患者さんとともに生きる

DOCTOR’S
STORIES

患者さんとともに生きる

異例の経歴で教授に就任。患者さん第一主義を貫く高本 眞一先生のストーリー

東京大学 名誉教授
高本 眞一 先生

無医村で活動する2人の医師に憧れ、医師の道へ。

アルベルト・シュバイツァーの名言に、

「私は、生きようとする生命に取り囲まれた、生きようとする生命である。」

があります。

「自分は何のために生きているのだろう」と考えあぐねていた思春期、たまたま読んだシュバイツァーの本でこの一節に出会いました。当時の悶々とした気持ちにマッチし、大きな感銘を受けたことを覚えています。

ドイツに生まれたシュバイツァーは、神学者や哲学者・音楽学者など多才な人物として知られています。しかし実は、僻地医療に情熱を注いだ医師でもあります。それを証明するように、彼の献身的な医療奉仕活動は、1953年のノーベル平和賞受賞という形で評価されています。シュバイツァーに出会った若かりし日の私は、彼のように他の命に寄り添い、命を救う活動がしたいと思ったものです。

第2の転機が訪れたのは高校生になった頃でした。ネパールの無医村をまわり、子ども達の予防接種や結核の治療など、現地の医療奉仕活動に従事する岩村昇先生という医師の講演を聞く機会を得たのです。その講演を聞き、「なるほど、こういう生き方もあるのだ」とひどく感動した私は、すぐさま医師になる決意をしました。

医師といっても普通の医師ではなく、シュバイツァーや岩村先生のような医療奉仕活動に従事する医師になりたい。そう考えた私は、患者さんを直接治せる外科医を志向します。一方で、環境が整備されていない無医村で医師になるには丈夫な体が必要であろうと考えた私は、ボート部に入部。ボート部の活動に力を注いだ結果、すっかり劣等生になってしまったのです。しかし、ボート部の中で「ともに生きる」ことができた私はそこに生きがいを見つけることができ、幸せな学生生活を送ることができました。

教授になるよりも、医師として実力をつけたい。

私が大学生だった頃といえば、ちょうど学生運動が盛んな時期。大規模なストライキのおかげで卒業が1年伸び、2学年が同時に卒業するという今では信じられない事態に陥ったのです。

お話ししたように、私は入学当初から外科を専攻したいと考えていました。しかし、ただでさえ人気の外科に2学年分の学生が押し寄せるわけですから、当然、意中の外科医局には志望者が溢れてしまいます。最終的に命運を託したくじ引きにも見放され、希望する医局への入局は叶わぬ夢となってしまいました。

藁をもすがる思いで、研修医を募集していた私立病院の応募を検討しますが、劣等生だった私は、とても試験に合格できる状況ではありませんでした。

呆然とする私でしたが先輩の縁でひとつの道が開けます。その場所こそ、現在病院長を務める三井記念病院でした。

「ここにきたらお前を一人前の外科医にしてみせる」

先輩に力強い言葉をもらった私は、三井記念病院の医師になることに決めました。

恩師のおかげで、劣等生から一人前の医師へ。

三井記念病院では、恩師と呼ぶべき先輩医師との出会いがありました。それが、尾本 良三先生です。面倒見がよい尾本先生には、技術や考え方など医師としての基本を教えてもらいました。ハーバード大学へ留学することができたのも、埼玉医科大学の講師に就任できたのも、すべて尾本先生の引き立てがあったからです。

このように、尊敬すべき周囲の方たちのおかげで、劣等生であった私は、なんとか一人前の医師になることができました。

三井記念病院から埼玉医科大学へと移った私は、講師を8年経験した後、公立昭和病院心臓血管外科主任医長に就任しました。そこで私は、心臓血管外科手術中の脳虚血を防ぐ、新たな術式を開発します。それが、「髙本式逆行性脳灌流法」です。これは、遠位弓部大動脈瘤手術の成功率を高め、後に多くの患者さんを救うことになる術式です。

この新たな術式の開発は、ある転機を私にもたらしました。それが、尊敬する三木 成仁先生との出会いです。

もともと、逆行性脳灌流法という術式を考案したのは、天理よろづ相談所病院の上田 裕一先生ですが、その恩師の三木先生が最初のアイデアを上田先生に伝えたのです。この逆行性脳灌流法を応用する形で髙本式逆行性脳灌流法は誕生しました。

三木先生とは、逆行性脳灌流法を研究するなか、上田先生とともに学会でシンポジストになったことがご縁となり交流がスタートしました。

尊敬する三木先生から学んだのは、人を育てる度量の大きさ。

三木先生はアイデアが非常に豊富な方でした。逆行性脳濯流法も、僧帽弁形成術の腱策再建法も、三木先生のアイデアがもとになっているそうです。しかし、私が尊敬していた理由は、それだけではありません。人を育てるだけの度量の大きさ。それこそが、私が彼に対し、深い尊敬の念を抱いた理由にほかなりません。

