DOCTOR’S
STORIES
患者さんの治療後まで見据えた、患者中心の医療を目指す千島隆司先生のストーリー
私の考える“医学”とは、社会全体を幸せにするために医師が自ら考え、物事を発展させていくこと。そして“医療”は、今、目の前にいる患者さんを幸せにするために自分が何をすべきかを考えること。つまり、“医学”の主人公は医師自身で、“医療”の主人公は患者さんであると考えています。
この定義でいえば、私はもともと“医療”ではなく“医学”を目指した人間でした。幼少期から“いきもの”が大好きだったこともあり、すでに中学生のときには、生物や遺伝子にとても興味を持っていました。そうしたなかで、高校時代に祖母を腎臓がんで亡くし、いつからかぼんやりと「研究によって、医学に貢献したい」と考えるようになりました。どのような分野で医学を突き詰めるか迷った時期もありましたが、結局、昔から興味があった遺伝子の研究をしようと考え、福島県立医科大学に入学しました。
無事に医学部を卒業した私は、横浜市立大学大学院に進み、アメリカのカリフォルニア大学サンディエゴ校へ留学しました。留学期間中はGFP遺伝子*の研究に携わり、GFP遺伝子を使用してがん細胞が転移する様子を視覚化することに成功したのです。留学中にこのような研究成果を残した私は、日本に戻ってからも研究を続けようと、嬉々として帰国しました。
ところが、私を待ち受けていた現実は、そう甘くはありませんでした。当時、日本では、私の研究を発展させるための環境が十分ではなく、私に与えられた選択肢は、研究を継続するためにアメリカへ戻るか、臨床医として一般病院で研鑽を積むかの2つでした。そのとき、自分は今後、研究と治療のどちらを優先したいのか、あらためて考えました。すると、がんで亡くなった祖母の顔がふと思い浮かび、治療に力を入れていきたいと思ったのです。“医学”を志していた私が、“医療”の道へとスイッチした瞬間でした。
GFP遺伝子:青色の光を吸収して緑色の蛍光を発する、“緑色蛍光たんぱく質”のこと。生命現象のイメージング(可視化)を可能にするたんぱく質として知られる。
“医療”を志し始めてからしばらくして、私にとって第1のターニングポイントとなる出来事が訪れます。
あるとき、組織検査で乳がんの診断に至った女性がいました。ご本人に告知をすると、彼女は「分かりました、分かりました」とうなずき、診察室をあとにしました。しかし、しばらくすると看護師が入ってきて、「先生、さっきの患者さんにもう一度説明をしてあげてください」と言うのです。理由を問うと、看護師は「先生は知らないかもしれませんが、あの患者さん、診察室の外でもう1時間も泣いています。『どうしていいか分からない。診察のときのことは、頭が真っ白で覚えていない』とおっしゃっています」と教えてくれました。
私は、病気の説明だけに集中し、告知を受けた患者さんの気持ちに十分な配慮ができていなかったことに気づきました。それと同時に、患者さんには、医師に伝えづらくても、看護師になら伝えられることもあるのだ、と実感しました。その出来事がきっかけとなり、私はチーム医療に目を向け始め、看護師や薬剤師にもカンファレンスに参加してもらうようになりました。患者さんを本当に幸せにするためには、スタッフが一丸となって患者さんをサポートする必要がある、という考えに至ったのです。
この数年後、ある患者さんが亡くなる前に残した言葉によって、私に第2のターニングポイントが訪れました。その患者さんは乳がんを発症したのち、がんが肝臓へ転移していました。状態が芳しくなかったため、私は抗がん剤の点滴による治療をすすめました。すると彼女は、「私は今の生活がすごく幸せで、できるだけ今の生活を守りたいんです。病状の改善が難しいのであれば、残された時間を有意義に過ごすための方法を優先させてもらえませんか」とおっしゃいました。
私はその言葉を受け入れ、自宅で過ごすことを目標に、抗がん剤の点滴以外の治療を選択することにしました。しばらくして、彼女は肝不全で亡くなられました。私は、あのときに選んだ治療で本当によかったのかと、最後まで悩んでいました。ところが、彼女は亡くなる前に、担当の看護師を部屋に呼び、「皆さんが私の考えを受け入れてくださったおかげで、最期にやっておきたいと思った大概のことは解決できました。これも先生やスタッフの皆さんのおかげです。私は満足して死ぬことができます。本当に、本当にありがとうございました」という言葉を残してくれていたのです。そしてさらに、「病気になったことを悲観して過ごすのではなく、いかに自分が満足できる人生を全うするか、ということに目を向けることができました」ということもおっしゃっていたそうです。
医師として、治療がうまくいって感謝されることはあっても、死を目前にした患者さんから、このような言葉をいただけるとは思いもしませんでした。彼女の言葉を聞いた私は、“患者さんを本当に幸せにする医療”とは何か、ということを、より深く考えるようになりました。
これは私が日々診療のなかで感じていることなのですが、がんを告知された患者さんは、「がんになってしまったのだから、この夢は諦めなくてはいけない」などと考えがちです。目の前の病気や治療だけに必死になって、治療が終わった後の生活まで考えられないのは当然のことだと思います。
しかし、私が提供したいのは、乳がんになっても患者さんが笑顔を忘れずにいられる“医療”です。乳がんの生存率は、ほかの主要部位のがんと比較しても高いと言えます。だからこそ、自分の夢を諦めず、がん治療が終わった後にはもとの生活を取り戻せるように、治療開始前から準備しておく必要があると思っています。たとえば、「抗がん剤治療をするのだから、子どもを産むことは諦める」と考えたり、「子どものために入院を長引かせることはできない」と乳房再建を諦めたりする方もいます。もちろん、患者さん本人が「その選択が自分にとって最善だ」と思うのであれば、全力でその選択をサポートしたいと思います。しかし、私はできる限り、患者さんが治療によって犠牲にするものを減らしてあげたいと思っています。できる限り患者さんの夢を叶え、もとの生活に戻してあげるということが、私の考える “医療”の最終形です。
これからも、この“医療”に対する信念を大切にし、たとえ乳がんになっても、患者さんが、「こうしたい!」と思う夢を叶えながら、安心して治療を受けられるように、チーム全員でサポートしていきたいと考えています。
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横浜労災病院
千葉大学医学部 臨床教授、横浜労災病院 内分泌代謝内科部長
齋藤 淳 先生
横浜労災病院 副院長・脳定位放射線治療センター長
周藤 高 先生
独立行政法人労働者健康福祉機構横浜労災病院 勤労者メンタルヘルスセンター長 兼 治療就労両立支援部長
山本 晴義 先生
横浜労災病院 泌尿器科 部長
永田 真樹 先生
横浜労災病院 血液内科部長/医師臨床研修センター長
平澤 晃 先生
横浜労災病院 神経筋疾患 部長
中山 貴博 先生
独立行政法人 労働者健康安全機構 横浜労災病院 形成外科部長
山本 康 先生
横浜労災病院 整形外科 院長・運動器センター長
三上 容司 先生
横浜労災病院 こどもセンター長 小児科部長
菊池 信行 先生
横浜労災病院 小児外科 部長
菅沼 理江 先生
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