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岩手医科大学の歴史から紐解く 東北を支える医科大学の創立と発展

岩手医科大学の歴史から紐解く 東北を支える医科大学の創立と発展
(故)小川 彰 先生

学校法人岩手医科大学 元理事長

(故)小川 彰 先生

この記事の最終更新は2017年06月11日です。

明治時代から東北の医療を支え、創立120年以上もの歴史をもつ岩手医科大学。本大学の創立・発展には、東北における医療の歴史と密接な関係があります。

明治時代から現代までに、東北地方はどのような医療の歴史を歩んできたのか、そして120年以上も地域の医療を支えてきた岩手医科大学はどのようにして創立され、発展を遂げてきたのか。本記事では多彩な歴史をもつ岩手医科大学の沿革を紐解きながら、東北地方における医療の普及、著名人にも慕われた医科大学の成り立ち、そして本学の今後の展望について、岩手医科大学理事長 小川彰先生のインタビューをもとにお伝えしていきます。

岩手医科大学の創立当時

岩手医科大学の創立は、明治時代の医療貧困に端を発します。岩手医科大学の創立について、明治時代の日本医療の歴史に沿ってお話していきます。

明治時代の初期、日本にはまだ医師やその他医療関係者(薬剤師や助産師など)に関する資格制度は存在していませんでした。

そうしたなか明治7年に医制という日本で初めて医療制度衛生行政について定めた法令が発布されました。これにより西洋医学についての知識を問う医術開業試験が始まり、その合格をもって医師資格が交付されるようになりました。

そして明治9年ごろからは全国に数多くの医学校が設立され、明治17年になると医学校の生徒数が公立30校・私学2校を含め4,188名まで上りました。こうして明治初期には資格をもつ医師たちが全国に数多く誕生していきました。

しかし、明治20年に入り状況は一変します。

府県立医学校の費用として地方税を使うことを禁ずる勅令第四十八號が国より公布され、これにより多くの医学校は経営困難となり、約30校あった医学校の多くが次々と廃校に追い込まれていきました。このなかには岩手県の医学教育を担う岩手県医学校の名前もあり、当校もこの時代の流れにのまれ廃校に至ります。

多くの医学校が廃校へ追い込まれるなか、千葉・仙台・岡山・金沢・長崎の医学校は官立に、そして経営が比較的安定していた大都市の病院(京都、大阪、愛知)は公立学校として存続することができました。

東北・北海道には東北大学の前身である宮城医学校が残りました。これだけ広大な面積をもつ東北・北海道に病院がたったひとつになってしまったことで、この地域には医療の空白が生まれてしまいます。医師の数が減少し、医療設備も限られ、衛生行政も非常に悪化していった東北・北海道地方ではたくさんの人が亡くなり、医療の困窮を極めていきました。

三田俊次郎先生

そのような東北の医療貧困を救おうと立ち上がったのが、本学の創立者三田俊次郎です。

俊次郎は、眼科医院を開業していましたが、当時、俊次郎の病院にはトラコーマという結膜感染症の患者さんが数多く受診してきていました。トラコーマは発展途上国で多くみられる疾患であり、繰り返し発症することで失明に至る恐れのある病です。俊次郎はトラコーマによって失明してしまう数多くの患者さんを目の当たりにし、東北における医療貧困を日々強く感じていました。

そして、俊次郎は大病院を立ち上げることを決意します。眼科医院の経営が安定していたとはいえ、学校を創立するほどの費用が十分にあったわけではありません。しかし東北の医療の空白を埋めるべく、廃校となった旧岩手県立病院・岩手県医学校の敷地・建物をすべて借り受けて、明治30年に私財を投じ私立岩手病院を設立、同時に医学講習所産婆看護婦養成所を併設しました。これがのちの岩手医科大学となります。こうして岩手県を中心とした地域の方々へ医療を提供し、岩手病院を実習所として医学講習所と産婆看護婦養成所から数多くの医師、産婆・助産師、看護師を着実に輩出していきました。

私立岩手病院に併設された医学講習所は、その後に私立岩手医学校となりました。しかし、着実に成長を続けていた本校は、明治36年(1903年)に出された「専門学校令」によって廃校の危機をむかえます。

