DOCTOR’S
STORIES
困難な場面でも信念を貫き活動した門田 守人先生のストーリー
私は、田舎の自然のなかで育ちました。故郷は、広島県の熊野村(現・福山市)です。自然の多い村のなかでも、さらに山のなかの地区に暮らしていた私は、生粋の田舎者だと自覚しています。
小学校3年生までは村の分校に通っていました。後に進んだ本校の友人に「分校の山ザル」というあだ名がつけられるほど、野生児だったようです。
私が育った村は無医村でした。そのため、村のなかには「優秀な子は医学部に進学し、医師になって戻ってきてほしい」という空気があったように思います。そんな雰囲気を感じたからでしょうか。漠然と医学部を志望した私は、念願叶い、大阪大学 医学部への進学を果たします。
学生時代から、とにかく「まがいもの」が嫌いでした。私には、「いい加減なことをしたくない」という思いが常にあったのです。
医学部 3年生のときのことです。私は、無医村を調査する農山村医学調査班という活動に参加しました。先輩たちが開拓した無医地区に向かい活動を始めると、ある疑問がわいてきました。
住民の方が「病気になっても、車で病院に向かうからそこまで大変ではない」とおっしゃるのです。現状を知った私は、「他にもっと、医師がいないために困っている地域があるのではないか」と思うようになりました。
翌年、友人と2人で向かった先は四国。四国の4県をすべてまわり、医師がいなくて困っている無医地区を自ら探したのです。それぞれの県庁に事前の約束もなく訪問しました。自分たちの活動を直接説明し、無医地区はないか聞いてまわったのです。
そこで紹介された場所の一つに、高知県の檮原町(ゆすはらちょう)がありました。最終的に、私たちはこの場所で調査活動をすることを決めたのです。
大阪から船と電車、バスを乗り継いでたどりついた檮原町で、無医村調査の活動を始め、最終的に約3年間続けました。
その後も、たくさんの人に参加していただきながら、活動は10年以上継続されたと聞いています。
無医地区の調査活動をする一方で、卒業後に外科医を志していた私は、夏休みに泊まり込みの病院見学に参加します。そこで自分の運命を決める、ある出来事がありました。
それは、ある肝硬変(肝臓が硬くなり、肝機能が悪化した状態)の患者さんとの出会いです。ちょうど当時の私と年の近い、まだ若い肝硬変の患者さんを担当しました。しかし、当時の日本の医学では彼を治す方法はありませんでした。何もできずに亡くなってしまったのです。ショックを受けるとともに、治すには臓器移植しか方法がないと知り、肝臓の移植に強い興味を持つようになりました。
「外科医になって肝移植に携わりたい」
と思うようになり、臓器移植の道を目指すようになったのです。
こうして臓器移植の道を目指しましたが、それはいばらの道を進むことでもありました。
1968年、札幌医科大学で、和田寿郎氏による日本初となる心臓移植が行われました。しかし、術後まもなく移植を受けた患者さんは亡くなり、その後さまざまな問題が浮上したのです。
心臓移植が多くの批判にさらされ、日本では、脳死の患者さんからの移植の実現が難しくなってしまいました。同時に、多くの研究者が臓器移植の分野から離れていきました。
しかし、私は迷わず初志貫徹で臓器移植の道に進むことを決め、大阪大学の第二外科に入局します。日本でも、いずれ移植に取り組まなくてはいけなくなる日がくるという確信もありました。
1989年には、日本初となる生体肝移植(生きている人から行う肝臓の移植)がおこなわれました。しかし、私はあくまで、脳死の患者さんからの移植にこだわりました。
目先の結果よりも、「移植医療のあるべき姿」にこだわったのです。肝臓は生体移植(生きている人からの移植)が可能ですが、心臓は死後にしか提供できません。脳死移植を実現し、肝臓移植とともに心臓移植を必要とする患者さんも助ける環境を、日本全体でつくることを目指したのです。
そのため、脳死移植を認める法律ができるまでは、移植をやってはならないと考えていました。実際に、所属する大阪大学では、法律ができるまでは生体移植をやらないと宣言しました。
そんな私に対して、「そんなことをしたら他の大学に遅れをとってしまう」という意見もありました。実際に、京都大学や東京大学が生体移植を手がけたために、大阪大学は先を越される形になりました。
それでも私は、
「たとえ損をしたとしても、正しいと思うことをするべきだ」
と、主張し続けました。そして、実際にその姿勢を貫いたのです。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、私は「天命を待って人事を尽くす」ことを大切にしてきました。天の命令がくだったら、自分のやるべきことと捉え、そこで一生懸命やる。思えば、そんな人生だったように思います。
日本臓器移植ネットワークの理事長の就任もその一つでしょう。私が理事長に着任したのは、移植患者さんの選定ミスが発覚した直後でした。そのような苦しい中でも、医師になった当初から臓器移植に携わってきた私はこれも天命だと思い、「自分がなんとかしなくてはいけない」という気持ちで引き受けました。
それは、2017年に選考していただいた日本医学会会長を含め、他のどんな役職も同じです。役職は目指すものではなく、そこでどのような姿勢で取り組むかが大切です。天命が下ったなら、そこで懸命に取り組むまでのことです。
私は外科医として医師のキャリアをスタートしました。
外科医の魅力は、自分の技量で患者さんを病気から救うことができるところだと思っています。
フランスのアンブロワーズ・パレという有名な外科医は、「我包帯す、神、癒し賜う」という言葉を残しています。この言葉には、治療を行うのは医師でも、治癒させたのは神の采配であるという意味が込められています。
私はこの考えに共感しています。外科医たるもの、自分の技量を磨くことは大切です。しかし、「自分の技術のみが患者さんを助けた」などと、おごってはならないと信じ、謙虚な気持ちで外科医を続けてきました。
今でも、謙虚な気持ちを忘れてしまっては、立派な外科医ではないと思っています。
この稿を通してお話ししてきましたが、私はとにかく「まがいもの」が好きではありません。この考えは子どもの頃からいつの間にか身に付いてしまったものなのでしょう。学生時代から常に
「正しいことをしたい」
と思い、いい加減なことをよしとしませんでした。そんな私を、「頑固者」や「変わり者」と称する人もいるかもしれません。
しかし、誰に何といわれても、自分の信念を貫いてきました。自分の損得よりも、「正しいことをしたい」という気持ちが私の原動力です。
これからも、正しいと思うことを貫き、行動していくつもりです。
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