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舞鶴市民病院の崩壊と再生-内科医集団退職はなぜ起きたか?

舞鶴市民病院の崩壊と再生-内科医集団退職はなぜ起きたか?
多々見 良三 先生

舞鶴市 市長

多々見 良三 先生

この記事の最終更新は2017年07月19日です。

市立舞鶴市民病院(京都府舞鶴市)の名を、過去にニュースなどで耳にされたことがある方も多いでしょう。平成16年、舞鶴市民病院に勤務していた内科医14名中13名が一斉に退職し、公的病院が機能を果たせなくなったという出来事は、地域医療を揺るがす未曾有の事態として全国的に大きく報道されました。

医師として舞鶴市の医療を支え続けてきた多々見良三先生は、平成23年に舞鶴市長の任に就き、一度は崩壊したとまでいわれた市の医療体制再生を実現させました。公的病院の破綻はなぜ起き、どのような戦略により蘇ったのでしょうか。また、なぜ医師を辞して市長となる必要があったのでしょうか。多々見先生にお話しいただきました。

舞鶴

明治期に海軍鎮守府が設置され、軍港都市として繁栄した歴史を持つ舞鶴市は、海軍の負傷兵士や軍人の家族、海軍工廠の家族を診察する3つの病院を有していました。

戦後、これらの病院は以下のように名前と役割を変え、舞鶴市と隣接市町村の人口約15~20万人の健康と生活を支えてきました。

(1)国立舞鶴病院(旧舞鶴鎮守府海軍病院/現舞鶴医療センター)

(2)舞鶴共済病院(旧舞鶴海軍工廠職工共済会病院/現舞鶴共済病院)

(3)舞鶴赤十字病院(舞鶴市西地区住民の要望により昭和28年に設立)

(4)市立舞鶴市民病院(旧財団法人海仁会病院)

昭和中期から後期の舞鶴市は、人口に対して非常に恵まれた医療施設を持つ「京都府北部の医療の要所」として知られていたのです。

私が舞鶴共済病院で循環器科の医師として勤務し始めた昭和57年当時、病院につながる道路には1時間以上かけて来院される方による車の行列ができていました。

市境を超え舞鶴市内の病院を受診せねばならない周辺市町村の住民は、このような医療環境には当然不便さを感じます。平成に入り、福知山市や与謝野町など、舞鶴市周辺の全市町に中核病院が整備され、舞鶴市の病院に訪れる患者人口は激減しました。

昭和60年時点で合計1300床もあった4病院のベッドは埋まらなくなり、平成7、8年頃になると一部の病院において経営状況には顕著に陰りがみえ始めました。

私が勤務していた舞鶴共済病院は、4病院のなかでもいち早く設備投資を行い、最新のCTなどを用いた先端医療を提供することで、患者を惹きつけ続けることに成功しました。

一方、全国有数の研修施設として名を馳せていた市立舞鶴市民病院(以下、舞鶴市民病院)の経営状況は早々に悪化します。

現在の市立舞鶴市民病院の外観 提供:舞鶴市

当時の舞鶴市民病院は、臨床研修教育の第一人者として知られる副病院長のもと、優れた総合内科医を育成するべく、可能な限り最新型の抗生物質や検査機器を用いない医療を行っていました。

総合内科医の養成に注力するということは、裏を返せば診療単価の高い最先端医療を選択しないということでもあり、見方によっては財政状況悪化の一因と捉えることもできるかもしれません。

また、舞鶴市民の税金を用いて、いずれ市外に出てしまう研修医を養成することや、国外から招いていた指導医の賃金を捻出することに対し懐疑的な声もありました。

当時の舞鶴市は、赤字縮小のために舞鶴市民病院を専門性の高い医療を行う施設に切り替えようと考えました。

平成15年、市は総合内科を廃止し、専門診療科を充実させる方向で検討していました。舞鶴市民病院の内科医集団退職(14名中13名の内科医が退職)は、このような経緯で起こったのです。

市は大学に内科医の派遣を求めますが、平成16年度に始まった新臨床研修医制度により従来の医局人事制度が破綻したことも重なり、医師が派遣されないまま二年の時が経ちました。この間、舞鶴市民病院では外科医が内科医の仕事まで行っていたのです。

大学から医師が派遣されない状況が長く続くと、本来研修医が担当する仕事も中堅の医師が行わねばならなくなり、残っていた医師の業務は圧迫されていきます。平成18年3月末、大学はみかねて外科医の引き揚げを決定し、舞鶴市民病院の医師は院長と内科医のわずか2名になりました。患者も2名のみとなり、舞鶴市民病院は約200床のベッドを持て余す事態となったのです。

