私が行う医療は、血の海をかき分け、大動脈瘤破裂の手術を完遂するような場合もあれば、禁煙を進めるといった細かなアドバイスの場合もあります。しかし、どちらも人の人生を変えてしまうくらい大きな影響のある大事なことです。
心臓血管外科は、患者さんの命を自らの手で助けている実感を強く感じることができる診療科です。この「命を救った」という感動が原動力になります。自分にしか対応できないという場面で、絶体絶命の危機にある患者さんの命を助けることができた瞬間は、まさに医者冥利につきます。そして、患者さんやご家族の方から「命を助けてもらってありがとう」と涙を流して喜んでもらう瞬間は、筆舌に尽くしがたい喜びがあります。
高校生の頃、「バイオテクノロジー」という言葉が生まれ、新しい産業・技術として注目されていたので、漠然とそういった生物科学の分野に興味がありました。
そんなとき、母方の親戚が自治医科大学の教授をしていたので、医学部への進学をすすめられました。医療はバイオテクノロジーの一分野でもありますし、すすめられた大学は学費のかからない自治医科大学でした。当時は母子家庭で、私は3人兄弟の長男です。家計に余裕はなく、下にも兄弟がいるため「高校を出たら働いて親に楽をさせてやれ」と親戚から大学への進学は反対されました。自分よりも家族のことを考えなければいけない環境でしたが、母は私を応援してくれたので、志望校を自治医科大学のひとつにしぼり、無事に合格することができました。
そうやって医学部に入学したものの、医療を「文系的な側面が強い理系分野」という風に捉えていたことや、主に経済的な理由から進学を決めたこともあり、「人を助けるために医学部に入った」と話す同期の言葉に最初は違和感を覚えました。最初から医師になりたい、という強いパッションをもちあわせていたというよりも、実際の経験や学びの中で、医療とはどのようなものなのかを覚えていきました。
高校生の頃に青年海外協力隊の存在を知り、彼らが海外で井戸を掘ったり、その地域に貢献したりしている姿に憧れがありました。その影響もあり、いつか社会貢献をしたいという気持ちが自分の中にありました。そうした中で、「医療の谷間に火をともす」という自治医科大学の存在とその使命に共感しました。自治医科大学の入学試験の面接で「日本から医療のへき地がなくなったら海外のへき地へ行きます」と話したことを記憶しています。
実際には、卒業後に秋田県のへき地病院へ6年間の勤務をしました。最先端の医療に遅れをとることや、専門医などの資格の取得が難しくなることへの不安もありましたが、地域医療の現場では非常に多くのことを学びました。豪雪地帯にある横手市立大森病院の内科で1年間、その後、当時は陸の孤島であった仙北市立田沢湖病院で5年間勤務しました。
地域の医療は、まさに住民の中に溶け込むような手作りの医療というだけでなく、地域で発生する健康問題全てに関わる重要な仕事でした。在宅医療や災害救助、学校保健など現在の心臓血管外科医の仕事とはかけ離れた仕事もたくさん経験しましたが、患者さんの喜びのために働くということで、同じベクトルを持っています。その経験は今の心臓血管外科の日常診療に非常に役立っていますし、患者さんに接するときの意識に全く変わりはありません。
学生の頃、最初は先輩のすすめや、当時流行していた医療ドラマ『ベン・ケーシー』*の影響もあって、かっこいい外科医の代名詞である脳外科医に憧れていました。その一方で心臓、血管、血液の一貫した循環システムが体の中で機械の構造のように機能していることに強い興味を覚えてもいました。たとえるならば、輸出入を行い国の経済をまわすのと同じことが、人体の中でも行われているのです。そう感じるようになってから、ますます循環器に魅了されました。
そして、薬やカテーテル治療だけでなく、患者さんの命をこの手で救う心臓血管外科に、人生のチャレンジとして飛び込みました。それは私にとって、へき地勤務を終えてのターニングポイントとなりました。
*ドラマ『ベン・ケーシー』……1961年から5年間放送されたアメリカの医療ドラマ。脳神経外科医であるベン・ケーシーの医師としての成長を描き、当時高い評価を得た
