日本でも、ここ十数年で急速なIT化が進みました。医療面でも電子カルテの導入など、IT化の動きが出てきています。しかし、「世界的にみると日本は医療におけるIT活用が充分ではない」と声をあげ、活動している先生がいます。
京都大学大学院医学研究科社会健康医学系専攻 薬剤疫学分野 臨床研究管理学分野 教授の川上浩司先生です。川上先生は日本の各病院や学校などで保管されていた、患者さんや児童生徒のデータを収集してデータベース化しています。
世界と比べて医療データの収集・解析が進んでいないといわれる日本。医療データの収集と利活用によって、私たちの生活にどのような変化がもたらされるのか、川上先生におうかがいします。
まず、医療データの話の前に、医療データが活用される臨床研究について説明します。臨床研究とは、疾患の解明や予防・診断・治療、患者さんのQOL(生活の質)向上などを目的に行われる医学研究のことです。
この臨床研究はさらに介入研究(臨床試験など、患者さんに協力してもらい新規の検査や治療の効果・影響を評価するもの)と観察研究(既存の疾患の経過などの情報を用いて医療や薬剤の評価を行うもの)の2種類に大別することができます。
私は、主として後者の観察研究を行っています。今、世界的に医学研究は臨床試験などの介入研究から、観察研究にシフトしつつあります。日本や世界に膨大にある医療データを活用することで、病気の予防や治療に役立てようという動きが出てきているのです。
このうち、観察研究で用いられる資料は二分されます。レジストリ系の資料とリアルワールドデータ(RWD)系の資料です。
これは患者集団のデータを蓄積し、研究していくものです。たとえば、心臓疾患の場合、心臓に疾患を持った患者さんをデータベースに登録し、疾患の経過などのデータを積み重ねていき、研究に用います。
外科系であればNCD(National Clinical Database)、循環器系であれば日本循環器学会の行っているJROAD(循環器疾患診療実態調査)などがこれに当てはまります。
リアルワールドデータ(RWD)系データとは、実際の臨床現場で得られる各種の情報です。
リアルワールドデータは、診療報酬請求(レセプト)情報、DPC、調剤データ・診療情報(電子カルテ由来)と大きく4種類があります。
レセプトとは医療機関が健康保険組合に提出する診療報酬の明細のことで、現時点では最も活用されている資料です。日本では10年前からレセプト情報が電子化され、2017年2月現在、100億件ものレセプトデータがデジタルで記録されています。
レセプトは各保険組合で収集され、国保・協会健保・企業健保のうち、国保のレセプトデータは厚生労働省が主導となりデータベース化しています。これを特定健康等データベース(NDB)といいます。民間では、日本医療データセンター(JMDC)のデータベースは汎用されています。
医療機関は治療にかかった診療報酬を厚生労働省に請求し受け取りますが、その請求方式に包括医療費支払い制度(DPC)というものがあります。
DPCを導入している急性期病院はどのような診断名をつけ、どのような治療を行ったのかを国にすべて報告する義務があります。現在、厚生労働省がこのデータを統合して政策に活用したり、民間でもメディカル・データ・ビジョン(MDV)株式会社がデータベースを構築し、汎用されています。
電子カルテはレセプトやDPCと異なり、検査や病理結果、画像診断の結果などもすべて含まれているため、さらに細かい分析や活用が可能です。電子カルテの解析により、疾患の新たな予防策や治療法が見えてくる可能性もあります。現在、政府のMID-NETは国立大学病院を中心に300万人規模のデータベースとなっており、来年からは民間利用も可能になります。民間では、一般社団法人健康・医療・教育情報評価推進機構(HCEI)と全国100以上の医療機関との連携により、リアルワールドデータ(RWD)株式会社が構築している1400万人規模のデータベースも今年から汎用されはじめています。
上記のような各種データベースを用いた臨床疫学研究によって様々な医療の評価が可能になりつつあります。その他、予防の観点から、現在私たちが最も注力している分野は、妊婦健診・乳幼児健診データや学校健診データの活用です。
