
DOCTOR’S
STORIES
恩師たちから学び、患者さんに育てられ、AIによる技術継承へ。中山 若樹先生のストーリー
私は茨城県日立市で育ちました。父は日立製作所のエンジニアで、親戚にも医療関係者はおらず、医師という職業とは無縁の家庭環境でした。
そんな私が医療の世界を意識したきっかけは、自分自身のけがです。幼い頃からけがが多く、「骨折魔」「ギプス魔」と呼ばれるほどでした。小学生のときには手術を受けることになり、不安でいっぱいだった私を、手術室で医師や看護師の方々が優しく励ましてくれたことをよく覚えています。その経験は強く心に残り、「人を助ける仕事っていいな」と思うようになりました。小学校の卒業文集には、将来の夢として「ドクター」と書いていました。
少年時代には、現在の私の医師としてのあり方を形づくる「もう1つの原点」がありました。それは「ものづくり」への強い興味です。実家の新築工事では、大工さんたちが木材を加工しながら家を形にしていく様子を夢中になって眺めていました。図工や工作も好きで、自分の手で何かを組み立て、完成させることに喜びを感じていました。
医療への憧れとものづくりへの情熱。この2つの原体験が、後に脳神経外科医としての私の価値観を形づくることになりました。
高校時代はバレーボールに打ち込みながら医学部を目指しました。成績に苦労した時期もありましたが、「医師になる」という思いが揺らぐことはありませんでした。
北海道大学の医学部に進学した当初は、整形外科医になるのだろうと漠然と考えていました。当時は、札幌医大の整形外科医でもあった作家・渡辺淳一先生の、研修医たちの泥臭い苦労や葛藤を描いた作品群をよく読んでおり、その影響もあったのだと思います。
しかし、大学高学年になって臨床実習が始まると、「人の命に直接関わる外科医になりたい」という思いが強くなりました。選択肢は自然と、心臓を扱う循環器外科か、脳を扱う脳神経外科の2択に絞られました。
先に循環器外科を見て、心臓の手術は非常に関心を持てたものの、チームとして複数の外科医の手で手術を進める方法は、私が本能的に求めている感覚とは少し乖離がありました。
そして脳神経外科の実習で、後に私の人生を大きく変える上山 博康(かみやま ひろやす)先生の手術を見学する機会を得ます。そのとき見たのは、もやもや病に対する脳血管バイパス術でした。上山先生は手術中も絶えず話し続ける非常に個性的な方でしたが、顕微鏡の下で行われていた血管吻合は私にとって驚くほど美しく、まるで芸術作品のように映りました。
脳神経外科のなかでも、とくに脳血管外科の手術は、術者が自ら環境を整えながら、顕微鏡下での精細な作業を積み重ねて完成形へと導いていく世界です。その姿は、子どもの頃に夢中になった工作や模型作りと不思議なほど重なりました。
「これだ」
手術を見ながらそう思ったことを、今でも鮮明に覚えています。1人の手で環境を構築し、1つの美しい世界を作り上げる。その魅力に引き込まれ、私は脳神経外科医としての道を歩み始めました。
1992年に医師免許を取得し、脳神経外科医としてのキャリアを始めましたが、北海道大学医学部附属病院の医局へ入局するタイミングで、憧れの上山先生が大学を去ってしまいました。非常に落胆したのですが、入れ替わりで脳血管疾患のグループ長として赴任してこられたのは、上山先生の系譜を受け継ぎ、現在北海道大学の総長を務められている寳金 清博(ほうきん きよひろ)先生でした。
寳金先生は上山先生の系譜を接ぐ筆頭者ですが、上山先生が破壊力を持つ「肉食獣」だとすれば、寳金先生はスマートに物事を進めていく「草食獣」。人種がまったく異なる形で進化した2人の偉大な師から、それぞれの異なるエッセンスと価値観を学び、使い分けさせてもらったことは、私の医師人生において最大の幸運でした。
寳金先生は、卒後わずか3年目の若手である私を、米国カリフォルニア大学デービス校(UC Davis)への海外留学へと大抜擢してくださいました。それを推してくださった北海道大学名誉教授の阿部 弘(あべ ひろし)先生にも非常に感謝しています。留学先で出会ったのは、神経化学の分野で世界的に認知される研究を残され、医学における脳へのMRI活用の道を開いた中田 力(なかだ つとむ)先生です。
