平成28年度の児童虐待通告件数は12万件を超え、過去最多を更新しました。日本には今、救い出さなければならない被虐待児、育児に悩み手をあげてしまいそうな保護者、そして、過去の虐待を乗り越えて生きている方が沢山います。被虐待歴を持つ方の尊厳や未来を守るためには、社会全体で考えていかなければならない問題も多数残されています。
北九州市立八幡病院小児救急センター病院長の市川光太郎先生に、出産や育児により思い詰めてしまいそうなときの乗り越え方と、私たち一般市民全員が知っておくべき児童虐待を取り巻く諸問題についてお伺いしました。
小さな子どもを激しく揺さぶることで起こる「乳幼児揺さぶられ症候群(SBS※)」は、虐待死の原因として問題視されはじめている重要な疾患のひとつです。
※Shaken Baby Syndromeの略称。最近ではAbusive Head Trauma(AHT)と称することも増えている。
医学的な分類ではありませんが、私は自身の経験から、SBSを2種類に分けて捉えています。ひとつは、「死んでもよい」「首の骨が折れてもよい」という意図をもって子どもを揺さぶるSBSです。実際に子どもが大出血を起こし、嘔吐を繰り返していても揺さぶることをやめず、死に至らしめてしまう加虐者も存在します。
ふたつめは、子どもを傷つける意図など微塵もなく、知識がなかったがゆえに起こってしまうSBSです。
私たちは、人をナイフで刺したりバッドで殴打するとどうなるのか、ある程度想像することができます。激痛が生じ、出血し、死んでしまう可能性もある。-こういった想像ができるため、相手を傷つける意図のない人は、これらの行為には及びません。想像がつくということは、危険行為に対する抑止力となる面もあると考えます。
では、乳幼児を勢いよく揺さぶると、具体的にどのようなことが起こるのでしょうか。この問いに対しては、想像がつかず、答えられないという大人の方も少なくはないでしょう。私は、これこそが良識ある大人により、毎年多くのSBSが引き起こされている理由のひとつであると考えています。
私の経験した虐待症例のなかには、ストレスを抱えていた父親が、赤ちゃんを泣き止ませようとカッとなって強く揺さぶったというケースもあります。さいわい、出血は少なく命に別状はありませんでしたが、お子さんには軽度の発達障害が遺ってしまいました。
ご両親はインターネットでSBSを知り、自分たちが行った行為を理解されたうえで大いに反省し、来院されました。私はこの例を、後者のSBSだと捉えています。このケースでは、ご両親にペアレント・トレーニングを受けていただき、充分にフォロー体制を整えたうえで、お子さんをご自宅にお戻ししました。
一方、死んでもよいと明確に傷つける意図をもって引き起こされたSBSである場合、お子さんの人生と身体を護るため、自宅に返すことはありません。このように、治療後の対応法も異なるため、SBSを2種類にわけて捉える必要があると考えています。
東京工業大学の准教授・宮崎祐介先生の論文には、乳幼児を2~3回揺さぶるだけでも硬膜下出血を起こす場合があるとの記述があります。揺さぶられている乳幼児の頭蓋内で何が起こっているのか、工学的な手法を用いて解明された宮崎先生の研究報告は、SBSの啓発DVDにも使用されています。
(厚生労働省 広報啓発DVD 赤ちゃんが泣きやまない~泣きへの対処と理解のために~)
また、アメリカで作られたSBS啓発ブックには、夜泣きをする赤ちゃんと部屋着姿のお父さんのイラストが描かれており、子どもを泣き止ませる手段として揺さぶってはいけないと伝えるための工夫が凝らされています。
子どもを激しく揺さぶると一体何が起こるのか、乳幼児と接するすべての方に知っていただくことが、SBSによる死亡や後遺症を減らしていく一手段になり得ると考えています。
次にお話しするのは、被虐待児の脳死下臓器移植に関する問題です。2010年に臓器移植法が改正されたことで、日本でも15歳未満の子どもの脳死下臓器提供が可能になりました。しかし現行法では、18歳未満の被虐待児が脳死に至った場合、その子どもがドナーとなることは認められていません。
仮に実両親の暴力によって、子どもが脳死に至ったとします。この場合、加虐者(実の親)には子どもの意思を代わりに決定する権利はなく、そのため子どもの臓器提供も認められないとする考え方があります。また、身体的虐待で脳死となったのであれば、臓器をとってしまうことで証拠隠滅になり、加虐者の刑事責任を追求できなくなるという見方もあります。これらの見解には、肯ける部分もあります。