妊婦健診で記される、赤ちゃんが胎内にいる頃からの健康データから、学校保健安全法で定められる学校健診データまでを収集・分析することで子どもの将来の疾患リスクを予測し、予防策を立てることを研究しています。
現在では、妊婦健診・乳幼児健診といった母子健診データや学校健診データはほとんどデータ化されていません。学校健診データに至っては、法律に則って児童生徒の卒業後5年以上経つと破棄されています。
その子の健康状態や将来の疾患リスクを知る大切な情報が詰まっているものであるにもかかわらず、捨てられてしまっている現状は非常にもったいないことです。
そこで私たちがその子どもの健康データを一元化して分析することで、より健やかに成長、生活できるアドバイスをすることができます。かかりうる疾患を事前に予測、予防することは、膨大な医療費の削減にも大きく貢献します。
現在、日本全国の約50の自治体と連携して上記のような取り組みを行っています。参加自治体の該当学年の生徒や保護者には、全員に健康分析レポートを無料で毎年提供しており、大変好評です。自治体読者のお知り合いで、自治体の首長や、教育委員会、健康福祉部局の幹部がおられれば、是非ご一報いただければと思います。
医療データは一次利用と二次利用にわけられます。
一次利用とは、その医療情報を収集・提供した患者さん本人や病院、自治体に還元するものです。
たとえば本人に健康データとして検査値や治療の経過をデータ化して提供したり、病院や自治体に対して、あなたの病院(地域)は他院(他地域)と比べてこの疾患の治療経過が良好ですよ、などと病院の医療の向上にかかわるアドバイスができるようになります。
二次利用とは、その医療情報を収集・提供した患者さん本人や病院・自治体が直接それを活用するのではなく、企業や政府、研究機関に向けて匿名化したデータを提供し、間接的に活用することです。
産業・政策・学術などより広い視点から、新たなサービス開発や、政策の立案・施行、医療や健康にかかわる研究が可能になります。
今までばらばらだったデータを一元化し、蓄積することで最大限に活用する点は非常に新しく、データの二次利用は世界的なムーブメントになっています。
PHRとはパーソナルヘルスレコード(Personal Health Record)の略称で、医療機関から集めた個人の医療情報をデータ化・整理することで、患者さんが自分自身の医療情報を生涯にわたって管理・閲覧できる仕組みのことです。
PHRは、患者さんや一般の方に一番有用な医療データの活用法で、これが実現すると、患者さんや一般の方が端末を使えばいつでもどこでも自身の健康・医療情報をみることができるようになります。
このサービスの提供は近い未来、すべての方に広まっていくと考えています。健康診断の結果に基づいた生活アドバイスや検査値の推移など、自身の健康状態をリアルタイムに知ることによって、個々の健康への意識が高まり疾患の予防や治療に役立てることができます。
今でこそ自身の健康状態や検査結果を記録するアプリやサービスは多数ありますが、それはすべて市民や患者さんが手動入力する必要があり、利便性に欠けます。
そこでさまざまな医療機関の患者さんの医療情報を持っている私たちは、現在NTTおよびNTTドコモ社と協力して、私たちのサーバーを通して自治体の市民や患者さんが手動入力の必要なく、自身の医療情報にアクセス、閲覧できるようなサービスを開発中です。
日本はいま、他国と比べて医療におけるITやデータベースの活用に一歩遅れをとっています。あれだけ普及に努めている電子カルテですら、その導入はいまだ全病院の3割に満たず、利用価値や費用が原因で紙のカルテに戻す病院も出てきているほどです。
私は、せっかくデータ化された医療情報を無駄にしたくありません。日本各地で記録されているあらゆる健診データや医療データは、人の健康を支えることのできる宝の山なのです。
現在、このような領域に関心を持ち、データの解析を学びたいという若手医師が急増しているため、昨年、私たちは日本臨床疫学会を設立しました。基幹学会19学会中11学会が臨床疫学会の教育提供や協力を表明してくださいました。
日本における健康や医療データ活用は黎明期を迎えています。これからは私たちの代で日本の健康や医療データ収集してデータベース化し、次代、次々代でそれらを活用して健康増進・疾病予防ができる世界がつくりあげることができれば、と日々尽力しています。