平成23年(2011年)3月11日に発生した東日本大震災はマグニチュード 9.0、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震となりました。この地震に伴い発生した津波とその後の余震により、引き起こされた災害は非常に甚大なものでした。
そのような状況のなかリーダーシップを取り関係機関との広範な連携のもと県の医療をコントロールすることで、他県に先駆けていち早く効率的な災害医療体制を構築したのが岩手医科大学です。当時の対応は日本のみならず世界から高く評価され、世界の災害医療モデルとして注目を集めることになりました。
岩手医科大学が東日本大震災時に行った災害医療体制の構築、そして今も続く長期的医療支援活動について、岩手医科大学 理事長 小川彰先生にお話をお伺いしました。
今回の震災は政府により「東日本大震災」と名付けましたが、震災の現場で医療を行った私たちから見るとこの名称は適切ではないように感じられます。なぜならば被災者の生死を分けたのは地震よりその後に襲来した大津波だったからです。岩手県内だけで8,000名を超える死者行方不明者が出ている中でけが人は200名弱と僅かであったことがこれを裏付けています。このように今回の大災害は「震災」ではなく「…地震大津波大災害」とも命名されるべき災害です。
このような特異な今回の災害では救急災害医療の第1段階であるDMAT(災害時派遣医療チーム)等を中心とした救命活動は極めて限定的でした。阪神淡路大震災のような、震災による災害被害が大きい場合には、倒壊した建物からの人命救助などDMATの強みを最大限に生かした救助活動が求められます。しかし今回の災害被害の中心は津波です。そのため建物は津波によって流され、死者と生存者がはっきりと分かれ、DMATが行う救命活動が必要になる場面は限られていました。
こうしたことから本災害の医療支援は、直ちに第2段階である避難所に対する医療救護班の巡回診療に切り替えられました。
この時に最も問題だったことは県の災害対策本部に医療班が作られていなかったことだと思います。
当時、北海道から沖縄まで日本全国のDMATやJMAT、各医療団体、病院、大学から総勢約4,000チームもの医療救護班が岩手県へ救護に向かいたいという申し出がきていました。こういった支援は非常に大きな力になりますが、それほど大勢の医療チームが入り、それぞれ医療救護を開始してしまえば、現場に大きな混乱が起こってしまうことは確実です。
そのため本学はまず、岩手県知事へ連絡をとり、災害対策本部のなかに医療班となる岩手災害医療ネットワークセンターを作ってほしいと要請しました。そうして立ち上がった当センターには、本学の職員、そして警察官、自衛隊、医師会、薬剤師会、看護師会、日本赤十字社の方々にも入っていただきました。そうしてこのチームを中心に各避難所の巡回診療の整備が開始されました。
まず初めに行ったことは現状の把握です。岩手県は、北海道を除くと全国で最も広い面積を持つ都道府県です。広範囲にわたるこの地域において各地の被災状況を把握することは容易ではありません。さらに電話などの通信網はダウンしており特に被災状況が甚大な沿岸地域がいったいどのような状況なのか全く情報が入ってこない状況でした。
そこで当院の医療センターから2組の偵察隊を送ることにしました。偵察隊のメンバーはDMAT の隊員で構成されており、この2組の偵察隊を始動させることで各地の状況をいち早く把握しようと考えたのです。彼らには危険であればすぐ引き返してくること、目的は情報収集であり医療活動はしてこないこと、そして一番大事なのは自身の命であり、自分の身は自分で守るようにと伝えました。偵察隊は毎日沿岸北部と沿岸南部に分かれて情報を収集し、集められた情報は災害対策本部の朝晩の会議で共有されました。
そうして情報を集めていくと、各地でとんでもない混乱が起きていることが分かってきました。
偵察隊が収集してきた情報を聞いてみるとたとえば5,000人規模の非常に大きな避難所に医療チームが全く入っていないこと、その一方で30人程度の小さな避難所に3チームもの医療班が入り混乱が起きていたことなど、必要な場所に必要な医療支援が届かない非効率的な支援状況が見えてきました。
