私が医学生だった1970年頃は、「医師はたくさん勉強し、人のために働きなさい」と教えられていたものです。「人のために働く」ということを漠然と考えたとき、へき地での医療が思い浮かび、将来は医師のいないへき地に赴き、その地域のために働こうと考えていました。
しかし、医学の道は新しい出会いの連続です。医学部を卒業し大阪の病院でトレーニングを積むうちに、へき地医療への思いはどこかに置き忘れ、私は最先端の技術を用いた外科治療に熱中していました。最先端の技術を採り入れ、メスを片手に患者さんの病を治す日々。気づけば、5年の月日が経っていました。そして、私の熱意は、「治療」から「研究」へとシフトしていくのです。
日々、治療に明け暮れていると、より効率的な治療方法はないか、と考えるようになります。それを試行錯誤するうちに、
「もっと深くがんの研究をしたい」
と思うようになりました。
幾つかの巡り合わせがあり、ある企業で基礎研究をするポストに就くことができました。当時は、遺伝子組換えが可能になった時期で、医療分野でも遺伝子・DNA構造などを含めたバイオロジー(生物学)で大きな革新への期待が寄せられ始めていました。今になって思うと、当時は、医学研究者にとって夢のある時代だったように思います。
私は5年間握り続けたメスを捨て、がん遺伝子の研究に没頭しました。大学院に入り直し、博士号の資格を取得したのも、この頃です。
「光陰矢のごとし」と言いますが、基礎研究に没頭しているうちに十数年が経過し、私は50歳を迎えました。私生活では子どもたちが無事に学業を終え独立し、助産師として働く妻と二人、和やかに暮らしていました。そんなとき、ふと自分の人生を振り返る瞬間がありました。
「医師はたくさん勉強し、人のために働きなさい」
私は長い年月を研究に費やしてきたけれども、果たしてあのとき書いた論文は誰かの役に立っているのだろうか?自分の研究は誰かを笑顔にしたのだろうか?と。
「そうだ、私はへき地に行きたいと考えていたではないか」
私は、30年前に思い描いた自分のあり方を思い出しました。医学研究はもちろん大切です。しかし、一人の医師としてもっと人の役に立つことをしたい、いや、しなければならない。
「自分に残された時間を、誰かのために役立てたい」
そう強く感じたのです。
臨床医として5年間病院に勤めた経験があるとはいえ、周りには20年以上のブランクを経て再び臨床現場に戻ることに驚かれました。「君みたいな医者には診てもらいたくない」と口にする同級生さえいたものです。
考えてみれば当然のことかもしれません。当時の私は医師と呼ぶにはあまりに頼りない存在でしたから。「急がば回れ」と言いますが、そこで私は一旦立ち止まり、地域医療振興協会の協力を仰ぎ、まずへき地医療を担う医師のトレーニングプログラムを1年間受けることにしたのです。
2007年、神奈川県の横須賀市立うわまち病院で若い研修医に混ぜてもらい再研修のトレーニングプログラムを始めました。自分も医師1年生のような姿勢で、内科、小児科、救急、整形外科などへき地の診療所で実践的に役立つような診療科を中心に学び直しました。
意外にも、私が現場を離れている20年余りの間に変わったのは、薬剤や医療機器、疾患のガイドラインが中心で、医師として基本である「患者さんと向き合う姿勢」は、まったくといってよいほど変わっていなかったのです。その事実に気付いた私は最新の医療資材、技術にアップデートを重ね、1年間で徐々に医師としての自信を取り戻していきました。
2008年、念願叶い静岡県の西伊豆町田子(たご)にある西伊豆町田子診療所で、田子地区唯一の医師として働くことになりました。私がへき地医療をやりたいと話したとき「後悔しないように、やってみたらいいよ」と屈託ない笑顔で答えてくれた妻には、心から感謝しています。
妻は私とともに横浜から移住し、今でも助産師として働いています。彼女は赤ちゃんを取り上げる仕事、私はときに患者さんを看取る仕事。まるで人生の入口と出口で、繋がっているようにも感じます。
へき地医療に携わるようになって、もうすぐ10年が経ちます。田子は2,300人ほどの住民が暮らす港町で、皆が顔見知りです。いつも同じ道を歩いているおばあちゃんの姿がみえないと心配で自ら家に電話をすることもあれば、車で往診中に住人に呼び止められて「笹井先生、診てください!」と頼まれることもあります。私の目には、田子の町全体が病院のように映ります。
ほぼ24時間365日体制で働けば肉体的に辛いはずなのに、不思議と続けられるのは、町の人たちに頼りにされること自体が至福の報酬だからでしょう。自分がいるだけで患者さんから感謝してもらえる、「ありがとう」といってもらえる。そのことが何にも代え難く嬉しいのです。これこそ学生時代に憧れていた、医師たる姿です。
へき地には医療資源(病院・医師・看護師など)が不足する一方、若い医師が志高くへき地に赴いても継続が困難であるという問題もあります。若い医師がたった一人で知らない土地に来て、患者さんを総合的に治療せねばならない状況は、苦難の多い道かもしれません。そこで医師がマニュアルに基づいた医療をふりかざせば、患者さんから拒絶され、途端に孤立してしまう可能性があるからです。
私の場合、年齢を重ねたぶん患者さんと柔軟なコミュニケーションを取れたことは幸運だったと思います。もちろん、最善であろうと判断した治療方針を患者さんに拒否されることもあります。そんなときは最初に患者さんの意見を受け入れ、信頼関係を構築しつつ最良の選択へ近づけていくのです。
患者さんに敬意を持って根気よく接していれば、必ずこちらの意図や思いを理解してくれるようになります。その積み重ねが、患者さん一人ひとりに合わせたオーダーメイドの治療、ひいてはよい医療につながるのです。
私は決して出来のよい医師ではありません。それでも頼りにしてくれる町の方々に感謝しています。診療所のスタッフはみな優秀で、心優しい方ばかりです。私はここ西伊豆町田子で、町のみなさんと一緒に暮らしていきたい。家族と支え合い、診療所のスタッフと助け合い、田子の人たちと触れ合いながら暮らしている今が、とても幸せです。
先にお話ししたとおり、今では、町のみなさんが顔見知りで、患者さんもまるで家族か友人のような存在になりました。患者さんそれぞれの好きなこと、嫌いなこと、家族構成、家族との関係など、様々なバックグランウンドを知りました。それは日々の診療で非常に役に立ちますから、医療情報をデータベース化して継続性を持たせるよう取り組んでいます。
田子には、魅力的なキャラクターの方々がたくさん住んでいます。その方々が元気でいられるようにお手伝いするのが、私の仕事であり、生きがいです。永続的にこの町でよい医療が続いていくことが本当の理想ですから、今後は若い医師にへき地医療の面白さを伝えることにも力を注ぎたいと考えています。私はこれからも自分に残された時間を、誰かのために役立てて、暮らしていこうと思います。
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