在の義歯製作では、すでに一部の工程をコンピューター制御で行っています。今後増加が予想される義歯製作の需要に対して、東京医科歯科大学大学院医歯学総合研究科教授の水口俊介先生は、CAD/CAMと呼ばれるソフトウェアによる全部床義歯(総入れ歯)製作の研究に長年取り組んでおられます。高齢者の義歯治療における課題と最新技術のトピックスについて、水口俊介先生にお話をうかがいました。
総入れ歯(全部床義歯)のいわゆる「入れ歯安定剤(義歯安定剤)」は、本来使わない方がよいものとされており、これまでは大学でも正しい使い方については教える機会がありませんでした。そのため、歯科医師から患者さんへの指導も十分とはいえず、メーカー側からの情報提供のみにとどまってるという現状があります。
合っている義歯では安定剤はごく少量使うことで義歯の性能を向上させることができ、そのことについては文献等で一定のエビデンス(科学的根拠)も示されています。ただし、入れ歯が合っていなくて痛いからという理由で入れ歯安定剤をずっと使い続けることは好ましくありません。そのような場合は歯科医師に調整をしてもらい、内面の裏打ちをするなど、合わせ直しをしてもらう必要があります。もちろん咬み合せも調整しなければなりません。
高齢化により総入れ歯を使う方の年齢が高くなったため、従来に比べると歯ぐきの土手の部分がなくなって装着が難しいケースが多くなっています。高齢になると巧緻性(こうちせい・手先を動かすことの巧みさ)や適応能力が低下するため、入れ歯を使いこなすことが難しくなり、そのことが義歯治療において大きな問題となっています。
たとえば認知症の方の場合、義歯を作ること自体が難しい上に、作った義歯を使っていただくことはさらに困難です。ところが、認知症になる前から義歯を使い続けている場合、認知症になってからも義歯を使い続けることはそれほど難しいわけではありません。そのことは私自身、実際に何人もの患者さんを通して経験しています。
咬み合せの調整も重要であり、けっして簡単なことではありません。土手がなくなって平坦になってしまったところに義歯を入れるには、歯科医師にも相当のスキルが必要とされます。
しかしその一方で、入れ歯を使っていく側にも、たとえば一輪車に乗るのと同じようにある種のトレーニングが必要であり、個人の身体能力にも左右される部分があります。一定以上の技術をもって義歯を作り、調整をすればすべての人が使いこなせるかというと、おそらくそうはいかないでしょう。安定剤の力を借りてもなおうまくいかない場合はあります。
義歯安定剤には2つのタイプがあります。ひとつは糊(のり)として機能するタイプで、もうひとつはゴムのように弾力があってクッションとして機能するタイプです。現在、クッションタイプの安定剤は好ましくないとされ、アメリカのADA(American Dental Association:全米歯科医師会)では歯科医療のための製品として認めていません。
日本でも基本的にクッションタイプの安定剤を使うことは好ましくないと考えられていますが、それでも実際に使っている方がいるということは、それだけ義歯を使い続けることに困難を抱えている方が多く、歯科医師がそれに十分対応できていない状況があるということを意味しています。
歯科医師一人ひとりのトレーニングやスキルアップ、歯科衛生士も含めたスタッフへの教育という問題もありますが、患者さんや一般生活者の皆さんに対しても口腔機能の大切さを啓発していくなど、社会全体の意識を高めていくような取り組みも行っていかなければならないと考えています。
近年の IT 技術の進歩にともない、補綴の領域にも CAD/CAM と呼ばれるシステムが導入されるようになっています。現在のところ、かぶせ物の治療に用いる冠(クラウン)の部分についてはコンピューター制御で削り出すことが可能になっており、より高い精度と製作時間の短縮を目指すところまで来ていますが、総入れ歯(全部床義歯)の製作についてはまだまだこれからという段階です。アメリカでは全部床義歯を作る商業ベースのCAD/CAMシステムが2種類ありますが、今後も品質向上に向けてより一層の進歩が期待されています。
コンピューターが得意とする部分と人間が得意とする部分はそれぞれ異なっているので、たとえば歯の排列の関係などをデータベース化して、そこから適切な排列パターンを見つけられるようなアルゴリズムができれば、その人にとって最適な入れ歯を製作する上で大きな助けになるでしょう。
コンピューターによるシミュレーションは、特に教育の面で有効です。総入れ歯(全部床義歯)を使っている方はお年寄りが多いため、今後は大学病院などに来ることがだんだん難しくなり、地域の歯科医で診てもらうことが多くなると考えられます。そのため、臨床教育に協力してくれる患者さんが少なくなっているのですが、十分な教育の機会を持つためには、バーチャルペイシェント(コンピューターのプログラム上に構築された仮想患者)を作って、それに対して義歯を設計するというようなトレーニングができればよいと考えています。また地域の歯科医が義歯を作るときの指導にも利用することができます。
我々はコンピューターで義歯を作るということを何年もかけて研究しています。実際には製作した義歯を口の中に入れることができるような状況にはなっていますが、製作コストの問題など商業ベースで市場に流通するようになるには多くの課題が残されています。しかしコンピューターで義歯製作ができるようになれば、歯科教育のさまざまな面でレベル向上を図ることができます。我々はそういった点も最終的な目標のひとつとして視野に入れています。
義歯製作のワークフローをコンピューターの導入によって見直すことで、製作に要する期間は確実に短縮することができます。おそらく、1度外来に来ていただくと、次回には義歯ができているという状況になると見込まれています。
ただし、問題はそうして作った義歯を口の中に入れて、すぐに痛みなく使えるようになるわけではないという点です。実際には口の中に入れてからの調整がどうしても必要になりますし、従来の義歯であれ、コンピューターで作ったものであれ、その部分はおろそかにできません。
現実には、保険診療で作った義歯の調整をおざなりにして、うまく合わないからといってまた別のところで作り直すということを繰り返しているケースも少なからず見受けられます。
極端な話、ぴったりと合う入れ歯にたどり着くまでに10回作り直すのであれば、診療報酬を10倍にして1人の歯科医師のところで作ってもコストは変わらないということになってしまいます。このような現状は医療側の問題として、今後変えていかなければならないと考えています。
コンピューターによる義歯製作という我々の研究を完成させるには、医学や歯学領域の教育だけではなく、工学とのコラボレーションが必要であると考えています。しかしコラボレーションが成立するには、やはり何らかの経済的なメリットがなければなりません。
そこで考えられるのは国際協力です。ヨーロッパや北米などの先進国以外、たとえば東南アジアなどでは、これから先、急速な高齢化を迎えていくことになります。現在人口が増えている地域では、将来的に今の日本よりも極端な高齢化も起こりえます。
そこで今後どのような義歯が求められるかを考えると、将来的には総入れ歯や大きな部分入れ歯を必要とする方たちが非常に多くなると予想されます。そのような国々へ日本の先行した技術を輸出することによって、ビジネスあるいは国際協力という形でのコラボレーションが可能になるのではないかと考えています。東京医科歯科大学は国際協力に力を入れているので、そういった意味でも期待できる部分がありますし、取り組みを急がねばならないと考えています。
東京医科歯科大学 大学院医歯学総合研究科 高齢者歯科学分野教授、東京医科歯科大学病院 口腔機能系診療領域 (専)高齢者歯科外来
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