進路に迷っていた頃、恩師の安達秀雄教授(自治医科大学名誉教授)から「小さいことに自分の人生を委ねるんじゃない」「俺たちは世界を相手に戦っているんだぞ」と言われました。その言葉がきっかけとなり、私は恩師のもと、自治医科大学附属さいたま医療センター心臓血管外科で研鑽を積むことを決めました。
今でも自分は心臓血管外科医としての立ち位置はどこだろう?と常に考えながら働くようにしています。日本国内のみならず、世界レベルで自分のポジションを見据える大切さを安達教授は教えてくれました。
心臓血管外科に入局したての頃は、外科医として経験を積むことに必死でした。そんな私に、当時お世話になった井野隆史教授(自治医科大学名誉教授)が「患者さんで練習をするな」とおっしゃったのです。そうは言われても、経験を積まないと元も子もない。そう思って思わず反論したところ、「手術は常に本番だ、練習ではない。失敗は許されないのだ」と厳しい叱責を受けました。また、初めて冠動脈をつないだときも、吻合のできがよくなかったために吻合しなおしたことを報告した際に「初めてやる手術はうまくいくに決まっているのに、どういうことだ」と叱責されました。特に最初に行う手術ほど失敗は許されない、という外科医の厳しさを井野教授に教わりました。
今思えば、若手だから仕方ない、ではなく、プロなら完璧にこなせということを井野教授は伝えてくれたのだと思います。心臓血管外科医は薄氷を踏む思いで手術をしろ、など、数々の井野教授のお教えの言葉は今でも忘れることができません。
へき地勤務の後に専門医の道へ進んだこともあり、最短のルートで専門医になったとはいえません。そうした苦労を知っているからこそ、後輩の医師たちには最短かつ賢い資格の取得方法や、学会活動への参加など、より実践的なアドバイスをするように心がけています。後輩医師の中には教えることは必要ないくらい優秀で、自ら学び成長していく方もいますが、それが難しい場合には、共に学んでいくつもりで接しています。
私にとって、よい医療とは「人のためになる行い」をし、「感謝され喜んでもらうこと」です。患者さんの体にとってベストな選択をして、問題を解決するという行為を通じ、患者さんに喜んでもらうことこそが私にとっても最高の喜びであり、ご褒美でもあります。
そういう意味では、結婚式場に勤める方やレストランの従業員など、人を喜ばせることを職業とする方などと働く意識が似ているのかもしれません。
喜びや感動は、たとえ心臓血管外科医としてではなくても、医療に携わる限り、多くの人に伝えることができると思っています。それを伝え続けられる限り、私はこれからも医師でありたいです。
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横須賀市立うわまち病院
横須賀市立うわまち病院 病院管理者、公益社団法人 地域医療振興協会 副理事長
沼田 裕一 先生
横須賀市立うわまち病院 副病院長・循環器内科 部長
岩澤 孝昌 先生
横須賀市立うわまち病院 副病院長 消化器病センター長 消化器内科部長
池田 隆明 先生
横須賀市立うわまち病院 副管理者・小児医療センター長
宮本 朋幸 先生
横須賀市立うわまち病院 心臓血管外科 科長
田島 泰 先生
横須賀市立うわまち病院 第一脳神経外科 部長
廣田 暢夫 先生
横須賀市立うわまち病院 呼吸器内科顧問
三浦 溥太郎 先生
横須賀市立うわまち病院 呼吸器内科部長心得
上原 隆志 先生
横須賀市立うわまち病院 総合内科 部長 兼 総合診療科 部長
神尾 学 先生
横須賀市立うわまち病院 副病院長
山本 和良 先生
横須賀市立うわまち病院 高精度放射線治療センター センター長
大泉 幸雄 先生
横須賀市立うわまち病院 第二外科 部長
菅沼 利行 先生
神奈川県眼科医会 会員、横須賀市立うわまち病院 眼科 眼科部長
西本 浩之 先生
横須賀市立うわまち病院 皮膚科 科長
大川 智子 先生
横須賀市立うわまち病院 泌尿器科部長
黄 英茂 先生
横須賀市立うわまち病院 小児科 科長
角 春賢 先生
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