DOCTOR’S
STORIES
臨床医から経営者へ 現代の華岡青洲を目指す古川福実先生のストーリー
2017年4月、高槻赤十字病院の院長に赴任した私は、浜松・和歌山での24年間にわたる単身赴任の期間を経て、関西で再び家族と一緒に生活を始めました。自由気ままで誰からも指図されない単身赴任生活から一転、今はゴミ出しひとつにも四苦八苦で、今更ながら普通の既婚サラリーマンの生活を味わっています。
大赤字経営を続けている高槻赤十字病院院長に就任したきっかけは、母校である京都大学病院長の稲垣先生の推薦があったことでした。「古川先生なら、経営が傾いている地域の病院を改革し、新しく生まれ変わらせるかもしれない。何とかしてくれないか」。
この話をいただいたとき、私は和歌山県立医科大学で教授を務めていました。大学病院の臨床医から病院経営者に移ることは、右も左もわからない分野に武器も持たず飛び込むようなものでしたから、その決断に迷いがなかったわけではありません。
そして、2017年4月1日。高槻赤十字病院に赴任してきて驚いたのは、その設備の古さと不適正な労務管理の存在でした。打刻ルールから欠勤連絡まで、世間一般の常識から全くかけ離れた体制が残存・構築されていたのです。
そのため、私の院長としての仕事は、病院の基本的なルールを正すところから始まりました。
「ルールを守っている人は、ルールに守られる。ルールを破る人は、ルールに罰せられる」
この教訓を全職員に周知し、タイムカードの使い方から休みの連絡のフローまで徹底的に見直すことで仕事に支障がない体制を再構築したのです。
私の高槻赤十字病院院長としての任期は5年ですが、病院の赤字を単年で10億円から2~3億円程度にまで減らしたいと考えています。「黒字を目指さないのか」と思われるかもしれません。しかし私はV字回復のような急速な変化は目指していません。
というのも、現在の国民皆保険制度では、数億円の赤字を一気に黒字にさせるには、よほど離れ業をしなければ不可能です。私はそれよりも、着実な方法でこの病院を立て直していくつもりです。
院長就任時、公約に病院の新築移転を掲げました。より多くの患者さんに医療を提供するため、職員にとって目標を設定するための公約です。実際に移転を見届けることはできないかもしれませんが、移転が確実な話になってから次期院長にすべてをゆだねるつもりでいます。
今でこそ地域の総合病院の院長として経営に携わっている私ですが、冒頭でお話ししたように、長年和歌山の地で大学教授を務めていました。自分がまさか病院経営者になるとは、思ってもいませんでした。しかし、若手だった頃も今も、自分がやりたいことは本質的に変わっていない気がします。
少しだけ、過去の自分についてお話ししましょう。
広島県出身ということもあり、学生時代から原爆医療に関心があり、広島県内で内科医になることを目指していました。
学生当時、京都大学の第一内科に入局すれば、原爆内科の教授に就任するルートがあることを知り、最初は第一内科入局を志望しました。そこに行けば、いつか故郷に帰り、理想の医療を行えると思ったのです。
ところが、京都大学の第一内科(血液内科)は非常に優秀な先生ばかりで、見学した時点で自分がそのなかでやっていける自信がありませんでした。さらに私は腎臓に不安を抱えており、激務で知られる第一内科は体力的にも難しいと考えたのです。
そのように考えていた矢先、皮膚科の先輩医師から入局を勧められ、そのまま母校の皮膚科に入局しました。しかし、その後も故郷への思いは強く、研修医のときも大学院生のときも、節目節目で「これが終わったら広島に帰ろう」と思ったものの、結局ずるずると関西での勤務を続けてしまいました。今考えると、このときから無意識のうちに、関西に愛着が芽生えていたのかもしれません。
臨床を学んでいた頃から、自分には一般診療よりも大学でのふれあいが楽しいと感じており、早いうちから「大学の教授になりたい」と思うようになりました。それも、すでに教育の形や方針が定まっている大教室の教授になるのではなく、とにかく若くして新しい教室を立ち上げ、創意工夫を凝らして、その教室や教室員を自分色に育てたいと考えました。
そして私は、当時とても小さな教室だった和歌山県立医科大学皮膚科の教授選に立候補し、47歳で教授になりました。その後退官までの18年間、皮膚科学教室の運営と教室員の育成に力を注いできました。
破綻寸前の高槻赤十字病院と、何もないところから始まった和歌山県立医科大学皮膚科学教室、このふたつは全く異なる存在ですが、私は何もないところを自分の考える形に育てることが好きなのかもしれません。なぜこうも0から1を生み出すのが好きなのかというと、私がとある過去の偉人の生き方を目標にしているからだと思います。
「人生において目標とする人物は誰ですか」と聞かれたら、私は迷わず「華岡青洲」と答えます。華岡青洲は世界で初めて全身麻酔下の乳がん外科手術に成功したことで、医師の世界ではあまりにも有名です。通仙散(蔓陀羅華など)といった麻酔薬は、現在の麻酔学の礎を築いたといっても過言ではありません。
実は、この記念すべき華岡青洲の手術は、和歌山の紀ノ川をほんの数キロ上った平山村(現在の紀の川市)で実行されました。欧米ではすでに乳がん切除術が行われていましたが、麻酔がなかったために広範囲の切除ができず、患者さんは激痛に耐えながら手術を受けなければならない現状がありました。青洲は海外の教科書で西欧の乳がん摘出術を知り、乳がんの手術治療の達成に意欲を燃やします。そして青洲は長年にわたる実験によって通仙散(つうせんさん)を完成させ、1804年(文化元年)10月13日、全身麻酔による乳がん手術を執刀したのです。
華岡青洲はまさに創意工夫の人でした。切除外科を開始し、そのために必要な全身麻酔薬を開発しただけでなく、手術ひとつをとっても、組織縫合した糸の結び目が絶対に解けない道に何重も結びを繰り返したり、傷口の皮膚縫合を数種類開発して使い分けたりと、さまざまな工夫が施されていました。また、二次感染が起こりやすい汲み取り式トイレを廃止するという衛生学的な発想や、排水装置の造設、汚水浄化槽の設置など、青洲によって生み出された技術は多岐にわたります。
私は彼のように、何もないところに革新的なものをもたらす、創意工夫に溢れる生き方をしたいと思い、ここまで生きてきました。
しかしながら、華岡青洲は全身麻酔下での手術を成功させるために、自らの身内である母親と妻を犠牲にしました。自分で何かを生み出し工夫を凝らすことは、決して一筋縄ではいきません。しかし、創意工夫をするからこそ、責任もやりがいもより一層感じることができます。
高槻赤十字病院の体制の見直しや移転に向けた取り組みは、病院の命運を左右することになり、責任は重大です。もしかすると病院の復活のために、何かを犠牲にしなければならない日が訪れるかもしれません。それでも、それを覚悟したうえで、何か犠牲を払ったとしても、地域の人々のために「病院復活」というゆるぎない信念を持って目の前の課題を乗り越えていくが今の私にとって最大の楽しみであり、生きる目標でもあるのです。
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