『人命の尊重』『患者第一』、これらの倫理観は、医療に関わる人にとっては当然のものとなっています。しかし、本来守られるべき医の倫理が、国家や人の手により侵害されていた時代もありました。世界共通の医の倫理を守るために、「世界医師会」は国境を越えて地球規模の課題解決に取り組んでいます。
本記事では、世界医師会次期会長に選出された横倉義武先生(現・日本医師会会長)に、グローバルヘルスの体制を強化するための具体的な取り組みと、次期会長としての抱負をお伺いしました。
世界医師会(World Medical Association:WMA)は、約70年前の1947年9月17日、27か国の医師がパリに会し(第1回総会)、「医師の職業的独立性を確立し、常に最高水準の倫理観によって医療活動を行うこと」を目的として組織されました。
これは、特に第二次世界大戦後の医師にとって重要なことであり、それゆえに世界医師会は各国医師会の連合体として存在しています。日本医師会は1951年に世界医師会に加盟しました。
世界医師会は、その目的を「医学教育・医学・医術および医の倫理における国際的水準をできるだけ高めること」、「世界のすべての人々を対象にしたヘルスケアの実現に努めながら人類に奉仕すること」と定款に定めています。
加盟各国医師会は、その国またはテリトリーを完全に代表する組織でなければならず、各国ごとに1つの医師会しか加盟することができません。日本医師会は、世界医師会に認められた、日本で唯一の医師個人資格で加入する団体です。
このような規定に従い、現在112か国の医師会が世界医師会に加盟しています。
世界医師会はNGOの連合体として、各国政府とは独立した活動をしています。このような国際的組織のメンバーとして承認されることは、各国医師会に対して大きな信頼性を与えることにも通じています。
世界医師会は、最高水準の医の倫理を推進する組織として、宣言・声明の採択と公開を通じて、世界の医師、医療界においてリーダーシップをとっています。たとえば、「ヘルシンキ宣言」や「ジュネーブ宣言」といった有名な倫理原則も、世界医師会の総会で採択されたものです。
ヘルシンキ宣言は、1964年に行われた第18回世界医師会ヘルシンキ総会において採択されました。
第二次世界大戦下、倫理に反する医療行為が行われたことの反省を踏まえ、研究を目的とした医療行為に際して厳守せねばならない10原則を明示した「ニュルンベルク綱領」が作られました。
ヘルシンキ宣言とは、ニュルンベルク綱領を受けて作られた人間を対象とした医学研究に携わる医師の最も基本的な倫理原則です。
リスボン宣言では、自己決定権や選択の自由など、患者さんが有する権利と、医師が患者さんの権利を認識し、患者さんの最善の利益のために行動すべきことが記されています。
ジュネーブ宣言は、医学の祖として知られるヒポクラテスの誓い(※医師の倫理を明示した宣誓文)の精神を現代文に表した医の倫理の指針です。
医師として人命を最大限に尊重すること、患者の健康を第一とすることなどが明文化されています。
ヒポクラテスは紀元前5世紀の医師ですが、「医の倫理」の根本となる部分は、いつの時代、どの国においても変わらないものであると考えます。
その一方で、採択された宣言については、時代に即したものへと改訂を加えていく必要があります。宣言の更新は世界医師会で作業部会を作って行われており、日本医師会も積極的に参加しています。
これまで、日本医師会からは2名の元会長が世界医師会長を務めてきました。一人目は1975年に就任した武見太郎元会長、2人目は2000年に就任した坪井栄孝元会長です。そして大変光栄なことに、2017年のシカゴ総会より、私が世界医師会長を務めることとなりました。
これは、日本医師会が時には政府(政治)に厳しく対応しつつ、長年「国民の医療を守る」というスタンスを維持してきたことが評価されたからではないかと感じています。
勿論、医療行為は法に基づいて行われるため、政治と全く途絶するということはありません。時に厳しく、また時にうまく連携を取りながら、本当に国民のためを考えた医療を提供し続けること、またその姿勢を明確に示すことが、日本医師会の在るべき姿であると考えます。
グローバリゼーションの進展とともに、医療を取り巻く問題は広域的なものとなり、現在では地球規模での問題も生じています。具体的には、国境を超えて広がる感染症問題や、対策が求められている生活習慣病などの問題が挙げられます。
また、紛争地域においては、「医療」そのものが危機に晒されています。たとえば、中近東では、医療提供の場が軍事攻撃の標的となっているところもあります。このような事態を防ぐため、世界医師会は組織を挙げて取り組んでいく必要があります。
気候変動などの環境変化も、その地域の人々の健康に多大な影響を及ぼす大きな要因です。たとえば、中国やインドなどでは、大気汚染が現在進行形で大きな問題となっています。
日本には、これまでに大気汚染を中心とした環境変化を克服してきた歴史があります。蓄積されたノウハウを活かし、他国をサポートしていけるのではないかと考えます。
世界医師会前会長のサー・マイケル・マーモット教授(ロンドン大学)が提唱している「健康の社会的決定要因(SDH)」に目を向け、課題解決のために医師として何ができるか提言していくことも、私の抱負のひとつです。
健康の社会的決定要因とは、その人の健康状態を左右する経済的条件や社会的条件のことをいいます。
たとえば、日本では現在経済格差が広がりつつあります。そのなかで、母子家庭のお子さんの保健問題などが、大きな社会問題となっています。日本には学校保健安全法があり、これに基づき健康診断が行われているため、世界と比べると環境は比較的恵まれている国といえるかもしれません。しかしながら、こういった制度があっても、広がる経済的格差により国民の健康状態に少なからず差が生じているという現実があります。格差が広がる原因を見つけ出し、それを踏まえ、医療を提供する立場として政治に対し提言をしていく必要があります。
また、本項では日本における健康の社会的決定要因に焦点を当ててお話ししましたが、このような問題は世界中に溢れています。各国・各地域の保健問題の要因を探し、解決策を提示していくことが、今後の世界医師会の大きな役目となると考えます。
前項までに自身の抱負をお話ししてきましたが、世界規模の組織を動かし、国境を超えた課題を解決していくことは、一人の力でできるものではありません。
これはどの組織においても共通していえることですが、自己を押し通していては、他者からの協力は得られないものと考えます。
「多くの人に支えられながらやっていくのだ」という意識は、どのような立場にあっても忘れてはならないものです。私自身もこの視点を忘れることなく、今後もあらゆる職務に尽力していきたいと考えています。