教授室の棚には私が手術をさせていただいた患者さんたちすべての手術記録が保管されています。これらは私の宝物であり、私の医師としての軌跡でもあります。
私は手術が決まると、手術日の数日前に前もって手術記録を書きます。これは正確に言えば手術計画書です。どのように、どの手順で手術をするかを、自分の頭の中で整理するためです。
実際の手術が終わると、今度は手術前の手術記録を書き直して術前の予想とどう異なったのか、次の手術ではどうすればいいかを考えます。この手術所見には、うまくいったこと、うまくいかなかったことのすべてが書き残されています。特にうまくいかなかったことなど書きたくないのが本音ですがこの経験も、次の手術でより確実な手術をするための糧となるものです。成功も失敗もすべてが記されたこの手術記録が、私を一流の脳神経外科医へ導いてくれるものだと信じています。
手術記録と向き合う時間は、自身と向き合う時間です。どんなに忙しくても、手術記録を書かなかったり、適当に書いたりすることは絶対にしません。しっかりとした手術記録を書かなければ、私に命を託して手術を受ける患者さんにとって失礼だと思うからです。つまり、手術所見を書くという行為は、私の患者さんに対する誠意のひとつでもあるのです。
私は医学生のころは、部活動の空手に夢中でした。私は意図的に勉強せず、好きなことに没頭していました。というのも、卒業して医師になってからは一生学び続ける必要があると知っていたからです。とにかく学生のうちに目一杯やりたいことをして、医師になってからは学びに没頭する。メリハリをついた人生を送るため、私は自分とそのように約束し、学生時代は好きなようにすることにしたのです。
医師になって30年が経ちます。私は昔誓った、自分との約束を今でも守り続けています。
脳神経外科が扱う疾患は、同じ症例であっても患者さんによって治療のアプローチが異なります。一人として同じ人間がいないように、患者さんもまったく同じ症例で、全く同じ治療法で同じ経過をたどる、ということはありません。ですから、解剖の勉強や手術手技の訓練など、入念な準備をします。休みの日であっても常に勉強を欠かしません。
学び続ける理由はただひとつ、患者さんにとって最高の医療を常に提供し続けるためです。
私は、常に最高の医療を提供したいと考えています。それでも、手術がうまくいかなかったり、力及ばず患者さんの病状が改善しなかったりすることがあります。そのときは本当に悔しくて、つらくて、落ち込みます。特にまだ若い、妻子ある患者さんを治すことができなかったときは夜も眠れませんでした。
一番つらいのは、もちろん患者さん自身やそのご家族です。しかし、彼らのつらさに触れると自身の医師としての不甲斐なさをよりいっそう強く自覚します。そしてその気持ちを引きずると、次の手術もうまくいきません。ふと「大学を辞めて、難しい症例から離れたい」と思うこともあります。
でも、辞めるわけにはいきません。失敗から学んだことを次に生かさないと、うまく治せなかった患者さんやそのご家族に顔向けできないと思うからです。だから、手を動かして頭を動かして、やり続けるしかありません。
私は戦術家の本が好きでよく読むのですが、戦いと手術は似ていると思います。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」
古くは江戸時代後期の平戸藩主 松浦静山の言葉で、野村監督の名言としても知られている言葉です。医師は命を預かるという大きな責務を負っているからこそ、幸運を期待するのではなく、しっかりと準備をして治療に臨まなければいけないと思います。常に起こりうるあらゆる事態を想定して、対策を立てて手術に挑む。その対策をまとめたものが、手術前に作成する手術記録(手術計画書)なのです。
手術記録はいわば戦の結果報告書です。ですから、私は後進の医師にも、毎回必ずしっかりとした手術記録を書いてもらいます。これを書かなければ、手術はさせないという心構えです。確かに、多忙な医師生活のなかで詳細な手術記録を書くことは容易ではありませんし、面倒に思うこともあるかもしれません。それでも、事前に戦術を練り、それを実践し、きっちりと振り返ることは医師自身にとっても患者さんにとても大切なことです。そうしてひとつひとつの症例を大事にしていかなければ、一流の医師にはなれないと思っています。
私は最高の医療を提供したいと思っています。一方、最高の医療に答えはないとも思っています。患者さんにとっての最高の医療とは、患者さんやそのご家族が最終的に「治療を受けてよかった」と思えるかどうかにかかっているからです。たとえばいい治療結果が得られなくても、手を尽くしてもらったことに満足感を覚えて余生を過ごされる患者さんもいますし、医師がいくら「最高の手術ができた」と思っても、患者さんが満足されないこともあります。
では医師の立場として、どうすれば最高の医療が提供できるのでしょうか。もちろん、自分の持てる技術を総動員して手術に臨むことはもちろん、そこに至るまでにいかに患者さんと信頼関係を構築できるかが鍵だと思います。
どんなに忙しくても、患者さんと誠心誠意接すること。なかなか理解してくれない患者さんであっても、納得してくれるまで何度も説明をすること。それでも納得していただけない場合、他の医師の治療を受けていただくこともあります。しかし決してそれは患者さんを見捨てるわけではなく、すべては患者さんが心から満足でき、納得できる医療を受けてほしいという思いからです。
私も常にベストを尽くします。しかし、私がベストだと思う治療が、患者さんにとっていつもベストであるわけではありません。私はただ、患者さんの幸せを一番に願っていて、その実現のためには必ずしも私のもとで治療を受ける必要はないだろうと考えるからです。
それでも、私を信頼して命を預けてくれる患者さんには、最高の医療を提供したいと強く思います。どんな症例であれ手術であれ、目の前にいる患者さんを大切にし、ベストを尽くすこと。それが私の使命です。その使命を果たすために必要な武器が手術技術の鍛錬であり手術記録なのです。
手術記録と、手術の腕は私の宝物。私はこの宝物を携え、今日も患者さんと向き合います。
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