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患者が若手医師を育てる-対等な信頼関係がよい医療を作る

患者が若手医師を育てる-対等な信頼関係がよい医療を作る
多々見 良三 先生

舞鶴市 市長

多々見 良三 先生

この記事の最終更新は2017年07月20日です。

医師の偏在により、地方都市の病院では医師の疲弊が問題となっています。現・舞鶴市長の多々見良三先生は、循環器科の医師として約30年にわたり医師不足などの課題を抱える舞鶴市の医療を支えてきました。

都市部とは異なる地方の医療現場を肌で知る多々見先生は、患者さんやご家族、周囲のスタッフの意識や行動により解消できる問題もあるとおっしゃいます。地域の医療を守り、よりよいものとしていくために、私たち一般市民ができることとは何か、多々見先生にお伺いしました。

私は1982年から2011年までの約30年間、循環器科の医師、そして病院長として舞鶴共済病院(京都府舞鶴市)に勤務しました。

心臓の疾患など命に関わる病気を専門とする循環器科の医師は、患者さんの生死の境に立ち会う機会が非常に多いという特徴があります。

また、医師数も患者数も少ない地方都市の病院に務める循環器科医は、都市部のハイボリュームセンターに勤務する医師とは異なり、専門という枠にとらわれずあらゆる内科疾患に対応する必要があります。

私自身も約30年間にわたり、咳や腹痛など様々な症状を訴える患者さんの診察にあたり、また、同時に多くの重症患者さんの最期にも立ち会ってきました。

このような経験を重ねるうちに、今後の医療を向上させるためには、医療従事者だけでなく患者さんの協力も不可欠であるという考えに至りました。

この記事には、これから病院を受診する可能性があるすべての方に届けたい2つのメッセージについて、詳しく記していきます。一般の方だけでなく、現役医師の方、看護師や病院職員など医師を取り巻く方も、ぜひお読みください。

発信したい2つのメッセージ

1. 患者と周囲の病院スタッフが若手医師をベテランへと育てる

2. 元気なうちに、「いざというとき」望む医療や死生観を考える

若そうな医師の診察風景

冒頭でも述べたように、地方の病院勤務医には、都市部の大病院に勤める医師以上に、専門にとらわれずあらゆる疾患をみるという姿勢が求められます。

しかし、現行の研修制度や世論など様々な要素が重なり合い、自身の専門以外をみようとしない(あるいはみることを恐れる)若手医師も増えつつあります。

この原因のひとつには、専門以外の医師にご自分やご家族をみてもらうことを強く拒む患者さんの声もあると考えます。

国民の医療リテラシーが高まると共に、より高度なベテランによる医療を求める患者さんが増えました。しかし、経験豊富な医師が高度な医療を行う前には、若手医師が総合的に患者さんを診察し、状態に応じて各専門に振り分けるというフェーズが存在します。

最初の診察にあたり振り分けを行う医師は、たとえベテランではないとしても、皆プロフェッショナルとして患者さんの健康と生命を扱うための研修を経験しています。

また、若手医師は重要な決断を独断で下すことはありません。責任の重い仕事だからこそ、必ず先輩医師と話し合って治療の方針を立てています。

患者さんやご家族には、不安になりすぎず、まずは目の前の医師を信頼していただきたいとお伝えしたいです。

また、その病気の専門ではない医師が総合的な視点から振り分けを行うことに対し寛容な患者さんが増えることで、よりスムーズで適切な医療提供が実現すると考えます。

看護師

若手医師を育てるのは、患者さんだけではありません。病院で共に働くスタッフにも、医師を育成する立場にある者としての意識が求められます。

どのように優れた医師も、はじめは皆若手でありベテランではありません。ところが、医療の現場で働くスタッフのなかには、共に働く若手医師を軽視する方もいます。

周囲の大人が育成者としての意識を持たず、「アイツはダメだ」といい続けると、その若者はやがて「ダメな動き」しかできなくなります。これは医師に限らず、どのような仕事においても共通していえることでしょう。

このような理由から、事務職員や看護師など病院で共に働くスタッフの方には、一定の信頼と敬意を持って若手医師に接して欲しいと感じています。ここでいう敬意とは、その人を一人の医師として扱うということです。患者さんの信頼を受け、周囲のスタッフから「先生」と呼ばれた若手医師は、その責任を全うするために必死に勉強し、経験を積むべく夜昼問わず仕事に励むものです。

それでは、若手の医師自身はどのような姿勢で臨むべきでしょうか。若手の医師は、明らかに若い自分に対し患者さんが信頼の意を示して診察に応じてくれているのですから、誰よりも親身になって診察させてもらうことが大切です。

