2017年4月に福島県立医科大学常任顧問兼ふくしま国際医療科学センター常勤参与に就任された菊地臣一先生は震災当時、福島県立医科大学の学長であったことから県内における医療の責任者として奔走した方の1人です。震災および原発事故発生時、福島県内における医療現場の責任者として目にした光景は一生忘れることはないだろうと、菊地先生はおっしゃいます。
本記事では、菊地先生が震災発生時からこれまでに目の当たりにしたことや感じたことをお話しいただきました。
東日本大震災発生時、平時では考えられないようなトラブルが続出しました。そのひとつが断水による水不足です。
震災時、福島県立医科大学では自衛隊による給水を受けながら診療を続けていました。しかし病院では1ベッドにつき1日あたり1トン近くの水が必要といわれており、診療の継続が難しくなったのです。水がなければ医療はできません。もちろん、可能な限り水を確保できるよう奔走していたのですが、さらなる供給ルートを作れなければ、会津にある総合病院に撤退するところまで追い込まれたのです。
この水問題は、厚生労働省水道局の尽力により新たな供給ルートを確保できたことで解消しました。関係者の尽力によって確保された水が福島県立医科大学に届いたのは、会津撤退のタイムリミット2時間前、まさにギリギリのタイミングでした。
ガソリン供給に関するトラブルが原因で、周辺住民との間に険悪な空気が流れたことも震災による苦い経験のひとつです。
福島県立医科大学ではたまたまガソリンの供給ルートがあったのですが、その当時周辺地域の供給網は全く機能しておらず、多くの方がなんとかガソリンを入手しようと連日長蛇の列をつくっていました。そのため、大学職員が給油する様子を見た住民によって、騒動がおきたのです。
その後、福島県内の自衛隊駐屯地から使用しないガソリンを供給していただけることになったのですが、このときの経験により、災害時を想定した水やガソリンなどライフライン維持に不可欠な物資の貯蓄の必要性を痛感しました。
地域を統括する自治体と、地域における医療の砦となる大学や病院との連携は、災害発生時における情報共有がカギを握っていると考えています。
地震と津波の被害が発生したとき、福島県は災害対策本部に福島県立医科大学医学部の医学部長を招聘しました。また福島県では、人事交流を通じ常日頃から顔の見える関係性を築いていたため、交通網や情報網が遮断されている状態でも県と大学との情報共有と施策の一致に大きな効果を発揮しました。
ヒトは想定外の事態に面したとき、何をすべきなのか、何から手をつけたらよいのか、わからなくなることがあります。これは医師や薬剤師、看護師など医療現場で働くスタッフも例外ではありません。
地震や津波、そして原発事故の状況が明らかになるにつれ、医療従事者の間にも動揺が走るようになりました。特に病院や県警・消防など第一線で働くスタッフたちの間に広がった、原発事故による精神的な動揺は大きく、このままでは目に見えない被害によって医療や救援の現場が崩壊すると直感しました。
緊急事態や不測の事態が発生したとき、トップに求められるのは衆議独裁(しゅうぎどくさい)による速やかな判断と実行、つまり皆の意見を聞き情報共有も行なうが最終的な判断はこちらに任せていただくことだと考えています。最終判断をリーダーに一任していただくことで判断と実行の迅速化につながり、仮に判断を間違えたとしてもトップが責任を取ればよいだけです。未曾有の災害における周囲への影響と迅速な対応を考えればこそ、衆議独裁による判断が繰り返し求められるのです。
また放射能に対する不安を解消するため、広島大学と長崎大学に協力していただき、病院職員を対象に放射能の専門家によるリスクコミュニケーションの指導を実施しました。リスクコミュニケーションを通じて放射能の安全性や危険性などに対する正しい理解がされたことにより、職員の不安は解消されました。
福島県が津波被害だけでなく原発事故という甚大な被害のあった土地でありながら、医療体制の総崩れを起こさなかったのは、強いリーダーシップによって現場への指示が統一されていたことと、第一線で働く方々が放射能を正しく理解して現場が落ち着きを取り戻したためと考えています。
2011年3月11日に発生した東日本大震による地震と原発事故は、人類史上はじめて人口密集地で発生した放射能事故であり、長期間に渡る低線量・長期被曝をもたらしています。今回の原発事故により、福島県の立場は非常に特異なものになりました。
福島県内における放射能問題は、現段階では医学的に影響は出ていないといえるでしょう。しかし、医学者や科学者が安全であるとお伝えしても、福島県民の安心は得られていないのが現実です。
原発事故から数週間後の夜、福島県上空を飛行機で通過する機会があったのですが、一帯に暗闇が広がり中心に小さな光が見えました。今にして思えば暗闇は避難区域、明るい部分は原発だったのでしょう。この光景は東日本大震災とその影響を物語る、象徴的な光景だと感じました。
そしてこのとき考えたのは、今は無人となったこの地域に住人が帰ってきたとき、その方々の健康は誰が支えるのだろうかということでした。