そこで私たちはすべての避難所の医療支援チームの工程表を制作することにしました。この工程表により、どの避難所に、どのチームが、何週間滞在するのか、各避難所への支援状況をすべて管理することができます。一般的に災害の医療救護班は約1週間程度しか現地に留まれません。来ていただいた医療支援チームの力を最大限活かし、より多くの人を救うために整備を進めていきました。
そして工程表とともに導入したものが「医療支援チームのライセンス制度」です。いわて災害医療支援ネットワークでは医療チームの支援に際してライセンス制をとり、ライセンスを持たない医療支援チームは現地での災害医療を行ってはいけないということを定めました。
このライセンスの発行は様々な役割を果たします。
まずライセンス発行の基準を設けることで、岩手県で安全に災害医療を行ってもらうための準備を整えていただくことができました。たとえば岩手県は当時まだ雪が残る地域だったため現地で支援を行う医療チームにはスタッドレスタイヤを備えて被災地に来てもらわなければなりません。また被災地では食料とガソリンが非常に不足していたため、支援に来ていただくチームには自分たちのためのできる限り多くの食料とガソリンを用意していただく必要があります。被災地で災害医療を行うためにはこうした準備をしっかりと行う必要です。
災害本部はこうした被災地で災害医療を行うための準備をしっかりと行ったチームにのみにライセンスを発行するという仕組みを作りました。こうすることで災害支援を安全に行っていただく体制を整えました。
またライセンスをもつチームには医薬品のストックがある場所を指示しました。ライセンスを持つチームはこの医薬品を自由に持っていくことができます。医療チームに食料やガソリンを用意して持ってきていただく分、医薬品は災害本部が用意する体制を作り、効率的に災害医療を進められる仕組みを作りました。
またライセンスを発行することで災害医療に訪れた医療支援チームの数と滞在期間を把握が可能になりました。ライセンス登録から得た医療支援チームの情報と、いわて災害医療支援ネットワークが把握している各避難所の情報を照らし合わせることで非常にシームレスな災害医療支援を実現することができたのです。
こうして岩手医科大学は東日本大震災津波による災害医療の中心となり、基幹災害拠点病院として、発災直後から全力を挙げて医療支援活動を行っていきました。
他県に先駆けていち早く効率的な災害医療体制を構築したことは、日本のみならず世界の災害医療モデルとして注目を受けました。
このことから平成25年(2013年)3月5日~6日の2日間、岩手医科大学および東北大学医学部の共催のもと、WHO主催の「災害からの医療復興国際会議」が本学で開催されました。西太平洋地域17カ国から各国政府高官など70名以上が参加しました。この会議によって災害からの医療復興に対する意識を共有し、具体的な改善につなげていくための英知を岩手から全世界へ発信しました。
震災時、私たちはより迅速に被災地を救済すべく行動を進めていましたが、震災の対応に関しては首相官邸の災害対策本部がすべてを取りまとめていることから現場での裁量権は限られていました。そのためこちらからの提案が届かないことや、プロジェクト実行の申請に非常に長い時間がかかることもありました。こうした状況は、まるで戦場のような被災地を目の当たりにする現地の我々にとって非常にもどかしいものがありました。
また長期的な災害支援方法についても、国が提供する支援と住民が必要とする支援には乖離があるように思います。
たとえば津波によって漁師を生業とする方々は船が流され、漁港は荒れ、職を失っています。こうした方々のなかには国により、助成金を受け取っている方もいらっしゃいますが、資金による支援があっても船や漁港がないと職は成り立ちません。すると住んでいた地域を離れ、内陸のほうへと移り住み、そちらで生活を始めていきます。今年(2017年現在)で震災から6年が経ちますが、6年もの月日が流れれば当時2歳の子供は小学校へ入学し、その地域での輪を作り、もと住んでいた地域へ戻ることは難しくなっていくでしょう。