私は、医師とは「頼られてナンボ」の仕事であると考えます。頼られる医師となるためには、若手と呼ばれる時代に、昼夜問わず積極的に学ぶこと、親身に診察すること、さらに言えば患者さんに対し「診させてください」という姿勢を持って経験を積むことが不可欠です。

かつて日本には、医師が「お医者様」と呼ばれ、患者さんを下にみていたと感じられる時代がありました。しかし、現在では患者さんを「患者様」と呼ぶ病院が増えておりこれに対しても疑問の声が上がっています。

よい医療とは、医師と患者の対等な信頼関係を基盤として成り立つものです。

診させてくださいという姿勢と、まずは任せてみようという信頼、医師と患者双方がこのような意識を互いに持つことで、「患者様」でも「お医者様」でもない、対等な信頼関係を築いていけると考えます。

夜間救急外来

私は「診させてください」という姿勢を持つことが医師の成長を促すと考えているため、診療時間外(夜間や休日)の勤務を厭う若手医師の姿勢には否定的です。

しかし、当直に対するネガティブな声が生じる理由を探っていくと、その原因は必ずしも医師個人にあるわけではないということがわかります。

病院が充実し身近な存在となったことで、不要不急の夜間・休日の受診が増え、医師の疲弊を招いているという問題をご存知の方もいるでしょう。

実際に私も、「行楽の予定をずらしたくない」といった理由で深夜に走り回れるほど元気のある子どもを連れてくるご家族や、「夜ならば病院が空いていて気楽だから」とおっしゃる患者さんの診察に対応した経験が何度もあります。

一般的なサラリーマンとは異なり、当直した医師に代休が付与されるという制度はありません。医師が翌日にオペなどの重要な業務を控えながら夜間も勤務している理由は、ほかならぬ重症の患者さんを助けるためであるということを、読者の皆さんに知っていただきたいと切望しています。

重症の患者さんを一人でも多くみることは医師の成長に欠かせないため、若手医師たちの多くは「診させてください」という姿勢を持って当直に臨んでいます。

病院を利用する方の理解と適切な受診がその地域の医師を成長させ、地域の方々を救うことにつながるのだと考えます。

これからの日本の医療をよりよいものとしていくためには、個人の人生観や死生観を反映させた医療の実現に向けた議論がなされるべきであると考えます。これが本記事の2つ目のテーマです。

私は心臓や呼吸器の病気をみる循環器科医であったため、患者さんの最期に立ち会う機会も多く、過去に何通もの死亡診断書を書いてきました。

そのなかで、生命の危機はある日突然に訪れるということ、また、死は必ずしも急激に訪れるわけではないということも目の当たりにしてきました。

発作性心房細動の診断を受けていたにもかかわらず抗凝固療法が不十分で、ある日突然脳梗塞により意識を喪失し、長く生命維持治療を受けたのちに死に至った医師仲間もいます。プライドの高い彼を知る私には、延命措置は望まぬ治療であったのではないかと思われました。

この例とは逆に、肺がんの診断を受けつつも積極的治療や禁煙はしないと宣言し、2年ののちに愛煙家として去った友人を見送った経験もあります。この行為自体は呼吸器科医として褒められるものではありません。しかし、彼の性分を知る友人としての私やご家族の目には、「望む生き方をし、亡くなり方をした」というように映り、悔いは残りませんでした。

点滴

医療の高度化と人口の高齢化により、意思疎通や自己判断ができない状態に陥ったあと、長く治療を受けて亡くなる患者さんは増えています。多くの生と死をみてきたからこそ、私は生き方だけではなく、亡くなり方もご自身で選択できたほうがよいのではないかと考えています。

上記は私個人の意見ですが、死に向かう人に対する医療の在り方は、国民皆が議論し、考えを熟成させる必要のある問題です。

人生観や死生観を医療に反映させるためには、元気なうちに作成された意思表示書類や、その書類に法的拘束力を持たせるための整備が必要です。これらは立法者が責任をもって行うべきことですが、一般の方にも元気なうちに「いざというとき」望む治療を考える重要性を知っていていただきたいと感じます。

病院に勤務していたときには、患者さんが相談も治療選択もできない状態になってはじめてご家族が事態に気づき、後悔されるというケースを何例も経験してきました。

病気で意思疎通や判断ができなくなったとき、どのような医療を望むかということは、そのときが来てからでは表明できないのです。

ぜひ、元気なときにご自分やご家族と向き合い、望む医療を文字にしてみてください。

もちろん、人生観や価値観はその時々で変わるため、法整備の際には書類を更新制にするための議論も必要です。日本でも普及し始めたエンディングノートには、「更新」という概念がないことや、遺言のような法的効力のある文書ではないことが課題といえます。

命は重いものであるということを大前提としたうえで、これからの医療はどうあるべきか、今必要なのは何かを、日本全体で考えていってほしいと願います。