中田先生からは、「リサーチにおいて、自分が得たい結果に合わせてストーリーを作るな。真実が分からないからこそ、一切の妥協を排して真実のみを追求するのだ」という、厳格でごまかしのない科学的思考を徹底的に叩き込まれました。リサーチから離れて外科治療に勤しんでいる今でも、その教えは大いに生きています。
しかし、私の医師人生における最大の転機は別のところにありました。
帰国して医学博士と専門医を取得し、札幌市内にある北大脳神経外科の関連病院でさまざまな手術を経験した頃、私は気持ちのどこかで「自分はできるようになってきた」と思っていました。ところが、30歳を過ぎて上山先生がおられた旭川赤十字病院に異動になり、上山先生の手術を久しぶりに間近で見たとき、その自信は一瞬で吹き飛びました。
自分がやってきたこととは次元が違う。完全に打ちのめされました。どう考え、どう手を動かしているのか分からない。自分には到底たどり着けない世界に思えました。
そんな私を救ってくれたのが、私と同じく上山先生の弟子で私のもう一人の師匠である石川 達哉(いしかわ たつや)先生です。石川先生は、「見て覚えるだけではなく、上山先生の技術を言葉にして整理してみよう」と提案してくださいました。我々は手の動き、道具の使い方、組織へのアプローチ――それまで感覚で掴んでいた技術を、一つひとつ言語化していきました。
それを続けていた35歳の頃、それまで断片的だった知識や経験が一気につながる瞬間が訪れました。頭の中に蓄積されていた映像が一本の線となり、手術の見え方が大きく変わったのです。これ以降は、いわゆる上山式を引き継ぎ、自分なりにさらに咀嚼して言語化し発展させていくことができるようになったと思います。
その後北大にもどり、大学病院で約16年もの間、ひたすら手術を執刀し、学会や講演で喋りまくる多忙を極める生活を送っていました。そんな私に、次の転機が訪れます。
私と同じく北大病院で長く仕事をされていた脳腫瘍グループの先輩であり、専門領域は違えど脳神経外科医として同じ志を持つ寺坂 俊介(てらさか しゅんすけ)先生から、当時すでに異動されて理事長院長をされていた札幌柏葉会病院へ来ないかと熱心に誘われたのでした。50歳を超えて脳外科医として自分の最終ステージをどこでどのように戦うか、漠然と模索していた私にとって、一生に一度の素晴らしい舞台が目の前に開けて、エンジンがますます加速することになりました。
今振り返れば、これまでの全ての歩みは、この札幌柏葉会病院で新病院の院長となり、理想の医療を具現化するために導かれていた期間だったのだと痛感しています。
実は、相当な数の手術執刀を経験し、外部のドクターから注目いただくような手術をするようになった今でも、私は自分が行う手術が気に入りません。他ドクターから見れば美しく華麗にできているように見えても、
「あそこの剥離(はくり)の軌跡はもっと綺麗にできたはずだ」
「あの場面はこういう展開をするともっと良い環境になったはずだ」
などと、毎日自分にダメ出しばかりです。
でも、終わりがないからこそ、ひたすら研鑽を積み重ねることが、何より楽しくて仕方がありません。この終わりなき探求の喜びを、若い医師たちにもモチベーションにしてもらいたいと願っています。
日々、脳血管の手術をしている私ですが、その根底にあるのは技術への過信ではなく、患者さんへの心からの感謝の念です。
私はいつも、「患者さんに育てていただいた」という深い感謝の気持ちを抱いて診療しています。私がまだ専門医となったばかりの頃、失敗が許されない現場で私を信頼し、大切な頭を預けてくれた患者さん方がたくさんいました。あのとき命を託してくれた一人ひとりの患者さんがいらっしゃったからこそ、今の私があるのです。
だからこそ、私は患者さんへの「説明」の比重を非常に大きく考えています。信頼関係がなければ医療は成立しません。医療の専門用語を徹底的に平易な言葉に置き換え、手術のリスクも予後も、一切ごまかすことなく、患者さんが心から納得してくれるまでとことん言葉を尽くして話し合います。
相手が誰であっても、決してごまかさず、真摯に対話を尽くす。その誠実さこそが、精細な技術以上に患者さんの心を救い、治療を成功に導くのだと私は思います。