民間病院ならば、医師や患者が明らかに不足している場合、病院職員の人員削減を行わねば破綻してしまいます。

しかし、舞鶴市民病院は市立病院であり、所属する看護師や薬剤師、事務職員は市の職員であったことから、対応は民間病院のケースとは異なりました。

舞鶴市民病院に勤務していた約200名の職員はそのまま残留し、人件費も変わらず支払われ続けたため、赤字の額はみるみるうちに膨大な額に膨れ上がっていったのです。

舞鶴市民病院を支える構成員のうち、医師の所属のみが市ではなく大学の医局です。病院崩壊の一端には、このような構図がみえていないまま、運営方針の転換を打ち出してしまったことがあるのではないかと考えます。

混乱を招いた市長は、平成19年に責任をとる形で市長選への出馬を辞退しました。

平成19年の市長選で当選を果たした新市長は、舞鶴市民病院の再建を公約に掲げていました。しかし、医師不在のまま多数の職員を抱える病院を再建することは不可能だとわかったためか、やがて舞鶴市全体の医療が崩壊していると指摘するようになりました。

事実、舞鶴市民病院以外の3つの公的病院も、新臨床研修医制度の影響による医師の不在や偏在、患者数の減少といった深刻な問題に直面していました。

しかし私は、舞鶴市全体の医療の立て直しを目的として出された「4病院を1つないし2つに再編統合する」という案こそ、地域医療体制の崩壊を招く可能性があると強い危機感を覚えました。

オペ中の手元

医療者ではない方の目からみれば、4病院の医師を一所に集めれば、医師数は単純に4倍になるようにみえるのかもしれません。

しかし、A大学で研鑽を積んだ5人の外科医と、B大学で研鑽を積んだ5人の外科医とでは、手技(手術の手順)が異なります。

各病院の設置母体や医師を派遣する大学、経営状況が異なる病院を統合したとしても、5+5が10となることはありません。

AかB、いずれかの強いグループが生き残り5+5=5となるか、あるいは双方の外科医が大学に戻ってしまい、5+5=0となる危険性もありました。

そのため私は4つの病院をすべて残しつつ再生の道を探ることが、地域医療を確保するための最善の策であると考え、舞鶴市長選挙への出馬を決意したのです。

平成23年2月に市長に就任して以来、私は「公的4病院があたかも1つの総合病院として機能する体制」を作るために、「選択と集中」、「分担と連携」による医療体制の立て直しを行ってきました。

4つの病院に分散していた医療機能や資源を選択し集中させるために、まずそれぞれの病院のストロングポイントといえる医療機能をセンター化しました。

具体的には、心臓外科と循環器内科を強みとしていた舞鶴共済病院には循環器センターを、また、整形外科やリハビリテーション科を強みとしていた舞鶴赤十字病院にはリハビリテーションセンターを設置しました。

問題となっていた舞鶴市民病院は、かねてから不足していた医療型療養病床に特化した病院としました。

また、4つの病院を「あたかも1つの総合病院」として機能させるために、病院間を循環バスで結び、病院間共有ネットワークシステムを構築しました。

これにより画像データなどをスムーズに共有できるようになったため、患者さんが複数の病院で同じ検査を受ける必要はなくなりました。

同日に複数の病院を受診する際の循環バスの運賃は、市が全額助成しています。

現在、消化器科や眼科などは舞鶴市民病院を除く3病院すべてに設置されていますが、未曾有の人口減少を乗り越えるために、これらの診療科も集約していく必要があるでしょう。

集約時には、いずれか1つの病院に難易度の高い手術を行うセンターを設け、内視鏡検査や日常的な目の治療といった簡単な診察は各病院で受けられる体制を作りたいと考えています。センター以外の各病院は外来診療を行う「分院」とイメージしていただくと、全体像がわかりやすくなるかと思います。

医師は、大学からセンターに派遣してもらい、センターから各病院へと派遣する形が理想的です。

大学から3つの病院に医師を2名ずつ派遣する場合と異なり、センターに6名の医師を集めることができれば、研修医を呼ぶことが可能になります。

また、これまで3つの病院が担っていた手術を1つのセンターで行うことにより、症例数も集まります。「あたかも一つの総合病院」として、豊富な症例を経験できるセンターにおいて3病院共同研修を実施することも可能になるでしょう。

京都府

平成初期から続いていた舞鶴市の医療問題解決の方向性を示すことはできましたが、舞鶴市と周辺地域は、今後かつて経験したことのない人口減少に対応していかねばなりません。

そのためには、舞鶴市を含む京都府北部5市2町が、「あたかも1つの30万人都市圏」として機能し、発展していけるような医療体制を作ることが不可欠です。

京都府北部5市2町の有する資源などのポテンシャルを高めつつ、「選択と集中」「分担と連携」をキーワードに、より広域的な医療連携の充実・強化に取り組んでいきたいと考えています。

 

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