脳神経外科医の宿命を背負って手術を続ける覚悟がある

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脳神経外科医の宿命を背負って手術を続ける覚悟がある

プロフェッショナルとして手術と向き合い続ける井上 智弘先生のストーリー

NTT東日本関東病院 脳神経外科 部長/脳卒中センター長
井上 智弘 先生

一生を賭ける仕事として外科医を選んだ

私が医師になったのは、医師というより外科医になりたいと思ったからでした。将来の職業として、いつまでも熱中して取り組めそうなもの、“男子一生の仕事”とは何だろうかと考えたとき、イメージにぴたりとはまったのが外科医だったのです。

幼いころの夢は野球選手でしたが、小学校6年生くらいのときには、スポーツに向くほどの体力はないし自分には無理だろうなと思っていました。それでは何が向いているだろうかと考えてみると、記憶力、集中力、我慢強さ、朝から夜まで何かに没頭するという意味での体力には自信があります。そこで、高校生のころにはおぼろげながら、自らの手技で患者さんに貢献できる外科医という仕事に就くことを自然と思い描いていました。

練習を重ねるほど手術に生きる、脳神経外科手術の魅力

高校卒業後は東京大学医学部に入学し、そこで専門として選んだのが脳神経外科です。 “治療が難しい病気を何とかして治せないだろうか”という思いがあり、脳神経外科は努力次第で技術を高められる領域だと考えたのです。

たとえばおなかの外科は、今でこそ内視鏡手術の様子をモニターに映して見ることができますが、当時は手術を行っている部分(術野)を見るのは准教授や講師だけで、手術室に一緒に入っても技術を習得するのは難しいだろうと思いました。一方、脳神経外科は、顕微鏡を使う手術の全てがモニターに映し出され、録画した動画も後から見られるので、若手のうちから多くの情報に触れることができたのです。

当時、浜松医療センター脳神経外科部長を務めていた金子 満雄(かねこ みつお)先生の著作『脳が壊れるとき』にも影響を受けました。ネズミを用いたバイパス手術の練習を繰り返して困難な手術を成功させたというエピソードを読み、練習の成果は手術に生きるのだとあらためて感じました。手術の対象となる部分が小さく、人工血管や縫合糸を使って練習を重ねられることも脳神経外科の特徴です。年齢に関係なく修練を積むほど上手くなるというのは、私にとって大きな魅力でした。

人生に大きな影響を与えてくれた恩師

医師になって2年目、東京大学医学部附属病院の関連病院である会津中央病院に勤めた際に指導してくださったのが、私の師匠である、脳神経外科医の故・堤 一生(つつみ かずお)先生(前 公立昭和病院副院長)です。

同院では、くも膜下出血、脳出血、脳梗塞(のうこうそく)などで緊急手術の必要な患者さんが次々に運ばれてきて、病棟での対応に追われました。堤先生は、なるべく多くの手術に携わる機会を早い時期から与えてくださいましたが、その代わりに「病院から500m以上離れるな」「呼び出されたら30分以内に駆けつけろ」などと言われたものです。大変な環境だったかもしれませんが、このとき寝食を忘れて働いた経験は外科医としての財産だと今では思っています。

一本筋の通った哲学も、堤先生から学びました。「悪い結果となる症例は必ずある。その宿命を背負ったら走り続けるしかない。覚悟がないなら今すぐに外科医をやめろ」と言われたことをよく覚えています。

手術中に脳動脈瘤(のうどうみゃくりゅう)が顕微鏡の下で破れる危険な状態に直面し、緊張で足が震えてしまうこともありました。しかし、堤先生からは「緊張するのはパイロットならば分かる、失敗したら自分も死ぬからだ。患者さんが亡くなってもお前は死なないのに、何をカタカタ震えるのだ」と叱咤されました。この教えから、緊張したり取り乱したりすることは許されないのだと肝に銘じて、手術に臨むようになりました。

厳しい一方で堤先生は、脳神経外科医の仕事は“男子一生の仕事”とするに足るもので、若手医師の眼前には道が開けていると、よく話してくださいました。実際、私が想像した以上に興味深くてやりがいのある仕事だったことは間違いありません。私の脳神経外科医としての哲学は全て、堤先生につくっていただきました。

プロフェッショナルとして患者さんを救うことが医師の使命

会津中央病院で研鑽を積んだ後、アメリカのメイヨークリニックに留学して2年間学びました。留学先で強く印象に残ったのは、全米から患者さんが訪れるメイヨークリニックの医師のプライドと、何事にも動じず手術に臨むことを繰り返すプロフェッショナルの姿勢でした。“手術は誰かがやらなければならない。それをやるのは自分だ”という意志を感じ、見習わなければと感嘆したのを覚えています。

日本に戻ってからは、3年ほど勤務医として働き、2006年に富士脳障害研究所附属病院脳神経外科部長に就任しました。2016年からは、NTT東日本関東病院に赴任して同じくチーフの立場を務め、現在に至ります。

これまで医師を続けてきたなかで、“医師をやっていてよかった”と思った瞬間は、実はほとんどありません。脳神経外科の手術において必要なのは独自性ではなく、患者さんの命がかかった場面で無事に手術を終える安定感だと考えているからです。脳神経外科医の仕事は、患者さんの命を救う“職業”であるとともに、一つひとつの手術において負けることが許されない “勝負”でもあります。だからこそ、手術を終えてホッとすることはあっても、充実感を得ることは少ないのかもしれません。

私が医師を続けている理由は、“脳神経外科医をやめたら自分には何も残らない。この手術をするのは自分だ”という“プロ意識”に尽きます。外科医としての宿命を背負ったからには、生きている限り手術を続けなければならない。その覚悟を持っているのが外科医だと思っています。

培ってきた技術や知識を次の世代に伝えていきたい

最近では、自分が持つ技術や恩師からの教えを若い世代に伝えていかなければと思うようになりました。現在の目標は、一例でも多くの手術を手がけるとともに、私の直弟子による手術も含めた総数を人生において最大化することです。そのうえで、貢献できた患者さんの人数を、私が現役の間に1人でも多くしたいと思っています。

私が教えている若手の医師には、髪より細い“10-0”という号数の縫合糸を使ってガーゼを縫ったり縛ったりする顕微鏡下縫合の練習を、少なくとも1万針は行うよう指導しています。私自身、この練習は10万針を完遂していますが、若手の中にも、軽々と5万針ほど縫って高い技術を習得している医師がいて、非常に頼もしく思っています。師匠の堤先生が話していた「一生懸命に教えた研修医の中で脳神経外科を辞めた人数は0だ」という“唯一の自慢”に習って、それぞれの道を歩んでもらえるよう、私も若手のやり方や信念に応じた指導を心がけています。

脳神経外科医としての思い

私が専門とする開頭手術は、頭を開けて行う手術であることから、患者さんにとっては抵抗を感じる手術方法の1つだと思います。頭を開けずに行う血管内治療という方法で治療できるケースもありますが、開頭手術を選択せざるを得ない患者さんもいらっしゃいます。そのような患者さんに対し、手術においてどれだけ貢献できるか、手を尽くせるかということを考え続けてきました。開頭手術を検討されている方は、ぜひ私にご相談いただければと思います。

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