その証拠に、三木先生の元でたくさんの方が学び、医師や研究者として活躍されていました。大学教授になられた方も少なくありません。後に私が教授となり後進を指導する立場になったとき、お手本となったのも三木先生です。

先生の面倒見のよさは、直接の後輩でもない私に対しても同様でした。非常に親身になり、あらゆる相談に乗ってくれました。

こんなことがありました。公立昭和病院に勤務していた頃、私は国立循環器病センターの部長職の打診を受けます。この申し出には、非常に迷いました。国立循環器病センターが位置する場所は大阪。私には、「東京から大阪の病院に移ることは、文化の違いもあり苦労するのではないか」という思いがあったのです。

本当に行っていいのだろうか。迷い決めかねる私が相談したのは、他ならぬ三木先生でした。進退に関わる重要な決断ではありましたが、三木先生ならば、きっと力になってくれるだろうと思ったのです。

その際、「ぜひ行くべき」という力強いアドバイスをいただき、私は新天地へ行く決意を固めることができました。三木先生のお言葉通り、国立循環器病センター 第二病棟部長の職は、私にとって非常に貴重な経験になりました。すべては先生のおかげであったと、現在でも深く感謝しています。

異例の経歴で東京大学の教授に就任。日本一、自由な医局をつくりあげる。

そうして、私は拠点を東京から大阪へと移しました。場所は違えども、「患者さんのため」という気持ちはもちろん変わらず、精一杯診療にあたる日々を過ごしていました。

そんななか、想定もしていなかった道が目の前に現れます。それは、出身でもある東京大学で教授にならないか、という打診でした。

当時、東京大学の医学部を卒業した者は、そのまま大学に残ることが当たり前の時代。教授になるには大学に残ることが暗黙の了解であり、それ以外の道はありませんでした。大学に残らない選択をした私が、東京大学の教授になるということは、異例中の異例でした。悩みましたが、これも縁。私は出身大学に戻り、東京大学の教授になる選択をしたのです。

後進には、チームで取り組む喜びを伝えたい。

私が教授を務めた、当時の胸部外科医局は、現在でも日本一の医局だと思っています。私が異例の経歴ということもあったのでしょう。全国から入局者が集まり、皆が自由にいろいろなことに取り組む、非常によい雰囲気の医局でした。

感じたことは何でも発言していいと伝えていたこともあり、皆が集まるカンファレンスでは、言いたい放題です。

「こんなことを言ったらバカだと思われる」と気にして意見を言わないことはもったいないですし、自由な雰囲気を損ねてしまいます。それは、立場が上の者であっても下の者であっても同じです。この結果、立場や年齢にかかわらず、よい意見であれば皆で取り組むような、自由で柔軟な風土をつくることができました。

また、医局では何よりも、チームワークを重視しました。それは、チームで生きる喜びを味わってほしいという思いがあったからです。医療はそもそも1人では成し遂げることができません。医療とはチームで取り組むべきものなのです。医局員には、仲間とともに仕事ができる喜びを知り、一緒に成し遂げた成果を、皆で分け合うことができる喜びを知ってほしいと願っていました。

当時の医局のメンバーは、現在、いろいろな方向で活躍してくれています。これは私にとっても大きな喜びです。彼らには、たとえ成果が認められることがあっても驕ることなく、患者さんのため、チームの皆のために努力する気持ちをいつまでも持ち続けてほしいと願っています。

何よりも患者さんのために、という変わらぬ思い。

私が外科医を続けてこれた一番の理由。それは、「患者さんとともに生きる」という言葉に尽きます。患者さんに寄り添い、患者さんのために治療をすることが私にとっての喜びなのです。

特に、手術を執刀することが多かった大動脈解離は、放っておけば死にいたる病気です。治療には緊急を要し、多くは夜間の緊急手術になります。なんとか一命を取りとめた患者さんに、ありがとうと感謝されると、やはり嬉しさがこみ上げたものです。

「患者さんが一番大事」というのは、医師になった頃から、私の変わらぬ思いです。この信念を貫き、今日まで医師を続けてきました。教授として後進を育てる立場になった際にも、医局員には、この思いを伝えてきました。聖人君子のように、必ずしもよいことばかりしてきたわけではないと自覚しています。それでも、自分の限りある能力と人生の時間のなかで、できるだけのことはやってきたつもりです。

では、なぜ医師としての信念を貫くことができたのか。それは、医師という仕事に生きがいを感じられたからだと思っています。人の命にかかわる仕事ですから、もちろん苦しいこともあります。それでも、患者さんに感謝されると、苦労した甲斐があったと素直に思えるのです。

ご存知のように現在の医療の状況は厳しい側面もあり、解決すべき課題も山のようにあるでしょう。しかし、どんな状況であっても、医療は患者さんのためになされるべきものです。患者さん第一主義。今後もそれを忘れてはいけないと思っています。患者さんのため、よい医療が継続できるよう、今後も自分にできることに精一杯取り組んでいくつもりです。

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