当時の陸軍軍医総監である森林太郎(森鴎外)は「このような学校は法律に規定して廃校にすべき」と公言していました。国が予備校的な医学校は廃校し、東大を中心とした医学教育を確立することを目的としたものです。この勅令の発布は、文部省大学派が標的とした野口英世らの出身校である済生学舎に対する動きであると考えられており、こうした動きから、全国の医学校に対し非常に高い施設基準等が設けられるようになり、私立岩手医学校も明治45年に一時廃校に追い込まれました。

しかし、俊次郎は医学教育への情熱を絶やすことなく「無医村の解消」「盛岡の学都化」を訴え続けます。そしてついに昭和3年(1928年)、私立岩手医学専門学校の設立の許可を得て、岩手医科大学の前身となる私立岩手医学専門学校を創りあげ、医療教育に生涯を費やして東北の医療を救っていきました。

また俊次郎は医療に対する先見の明をもつ人物でもありました。

私立岩手病院に併設させた産婆看護婦養成所は、看護婦養成所としては当時全国6番目に完成した施設です。この産婆看護婦養成所が設立されたのは明治30年ですが、国が「産婆規則」を制定したのは明治32年、「看護規則」を制定したのは大正4年ですので本学の養成所は産婆規則制定の2年前、看護規則制定のはるか前から設立されていたことが分かります。

俊次郎は創立当初から産婆、看護婦の重要性を見抜き、医者だけを養成しても産婆・助産師や看護婦がいなければ医療はよくならないという考えを持っていました。これは今では当たり前になったチーム医療という概念を明治時代から持ち、産婆・看護婦養成を行うことで「チーム医療」を実現させようと動いていたといえるでしょう。俊次郎はその後も医学教育へ情熱を絶やすことなく岩手県の医療の安定に心血を注ぎました。

三田定則先生

生涯を救世救民・人材育成に捧げた三田俊次郎の跡を継いだのは、日本の法医学そして血清学の泰斗 三田定則です。

定則は幼いころから優秀で明治26年(1893年)には帝国大学医科大学(現 東京大学医学部)法医学講座の初代教授で法医学の父と言われる片山国嘉のあとを受け、第2代法医学講座担任に就任します。こうした才幹を見込まれ、数え年29歳の時に俊次郎の養子となります。

定則は昭和11年(1936年)に台湾に赴任し、現在では台湾トップクラスの国立台湾大学の前身、台北帝国大学に医学部を設立しました。そして設立とともに医学部長をつとめ、その翌年には同大学総長に就任しました。こうした経緯から、定則は台湾の医学教育の基盤を創り上げた人物として台湾・日本両国において著名な人物です。

その後、定則は昭和17年(1942年)に郷里である岩手へ戻り、俊次郎の跡を継ぎ岩手医学専門学校第2代校長となります。そして戦後の学制改革の際には専門学校を大学へと昇格させます。これが現在の岩手医科大学に繋がります。温厚にして飾らず誰に対しても敬と愛をもって接した定則は、数多くの人々と厚い関係を築き多くの信頼を集めていきました。

定則はまた、昭和天皇からも一目置かれる人物でした。

昭和22年(1947年)に昭和天皇が岩手県を訪れた際、公務を終えられ宿舎の小岩井にお帰りになられたとき「岩手には三田がいる筈。会いたいから呼ぶように。」 とおっしゃられ、定則との面会を望みました。

この時、昭和天皇と面会した定則は

「いままで大学は、学問の深奥をきわめるということを第一義に目標にかかげていた。人格の陶冶は第二にされていた。それを人格を第一義に、学問を第二ということに改めなければならない。」

と日本の大学教育について進言をします。定則は、これほどまでに教育において人格というものを非常に重要視しており、医師たらんとするものは先ず人間であらねばならぬという持論を強く持ち、人類の理想に「誠」を掲げていたのです。

このような定則の精神は、現在の岩手医科大学の学則にも反映されています。

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学則第一条
本学の目的は、医・歯・薬・看護教育を通じて 誠の人間を育成するにある。

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俊次郎と定則の精神は、学校法人岩手医科大学の学則に高らかに謳われ、今日まで脈々と受け継がれています。

 

三田定則先生の「至誠」という掛け軸

岩手県は全国に誇れる多くの偉人を輩出しており、岩手の空の玄関口「いわて花巻空港」のロビーには、後藤新平、新渡戸稲造、三田定則、宮沢賢治、石川啄木らが「岩手の偉人」としてその活躍が紹介されています。

