DOCTOR’S
STORIES
形成外科発展のため走り続ける細川亙先生のストーリー
形成外科は、特定の臓器の専門を持たない診療科です。「いったい何をしているの?」と疑問の目を向けられることもありますし、もともとその臓器を専門にする診療科との摩擦が生じかねないところもあります。では、形成外科の存在意義とは何でしょうか。
その問いに私はこう答えます。
「患者さんの人生を豊かにするための診療科です」と。
患者さんの体の機能・整容を改善して、患者さんが自信を取り戻すこと。患者さんが自信を取り戻せば、様々なことへの意欲が湧いて人生が豊かになってゆくと感じています。
形成外科が患者さんの人生を豊かにするための診療科であるならば、地域格差や医師の不足によってその恩恵を受けられない患者さんがいてはならない。そう思い、私は形成外科の治療をより多くの患者さんへ届けるためにこの数十年間を走り続けてきました。
今でこそ大阪大学の形成外科分野の教授や日本形成外科学会の理事長や会長を務めていますが、実は大学卒業後すぐに形成外科医になったわけではありません。その当時は大阪大学に形成外科はなく、はじめは、皮膚科を専攻しました。
しかし、皮膚科は疾患の診断、つまり診断学がメインの領域です。患者さんがどんな疾患に罹患しているのか、その診断をつけることが最も重要で、その後の治療は軟膏を塗る、薬を飲む、紫外線を当てるというふうにパターンが決まっていて誰がやっても同じという時代でした。
とにかく自身の治療技術を磨きたいと燃えていた当時の私には、それが物足りなく感じてしまったのです。
もちろん、皮膚病理診断学は奥深いものであり、立派な皮膚科医の方が多くいらっしゃることに疑いの余地はありません。しかし、私の医師としての長い人生を考えたとき、皮膚科医として生きていくことは、自分の目指すところではないと思いました。では何の医師を目指そうかと考えたとき、当時私が皮膚外科を学ぶために週1回通っていた形成外科に興味を持ちました。
このような経緯があり、最初に勤めた大学病院の皮膚科を半年で辞め、形成外科のあった住友病院の門を叩きました。当時は医師のほとんどが医局に属し、医局人事のもと勤務先が決定する時代。それでも腕のいい形成外科医になりたいとの思いを買い、私を招き入れてくれた住友病院の当時の形成外科部長であった薄丈夫先生にはとても感謝しています。それから十数年間、母校・大阪大学の医局にも属さずに系列と関係なく市中病院などで修練を続けた私が奇異な目で見られていたのは間違いありません。
こうして私は住友病院で形成外科医としての一歩を踏み出します。当時は、形成外科を標榜している病院が少ない時代でした。
関西でもなかなか形成外科がないなかで、住友病院は年間1000件を超える形成外科手術を行う、関西圏の形成外科領域のパイオニア的存在。先天性の疾患から、やけどや交通事故の傷跡を治す整容・再建・皮膚・手などあらゆる領域の手術を行っていたのです。
住友病院に勤務している当時、私は私を含めた5名の形成外科医で年間1000件以上の手術を行っており、数をこなすうちに自ずと手術の腕が磨かれていることを実感しました(このような環境での経験が私の形成外科医としての礎をつくっていますし、後進の教育において「若いうちからどんどん手を動かす」という教育方針のもとにもなっています)。
形成外科医として治療に打ち込み、勤務して5年経ったころには、住友病院で行う手術は一通りマスターしていました。そして、その後のキャリアを考えたとき、次の1年を住友病院で過ごすよりも新天地で過ごす方が有意義だと思い、その当時すでに形成外科講座ができていた香川医科大学に異動しました。香川医科大学では助手(現在で言う助教)として働きながら研究を行い博士号を取得しました。
学位を取得したものの、研究者としての道に進む気はまったくといっていいほどありませんでした。もともとは自分の腕を磨きたくて飛び込んだ形成外科の世界。自分の限界がくるまで、自分の手でできる限り多くの患者さんの人生を豊かにしたいという思いが強かったのです。
そのような思いを抱きながら働いていたころ、母校の大阪大学では皮膚科の中で松本維明先生が形成外科の診療を担当されていました。松本先生は、住友病院勤務時代に私が師事していた恩師の一人です。