こうしたことから私は、被災地域への長期的な復興支援として助成金をだす、仮設住宅を作る、というだけでは不十分であり、その地域での暮らしや営みを続けていくためには「職」の支援がとても重要になるのではないかと考えています。岩手県民はとてもまじめな県民性を持っていると思います。そんな岩手県民にしっかりと働いてもらうために必要なのは「働く機会」です。
こうしたことから被災地に対する復興支援には、助成金や仮設住宅だけではない、人々が営み暮らしていくための支援が必要なのではないかと、私は訴求し続けています。
震災の経験から非常によく学んだことは、ロジスティクスな本部機能の重要性です。どうしたら災害の対策本部に情報が集まり、必要な場所へ必要な支援が効率的に届けられるのか。そのことを迅速に検討し、論理を組み立て、実行に移せるかということが大規模災害発生時に極めて重要です。
そこで、本学では災害の研修で「ロジスティクス研修」を取り入れています。東日本大震災時には、大地震と津波により被災地は大混乱に陥り、いくつかの医療支援チームもロジスティクス面の不足により十分な活動を行えなかったという報告がありました。これらを踏まえ、本研修では被災地内の災害医療分野におけるロジスティクス能力の向上を目的として、大規模災害時、被災県に支援に入る医療チームとしての円滑な情報のやりとりや、十分な生活環境の確保をするための研修を行っています。
本学では、平成28年(2016年)に矢巾キャンパスにエネルギーセンターを竣工しました。当センターは、東日本大震災での教訓を踏まえ、災害時においてもエネルギー供給を万全にするため、矢巾キャンパスへの附属病院の移転整備に先行し、隣接地に建設を行ったものです。
この施設の特徴は、太陽光発電設備や地中熱利用設備といった環境にやさしい再生可能エネルギーシステムのほか、燃料不足時にも活用可能な電気自動車、異なるエネルギー種からなるコージェネレーションシステムを整備し、発災時に外部からのエネルギー供給が途絶した場合でも1週間程度は病院機能を維持可能とする点にあります。また本学では矢巾町と防災協定を締結し、災害時に地域住民の避難所として施設内の会議室を提供することとしています。
まちの再生はいまだ遅々として進んでいません。これは今なお災害医療が継続されていて、地域医療の再生が程遠いということを意味します。岩手県の地域医療の安定充実を使命とする本学は、今後も長期的に医療支援を継続するとともに一日も早い医療の復興に向けて最大限の努力を行っていきます。
これからはこの大災害を通じて得られた教訓を学問的に体系立て、将来起こり得る大災害に備え、有為な医療人を育成することが被災地にある本学に課せられた責務であると考えています。
発災以来、本学が担ってきた様々な復興事業を有機的に連携させ、より実効性の高い組織的な活動を行うためにも、学内に災害復興事業本部を設置、災害医学講座を立ち上げることで「究極の総合医療」である災害医療を担う人材育成ができるよう、これからも努めていきたいと思います。
学校法人岩手医科大学 元理事長
日本脳神経外科学会 脳神経外科専門医日本脳卒中学会 脳卒中専門医
1974年岩手医科大学医学部医学科卒業後、東北大学医学部付属脳疾患研究施設脳神経外科入局。その後国立仙台病院脳神経外科医長、同病院の臨床研究部脳神経研究室長、東北大学医学部助教授を経たのち、1991年より米国バロー神経研究所(アリゾナ大学)へ留学。帰国後、岩手医科大学脳神経外科学講座教授を務め、2003年に同大学医学部長、2008年に岩手医科大学学長、そして2012年 学校法人岩手医科大学理事長に就任する。脳神経関連のエキスパートであり東北地方を代表する脳神経外科の名医として知られる。現在は学校法人岩手医科大学理事長として、創立120周年の記念事業である看護学部の開設(平成29年4月)と、附属病院の矢巾キャンパスへの移転新築(平成31年9月開院)、内丸メディカルセンターの整備を予定しており、地域医療に根ざした医療を発展させ、国民医療に寄与するとともに、東洋、世界一の大学・病院を目指しています。
(故)小川 彰 先生の所属医療機関