DOCTOR’S
STORIES
新たな学びを得ることを楽しみ、成長を求め続ける山﨑 正雄先生のストーリー
私は、高知県ののどかな土地で生まれ育ちました。幼少期から体を動かすことが好きで、小学生のときには少年野球のチームに、中学・高校ではテニス部に所属していました。スポーツは、自分で考えて努力すればしただけ上達して結果に結びつくという点が、私にとっては非常に楽しかった。結果を出すために試行錯誤を重ねる過程も一切苦にはならず、高校時代にはインターハイにも出場することができました。そのおかげもあり、テニスで東京の私立大学から推薦のお話もいただきました。ただ、“途中で体を壊し退学を余儀なくされてしまったら……”と考えると、一般入試で大学に進学したほうがよいのではないかと感じ、そのお話は断ろうと決めたのです。
医師になるという選択肢を明確に意識したのは、高校3年時のインターハイを終えた日でした。試合で疲れ果てて帰宅し、自宅でゆっくりお風呂に入っているときに“将来はどうしようか”とあらためて考えました。祖父が天文学者、父が小学校の教師という環境で育ち、そのほかの親戚の顔を思い浮かべてもいわゆる“会社員”として働いている人はおらず、自分自身が企業に就職して会社員として働いている姿も、まったく想像できなかったのです。
興味があったのはロケット工学者や役者、文学者でした。しかし、当時の私には、それらを仕事にするには抜きんでた才能がなくては難しいように思えました。そうこう逡巡していると、ふと、“医師を目指すべきじゃないか”とひらめいたのです。“医師であれば、医学部入学後からの努力次第でたくさんの知識を得たり、技術を磨いたりすることができるのではないか”“人を救い、世の役に立つことができるのではないか”と。このように考えた私は、医師となることを決断し、医学部へと進んだのです。
私が医学部を卒業した当時は、現在の臨床研修医制度とは異なり、卒業時点で外科か内科のどちらに進むのかを決める必要がありました。初めは、自分の知識を増やしたり技術力を磨いたりし続けたいという思いが強かったことから、外科、特に脳外科医や心臓血管外科医を選択肢として考えていました。しかし、研修医としてそれぞれの科で行われる手術を目の当たりにしたとき、その手術時間の長さをネックに感じました。私はその頃から、より長く医師を続け、少しでも多くの患者さんを自分の手で助けたいと考えていました。その一方で、脳外科で行われるような長時間の手術を繰り返したとき、果たして自分は何歳まで体がもつのだろうか、何歳まで現役で手術をできるのだろうか、と疑問を抱いてしまったのです。
そして私は、“自分の知識を増やし、腕を磨き続けたい”“できるだけ長く医師として患者さんの治療をし続けたい”という自分の希望を総合的に満たす診療科はないかと、ほかの科にも目を向けることにしました。カテーテル治療など外科的な要素もある内科系の診療科はどうだろうかと考えていたちょうどその頃、循環器内科では“経皮的冠動脈形成術”という新たな治療への取り組みが始まっていました。新たな治療法というだけではなく、それがカテーテルを用いた治療であることを知った私は、直感的に“これだ!”と思い、内科へ、それも循環器内科に進もうと決めました。
それは、受け持ちの患者さんの症例について研修医が教授の前で発表をし、質疑応答を行う症例検討会という場でのことでした。当時の東京大学第四内科の教授、故・
何をするにも、まずは現在の立ち位置を把握すること。現時点で人類が分かっていること、分かっていないことを明確にし、そこをスタート地点として個々の研究のオリジナリティを追求すること。尾形先生とのその会話を通じて私は初めて、これこそが“学問”なのだと気付かされました。これは医学の世界に限った話ではなく全ての分野に共通する話であり、全ての分野において非常に大切なことなのだろうと、私はそう受け取ったのです。そして、教授がいち研修医でしかない私にそのような問いを投げかけてくださったこと、そして結果的にその問いが、私に学問とは何たるかということを気付かせてくれたこと、どちらも私にとって驚きの出来事で、このときのことは今でも鮮明に覚えています。
未だに私が治療や研究について考えるときには、必ず一度は“人類はこのことについてどこまで知っているのか”と自分に問いかけるようにしています。
40歳を過ぎた辺りから、若手医師の指導にこれまで以上に力を注ぐようになりました。これといって何か決定的なきっかけがあったわけではないのですが、強いて挙げるとすれば、自身の立場の変化が、私の教育そのものに対する考え方を変えるきっかけとなったのかもしれません。
それまでの私は、一生何かを人から教えてもらいたい、経験を積ませてもらいたいと強く望んでいました。人に何かを教える立場になると、そこで成長が止まってしまうような気すらしていたのです。元々、医師として自分の腕を磨き続けたいという思いを持っていたこともあり、非常にがつがつと、自分の手で患者さんの治療をすることにもこだわっていました。しかし、いざ後進指導の立場になり、教育をされる側からする側に回ってみると、それは決して自分の成長を止めることにはならないのだと知ったのです。むしろ、人に教えてこそ、自分の至らない部分が見えてくるのだと気付きました。また若手医師からの質問内容がどんどんと高度になっていくにつれ、私自身もまだまだ知識を蓄え、学びを深めなければならないと、気を引き締め直す機会となっています。
今となっては、若手医師たちが治療でよい結果を出したり、論文を執筆したり、そうした成長を見られることが非常に嬉しく、自分1人ではなくチームで治療を行っているということにも楽しさを感じています。そして、チームワークをよりよくするためにも、共にチームで治療をしている医師たち全員を年齢にかかわらずリスペクトし、誠実に接するよう心掛けています。
医療におけるベストは“病気が完全に治ること”なのだと思います。しかし、現実的には全ての患者さんにおいて病気を完全に治すことは難しく、何がベターかという視点で考えなくてはならない場面も多々あります。そのようなとき、私はできるだけ患者さんの望む生き様に寄り添おうと考えています。その患者さんに与えられた選択肢の中で、少しでも明るい未来を展望できるような方法を提示し、患者さんとともに歩んでいくような医師でありたい。同時に、患者さん一人ひとりから学ばせていただいたことを、次の治療へきっちりと生かしていきたい。そのためにも、昨日より今日、今日より明日と、毎日1歩ずつでも成長し続けようと思うのです。
医師になって、30年以上がたちましたが、いまだに知らないことやできないことはたくさんあります。医師として知識を蓄え、腕を磨くことに終わりはありません。これからも1人の医師として、少しでも長く、少しでも多く、患者さんが望む生き様に寄り添い続けられるよう精進したいと思っています。
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