私にとって脳血管外科の手術は、「建築」によく似ています。そこには極めて理路整然としたロジックの連鎖があります。
手術という建築を完成させるためには、まず「血管をつなぐ」「動脈瘤(どうみゃくりゅう)を消し去る」など、得られるべき最終的なゴールが明確に存在します。そのゴールから逆算して、どのような物理的環境が必要か、その環境を作るためにはその前の段階でどうアプローチをすべきか、と手順を1つずつ逆戻りして組み立てていく。手術は決して行き当たりばったりではなく、一つひとつの手順に必ず理由があるのです。
だからこそ、脳血管の手術には建築に通じる美しさがあります。どのような準備をし、どの順番でどのように展開していくか。その積み重ねによって結果が大きく変わります。
子どもの頃、大工さんが設計図をもとに家を組み上げていく姿に夢中になった自分は、手術にも同じ魅力を感じているのかもしれません。
そんな「理詰めの建築」を現場で完璧に遂行するために、外科医に最も求められる能力とは何でしょうか。私は、迷いなく「圧倒的な想像力」だと考えています。
手術の成否を分ける要素として、一つは術前にどれだけ画像を深く読み込み、時間軸に沿った想像力を働かせられるかです。
手術中に何が起こるのか、その操作によってどのような変化が生じるのか。私は術前の段階で、頭の中でかなり深く仔細に渡るシミュレーションをします。
そしてさらに実際の手術中においても、一つひとつの動作ごとに次に起こり得る事象を様々なパターンで想起しながら作業をしていきます。
単なる心配性にも思えるかもしれませんが、「こうなったらどうする」「もし別の展開になったらどう対応する」「こういうことが起きるかもしれないからこうしておく」と考え続けることが、結果的に手術の安全性につながるのです。
私の頭の中で繰り広げられる緻密なシミュレーションを、周囲は「展開妄想」と呼びます。他施設の先生から症例相談をメールで受けると、つい長文の返信になってしまうことがあります。頭の中で次々に手術の展開が浮かび、その展開妄想を書き出しているうちに止まらなくなるからです(笑)。
こうした考え方を形にしたのが、私が院長を務める札幌柏葉会病院に導入した「smart(スマート) OR」という手術室です。
smart ORでは新しいデジタル機器や画像誘導システムを融合させ、術者が頭の中で描く「次に起こる未来」や「目に見えないリスク」を、複数の画像診断装置がリアルタイムで視覚化・サポートします。私はこの手術室の手術は、外科医の想像力を拡張しつつ行き当たりばったりを排除して患者さんへ届ける、知性の結晶だと自負しています。
現在私は、脳血管外科の技術をもって世の中に貢献すること、病院で外科医を育てる仕組みをつくり継続していくことに熱心に取り組んでいます。
さらにもう1つ、私が熱意を注いでいるのが、「AIによる技術継承」という臨床イノベーションへの挑戦です。
論文や研究は文字として後世に残りますが、外科医の「手の動き、立体認識、組織に触れたときの感触」といった一流の職人技は、その医師が引退すれば消えてしまいがちな、非常に遺しにくいものでした。
石川先生と取り組んだ「手術の言語化」のその先として、現在、smart ORで蓄積される手術映像をAIに学習させる試みを進めています。
AIが「この術野のとき中山はこういう動きをする、この局面で寺坂はこうする」という理屈を超えた暗黙知を解析し、それを若手医師の教育にフィードバックする。感覚論で終わっていた外科医の手技を科学的に示し、次世代が私たちの何倍ものスピードで成長できる未来を作れたら、こんなに嬉しいことはありません。
AIが学習できたとしても、脳神経外科のなかでもとりわけ脳血管外科の手術は、一生かかっても極めきれないでしょう。だからこそ、この仕事は面白い。その終わりのない研鑽を、これからの若い世代にも楽しんでほしいと思っています。
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札幌柏葉会病院
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