「試験管ベビー」といわれた世界初の体外受精児が誕生してから、昨年(2018年)は40年の節目の年でした。体外受精技術をきっかけに、子どもがほしいカップルに福音をもたらす「生殖補助医療技術(assisted reproductive technology=ART)」は長足の進歩を遂げました。ただ、日本では技術が先行する一方で社会制度が追い付かないという現象も起きています。
「これまでの妊活がうまくいかなかったので、体外受精に挑戦した方がいいのではないかと夫婦で話し合ってきました。ただ、私たち2人とも、体外受精ってどういうものなのか詳しくわかっていないので、最終的な決断の前にきちんと知りたいと思っています」。診察室でそう話したのは、結婚して5年、30代半ばのご夫婦です。結婚当初は「子どもは自然に授かるもの」と思っていたそうです。ところが、4年たっても妊娠することがなかったため、いわゆる「妊活」を真剣に始め、不妊治療も受けてきました。それでも子どもを授かることができず、“ステップアップ”を考えているというわけです。
世界で初めての体外受精児、ルイーズ・ブラウンさんが生まれた1978年は、生殖医療の歴史にとって記念すべき年です。ロバート・エドワーズ・ケンブリッジ大学名誉教授がヒトの体外受精に成功したとのニュースに、当時産婦人科の研修医であった私は驚くと同時に感激し、その後不妊症や卵子の研究に取り組むきっかけにもなりました。
エドワーズ氏の成功以来、この技術は急速に広まり、世界ではすでに800万人以上が生まれています。日本では、ルイーズさんの誕生から5年後の1983年に最初の体外受精児が生まれてからその数は年々増加し、2016年には5万4110人、赤ちゃんの18人に1人が体外受精によって誕生しています。この数も割合も世界で1番です。
エドワーズ氏が40年前に完成させ、前述のご夫婦が希望している体外受精とは、どんな技術でしょうか。ここで、体外受精技術の概略を示し、従来の治療法との違いなどを解説します(図1)。
(1)人工授精=従来の治療法。精子を、子宮の奥、すなわち卵子のそばまで送り届ける方法(=体内受精)
排卵のタイミングに合わせて、細い管で子宮の中へ精子を注入するものです(図1a)。受精は体内で起こり、性交を伴わないけれども自然に近いといえます。ただしこの方法では、精子の質や量が十分でない場合や卵管の機能に問題がある場合には成功が期待できません。
(2)体外受精=卵子を採取し、培養皿で卵子と精子を出会わせる方法
成熟した卵子をできれば多数得ることが重要になります。1978年当時は、全身麻酔をして手術室で腹腔鏡を用いて採卵を実施していました。現代では外来で、経膣超音波装置で確認しながら細い針を使って卵子を採取するので、女性の肉体的負担は軽減されました(図1b)。卵胞刺激ホルモン(FSH)などの排卵誘発剤や早発排卵防止剤により、1回の採卵で複数個の卵子を得ることが容易になっています。
体外操作ですから、顕微鏡で受精を確認し、胚として発育させてから子宮に戻すことが可能です。
(3)顕微授精=卵子を採取し、顕微鏡で見ながら、卵子に精子を入れる方法
体外受精の普及とともにそれを応用した技術が広がっています。顕微授精はその1つで、精子が極端に少ない場合(乏精子症)や運動率が低い場合(精子無力症)、あるいはなんらかの原因により受精障害があって体外でも受精に至らない場合に実施されます。卵子を固定したうえで1個の精子を注入します(図1c)。精液中に精子がゼロ(無精子症)でも、精巣上体や精巣といった組織から精子を回収できれば授精することが可能です。
もう1つ重要なのが、凍結技術の応用です。複数個の胚を移植すると、2つ以上が着床して育つ「多胎妊娠」の可能性が高くなります。多胎妊娠は母子いずれにもリスクがあります。胚凍結の技術によって移植しないものは保存することができるので、多胎を防ぐとともに、1度の採卵で得た複数個の受精卵を順次移植することで妊娠率を高められます。
さらに、妊娠した場合には、第2子、第3子の妊娠出産に使用することも可能です。数年の間隔をはさんで移植することによって、1回の採卵で何人かの子どもを得る方も少なくありません。2017年には、アメリカで25年間凍結されていた受精卵(第3者からの提供)を移植した凍結卵と“同い年”の母親(移植当時25歳)が元気な女児を出産したというニュースも届きました。
新しい技術や科学的発明は社会に大きなインパクトを与えることが少なくありません。体外受精は不妊症の有力な治療手段として、世界中に受け入れられています。しかし一方で、その適用範囲をどこまで認めるかは論議のあるところでもあります。
例えば、第3者からの卵子提供による非配偶者間の体外受精によれば、染色体異常などで生まれつき卵子の発育がない女性や、病気で卵巣を失った女性など、従来は子を持つことが不可能であった人々の夢をかなえることもできるのです。逆に先天的に子宮がなかったり、病気のために失ったりした方でも、第三者の子宮を借りる代理懐胎、いわゆる「代理母」によって自分の卵子とパートナーの精子により遺伝上の実子を得ることができます。
こうしたことは、技術的には難しいことではありません。実際、非配偶者間の生殖医療に対して法による規定を設けた上で実施を認めている国が多くあります。一方、日本では「慎重な検討」が続いており、法律による規制などはありません。ただし、この原稿執筆(2019年3月)時点では、学会の「見解(ガイドライン)」で「体外受精は配偶者間のみに限る」とされ、卵子提供や代理懐胎は認められていません。
子どもを授かり、育てることができる年齢は限られています。国内で規定が整うのを待てない少なからぬ人々が海外で上述のような治療を受け、妊娠、出産しているのが現状で、生殖医療の現場では1日も早く日本でも法整備のもと、一定の範囲内で配偶者間以外でも体外受精が実施できるよう願う声が多いことを知っていただきたいと思います。
「コロンブスの卵」をご存知でしょうか。1492年にアメリカ大陸を“発見”し帰国したコロンブスが、「大陸はもともとそこにあったのだから、だれにでも発見できることだ」と言われ、では皆さんここにある卵を立てられますかと尋ねました。誰一人できなかった後にコロンブスは卵の尻をつぶして立てて見せたという逸話です。誰かがやった後であれば簡単にできそうに見えることでも、最初にそれを思いつき実行することは難しいということ示しています。
「エドワーズの卵」は、卵子成熟のメカニズムを明らかにする生理学上の大発見です。また、再生医療への応用が期待されるES細胞の研究も受精卵を体外で培養する技術があってこそ可能になりました。今でこそ一般的な医療になった体外受精ですが、それを発想し実現するまでに積み重ねられた多くの努力は、大変な困難を伴うものであったでしょう。
エドワーズ氏は「体外受精技術の開発」により、2010年にノーベル医学生理学賞を受賞しました。120年に近いノーベル賞の歴史の中でも、世界中の最も多くの人に幸福をもたらした研究成果の1つと言えるでしょう。エドワーズ氏の業績が人類の歴史に残るものであることをご理解いただけたでしょうか。
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