では、3歳まで虐待を受け、その後健全な里親家庭のもとで精一杯生きた子どもが、不幸にして10歳で交通事故により脳死と診断された場合はどうなるでしょうか。現行法には、このようなケースについての明確な記載がありません。また、改正臓器移植法に則った指針にも、虐待が行われた疑いがあるかどうか、確認するよう示唆されています。
そのため、現場の医師は慎重にならざるを得ず、過去に虐待を受けた疑いのある子どもの臓器提供意思を尊重することはできません。
しかし、脳死判定を受けた子どもと、その子どもの臓器には、一点の社会悪もないはずです。虐待により罪に問われるべきはあくまで加虐者であり、被虐待児の身体や臓器提供意思は、ふつうの子どものものと同様、無垢なものです。
私は小児救急医として多くの子どもたちと接してきましたが、過去の虐待を努力で乗り越え、真剣に生きている子どもたちは、人一番「社会貢献したい」「自分も人の役に立ちたい」という思いを強く抱いています。今後統計をとることができれば、ドナーカードを持つ子どもの割合は、一般の子どもに比べ被虐待児のほうが高くなるのではないかとも推測しています。このような理由から、既に健全な養育環境を得て一生懸命に生きている子どもが脳死となったとき、「過去の被虐待歴」を持ち出し、対応を変えることは、社会が二度その子どもの尊厳を踏みにじることになるのではないかと感じます。また、被虐待歴を持ちつつ、前を向いて生きている子どもたちが現行の規定を知れば、再び社会不振に陥ることにもなりかねないとも危惧しています。
先述の通り、現時点では15歳以上の子どものドナーカードは有効とされており、18歳未満の被虐待児の臓器提供は認められていません。もし16歳でドナーカードを持ち、17歳で交通事故に遭ってしまった場合、被虐待歴の有無で扱いが変わってしまう現状は、いつまでも「君は虐待を受けていた子どもなのだ」とレッテルを貼り続けるような行為であるとさえ感じます。
私自身、過去には移植ありきの脳死判定には反対の立場をとっていました。しかし、虐待を受けた子どもたちには社会悪が一切ないにも関わらず、臓器提供が認められないという事実を知り、考え方が変わりました。
本記事では現行法と私見を述べましたが、被虐待歴のある子どもの臓器提供に関しては、さまざまな観点から多角的に議論していくべき問題です。ぜひ、この機に皆さんもご自身のお考えを整理し、自分なりの意見を持っていただきたいと願っています。
しばしば、虐待は連鎖するといわれることがあります。実際に、虐待を必死に乗り越えてご自身のお子さんを持ったとき、自らの親と同じことをしていたと相談に来られた女性もいました。たとえ、被虐待歴がない場合でも、出産や育児などライフイベントに直面すると、人は皆孤立しやすくなるものです。
不幸にして過去に虐待を受け、今ご自身の人生を歩んでおられる方は、どうか「すぐにSOSを出せるよう相談先を持っておく」ことを心がけてください。相談先は、友人でも義理のご両親でも、また行政や病院でも構いません。
人生の節目に自分が孤立してしまわないこと、その一点のみに気をつけていれば負のループに陥ることはありません。安心して人生の選択肢をどんどん広げていってください。
日本には、SOSの声に対応するための施設や制度が沢山あります。もし、ご自身の赤ちゃんが泣きやまず、もう育児ができないと思い詰めてしまったときには、一時的に預かることも、当院のような病院で一緒に育児をすることもできます。
病院には専門的な知識を持ち、既に妊娠と育児を経験している看護師や助産師もいます。当院でも、子どもを育てることの楽しさを知ってもらうためのケアや、お父さんに対する子育て支援などを行っています。助けてくれる人と一緒に、困難に直面したときの工夫の仕方を考えてみましょう。
甘え方を知ることも工夫のひとつです。「こんなことを頼んだら嫌われるのでは」と躊躇せず頼らせてもらい、いつか自分も恩返しができればよいのです。
頼る場所がみつからないときは、疲れ果ててしまう前に当院を頼ってください。実際に、ここを拠り所として、育児困難感を克服されたお母さんも沢山います。
病院とは、体に熱や痛みがなければ行ってはいけない場所ではありません。私はよく、「お母さんの心が痛いときにも来ていいんですよ」とお話ししています。小児科とは、子どものため、そしてお母さん、お父さんのためにある病院です。それは小児救急病院であっても変わりません。