長い歴史を持つ本学はここに紹介されている偉人たちとも奥深いゆかりをもちます。

詩人・童話作家として有名な宮沢賢治は、大正3年(1914年)18歳のころ肥厚性鼻炎手術のため、当院に入院していました。そのとき宮沢賢治は入院生活のなかで看護婦 高橋ミネさんに恋心を抱いていたといわれています。宮沢賢治の作品のなかでも名作といわれる文語詩「岩手病院」は、この入院当時の恋を回想して書かれたものであり、当院の一角に設置されています。

高橋ミネさんが写る集合写真
前列の右から2人目が、高橋ミネさん。盛岡中学卒業後の大正3年(1914年)4月~5月に賢治が鼻疾患で入院中恋をした。

 

そして教育者・思想家の新渡戸稲造は下痢症状が悪化した際と、乗車したバスが谷底に転落し受傷するというアクシデントから当院に二度入院しています。

一度目の入院時は三日間で、退院する時には東京女子医専学生で入院中の看護を担当していた下斗米ミツさんが付き添い、病院のある盛岡から軽井沢へ帰るまで随伴したというエピソードが残されています。

三田俊次郎(院主)、佐藤三千三郎(院長)、新渡戸稲造が写るお写真
新渡戸稲造入院の時(昭和3年)。右より三田俊次郎(院主)、佐藤三千三郎(院長)、新渡戸稲造。

当院は長い歴史をもち岩手県の医療を広く支えた経緯をもつことから、このような偉人との様々なエピソードをもっていました。

これまでご紹介してきたととおり、明治時代には病院が開院され、昭和前期には俊次郎が医学専門学校を設立し、学長の座は俊次郎から定則へと受け継がれてきました。

そして昭和後期~現在に至るまではさらなる拡充・発展・躍進の時代となり、本学はつねに成長を続けてきました。昭和後期から現在の歴史のなかでも大きなトピックスといえるのは、医療技術革新における世界的な貢献、そして日本初となる4学部医療系総合大学の創造のふたつです。

平成11年(1999年)、本学は3TMRIを導入します。当時、3TMRIは単に脳の断面画像をえるための生理学的研究機器と位置づけられていました。しかし、本学は研究を重ね、3TMRIの臨床的有用性に関する英文論文を10年で500篇発信していきました。その結果、3TMRIの臨床使用における有用性が証明され、現在では臨床診断機器として必須のものと位置づけられるようになりました。本学による研究成果は、3TMRIに対する世界の常識を大きく変えたのです。

そして現在MRIは3Tから、さらに磁場強度が高く短時間に高精細な画像が得られるようになる7Tの機器が登場しています。本学では平成23年(2011年)に世界で9台目となる7TMRIが導入されました。本学には超高磁場先端MRI研究センターという施設がありますが、ここではこの7TMRIを活用して精神疾患の脳MRI画像を世界で初めて画像化したという功績があります。このMRI画像はヨーロッパの医学書に多数引用されています。

そのほかにも、次世代型MRIでより良い医療を世界に発信していくためのチーム研究プログラム「超高磁場MRI研究ネットワーク」への参画や、産学協同研究における超高性能CT(最新型[第3世代]320列CT)の開発など、本学は医療機器の技術革新に大きな貢献を果たしてきました。

定則の指揮によって大学昇格を果たした岩手医科大学は、昭和40年(1965年)に歯学部が設立されました。これは国公私立を含め東北・北海道で始めての歯学部設置認可です。

その後、平成19年(2007年)には薬学部、そして平成29年(2017年)には看護学部が発足し、本学は日本で唯一の医学部・歯学部・薬学部・看護学部の4学部を同一キャンパスに擁する医療系総合大学となりました。

さらに平成31年(2019年)には1,000床規模の高度治療・入院機能を担う矢巾新附属病院が開院し、現在の附属病院は高度外科機能を担う内丸メディカルセンタ―として、新病院と一体的に運用していく予定です。

 

岩手医科大学附属病院についてはこちらの記事もご覧ください。

岩手医科大学附属病院の病院記事:https://medicalnote.jp/hospitals/4851

 

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