しかし形成外科学講座創設はなかなか困難な道でした。阪大を卒業して形成外科医になった医師として、母校の形成外科創設に関わるべきではないだろうかという思いは常にありましたが、ちょうどそのころ松本先生と入れ替わる形で大阪大学へ戻らないかという誘いがありました。その誘いに応じて大阪大学の皮膚科の中で講師として形成外科診療を行うことになりました。
大学病院に新たに診療科をつくることは、そう容易なことではありません。まず診療科創設の際は、病院、医学部、さらに他学部を含めた全学での合意が不可欠です。さらにその当時は文部省(現・文部科学省)、そして大蔵省(現・財務省)、さらには国会での予算審議を経てやっと診療科が新設されました。私が大阪大学へ戻る前、松本先生が15年間その要求を出し続けていたにもかかわらず、一度も通ることがなかったことを考えるとその難しさが理解できることでしょう。
大阪大学へ戻った私が2回目の新規概算要求として形成外科新設の要望を出したとき、なんとその要求が認められて「大阪大学形成外科」がつくられることになりました。承認された理由はよくわかりませんが、ちょうど環境が整い、運も大きかったのだと思います。
1999年に大阪大学形成外科が誕生してからは、診療科長として臨床の第一線で治療に励むかたわら、教授として形成外科医の育成と形成外科の発展に努める日々です。
繰り返しになりますが、特定の臓器を持たないことから形成外科はあまり認知度が高くなく、さらに一部の診療科からは自分たちの領分を侵す診療科であるとして警戒されて、形成外科不要の声さえもなくはありません。しかし、私たちの役割は本来その臓器をみる診療科の医師では成し得ない、高度な技術を提供して患者さんの整容と機能を回復させ、患者さんに幸せになってもらうことです。
ですから従来の診療科の医師が出す結果よりもよい結果を出せて初めて形成外科医の存在意義があることになります。形成外科医は常にストイックに技術を求め続けなければなりません。
形成外科医に何よりも重要なものは、技術。10年程度ではすべての手術手技をマスターすることはできませんから、常に修練が必要な厳しい世界です。高度な技術を要求されることから、そうした技術を持った一流の形成外科医を育てる環境が必要だと思います。そのために私は形成外科学という学問を体系化し、より多くの医師が形成外科について学ぶことができる環境を整えることが必要だと考えています。形成外科が学問として確固たる地位を築き上げれば、形成外科を志す医師が増え、より多くの患者さんが形成外科の恩恵を受けられます。
そのために私は日々、形成外科の発展に努めているのです。
今、私がこの場所でこうして働けているのは、在野の私を受け入れ育ててくれた住友病院の先生方、香川やその後の阪大の皮膚科でご指導下さった先生方、そして私の部下として私を支えてくれた沢山の弟子たちのおかげです。多くの人の善意に支えられた人生ですが、自らの行いが現在の私に大きく寄与している事実についてもお話しします。
医学生時代に私は趣味で数千時間ほども法律を独学で勉強しました。本分とする分野(私の場合は医学)以外に自分の武器となる知識や経験を身に着けることは、人生において必ず生きてきます。2つの分野からの眼で世の中を立体視することができるのは大変有益なことです。私が司法試験を受ける程度に法律になじんでいたことは、日本形成外科学会の運営のみならず、関連法人の設立、大きなプロジェクトのオーガナイズ、官僚との折衝などにおいて大いに役立ちました。医学以外にも別の分野の視点を持つことによって私は大きく形成外科の発展に寄与できる立場になったと思っています。
私は形成外科医という仕事に誇りを持っていますし、この仕事を選んだことに一片の悔いもありません。形成外科の更なる発展は私ひとりの力では難しいことですが、全国の形成外科医と協力しながら、治療を必要とするすべての人が形成外科の恩恵を受けられるよう、最後まで日本の形成外科の発展に尽力したいと思っています。
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