627枚のすべての絵が、私の宝物です

DOCTOR’S
STORIES

627枚のすべての絵が、私の宝物です

実直な修練と記録で得た知識と技術を伝承する櫻井裕幸先生のストーリー

日本大学医学部附属板橋病院 呼吸器外科 部長、日本大学医学部外科学系呼吸器外科学分野 主任教授
櫻井 裕幸 先生

「息ができない」少年時代の実体験を契機に決めた将来

高校3年生のある日、通学で電車に乗っていたときのことです。突然胸が苦しくなり、呼吸ができなくなりました。意識が朦朧とした私は車内で倒れ、そのまま緊急入院しました。突然自分の身に起こった「気胸」という病気との遭遇が、私の医師人生の始まりでした。

入院中は、体のあちこちに管を入れられて、ベッドに張り付け状態。さらに私は大部屋に入院していたこともあり、本当にさまざまな患者さんを目にしました。「痛い、痛い!」と大声で叫ぶ人、息をするのも苦しそうな人―。

私の生活する世界では当たり前のようにのんびり過ごしている人がほとんどである一方、病院では苦しんでいる人がこんなにも多くいることを知り、肺の病気を治す医師を志すようになりました。

そのなかでも特に憧れたのは、患部を切り取って根治を目指せる外科の領域でした。やりがいを最も感じられる科であり、自分の技術を磨くことにも興味があった私は、晴れて山梨医科大学(現在は統合されて山梨大学に名称変更)医学部に入学を果たし、そのときから外科一筋でここまでやってきました。

外科の手技を体に覚えこませるために

山梨医科大学を卒業し、そのまま大学の外科に入局したものの、当時の山梨県は人口が少なく、手術数をこなせる経験ができる環境ではありませんでした。

優秀な外科医になるためにはもっともっと修練を積んで、体に技術を叩きこまなければなりません。

「もっと多くの経験を積めるところに行きたい!」

そう考えていた頃、ある学会で佐久総合病院の先生の講演会を聴講した私は大きな衝撃を受けます。

そこで目にしたのは、非常に洗練された食道がんの手術、そして術後の患者さんの様子を映した動画でした。当時、食道がんの手術を受けた患者さんは、術後約一週間人工呼吸器につながれているのが一般的でした。その傍らには24時間研修医が待機し、休むことなく患者さんの容体を管理していたのです。

しかし、驚くことにその動画では、佐久総合病院で食道がんの手術を受けた患者さんが、翌朝になると人工呼吸器を外してICUのベッドで新聞を読んでいたのです。

「あり得ない、そんなことが本当に可能なのか?」

この講演会に刺激を受けた私はここで研修を受けたいと強く感じ、そのまま長野県に渡り佐久総合病院で研修医として多くのことを学びました。研修を始めて間もない頃、実際に手術の翌朝にベッドで新聞を読む患者さんをみたときは「思い切ってここにきてよかった」と確信したものです。

佐久総合病院にいらっしゃる先生方は不思議と国立がんセンター(現・国立がん研究センター)出身の方が多く、私もさまざまな先生から国立がんセンターで経験を積むことを勧められました。少しでも先輩医師の技量に近づきたい私は、それに倣う形で、国立がんセンターにレジデントとして働き始めました。

3年間をレジデントとして、その後2年間チーフレジデントとして務め、国立がんセンターにいた5年間で627件もの手術を経験しました。このときの経験こそが、今の私の根幹を作ったといってもいいでしょう。

国立がんセンター時代、私は一度も欠かすことなく、627件すべての手術を絵に記録して残してきました。これは私なりに考えて工夫した学習方法のひとつです。難しい手術に挑むときは、常に過去の記録を見返していました。自分が実際に目でみて治療に臨んだ症例であるからこそ、教科書に書いてあることよりも具体的なイメージを持って吸収することができるのです。

実際の手術記録①(絵:櫻井裕幸先生)

膨大な量の出血に足がすくんだ

国立がんセンター時代、1人だけ忘れられない患者さんがいます。

私が手術を行った患者さんで、術中に大出血を起こしてしまったのです。その手術は、肺がんに対する右肺の上葉切除。患者さんの右上葉に大きな腫瘍がありました。まず初めに、上行肺動脈を切り離した後で葉間肺実質を切離し、上肺動脈幹の剥離を試みました。しかし、その血管を剥離しようとしたタイミングで突如根部が裂け、大出血が起こったのです。

肺の血管はわずかな損傷であっても大量に出血します。突然の事態に私の頭は真っ白になり、手術台の前に一瞬棒立ちになってしまったのです。「足がすくむ」とは、まさにこのこと。数十年が経った今でもこの手術の光景は脳裏に焼きついています(この患者さんは、出血はしたもののすぐに出血がコントロールできて命に別状はなく、無事に手術を成功させることができました)。

手術が終わり、私は真っ先にペンを手に取り、ありのままにその手術記録を描きました。出血のアクシデントを隠すことなく、出血の原因、対策、自分が考えたことを残して今後の反省にしたかったのです。

大出血の起こった手術の実際の記録(絵:櫻井裕幸先生)

出血が起こったことを隠すこともできたのかもしれません。しかし、こうしてありのままを振り返らなければ、また同じことを繰り返してしまうと思ったのです。アクシデントが起こったときこそ、謙虚になって自分のやり方をみつめ直し、原因や対策を考える。二度と同じような苦い経験を起こさないことが、医師には大切だと考えています。

次世代の肺がん治療の担い手を育てるためにすべてを伝承する

それから国立がんセンターや済生会中央病院でたくさんの肺がん手術を行ってきましたが、あるとき、後進の教育にも力を入れていきたいという思いが高まってきました。

自分自身は今後、歳をとり、技術的にも衰えていくでしょう。そうであれば今後私に課せられた最大の役割は、自分の行ってきたことのすべてを後進に伝承し、素晴らしい外科医を育成することです。

後進の育成であれば、国立がんセンターなどの専門病院よりも他科との連携が求められる総合病院や大学病院に移りたいと考えました。

そしてしばらく考えた末に、研究や教育を重視している大学病院で自分ができることをしたいと決意し、公募を通じて日本大学医学部呼吸器外科学分野に主任教授として赴任しました。そして2017年現在、後進の育成に全力を尽くしています。

後進の育成で大事にしているのは、ひとつひとつの教育に最善を尽くすこと。たとえば自分の後輩には、私が行ってきた手術記録の大切さを教え込み、実際に彼らにも手術記録を描かせていますし、描いた記録は全て自分の目で確認しています。

また、実際の手術室のなかでは後輩医師の近くに立ち、それぞれの手技にどのような意味があるのか、そこでどのような経験を得ることができるのかをポイントで教えています。私自身がこれまで教わったことを後進に伝承することで、彼らがその教えを次回の症例に生かしてほしいと思います。

627枚の手術の記録は宝物 ~伝承と変革~

国立がんセンターでのレジデント時代に手掛けた627件の手術と同じ数だけ描いてきた手術記録は、今でも自宅のミカン箱に全て閉まっています。ありがたいことに、ある医療施設の電子カルテに採用していただいたり、肺癌取扱規約に掲載されたりと、私の絵が日の目を浴びる機会も増えてきました。

今でもたまに自宅のミカン箱を開けて、若き日に描いた絵の数々を見返しています。記録の一枚一枚には、当時の反省点や感想、手術が無事に終わった喜び、学びがぎっしりと詰まっていて、これをみれば瞬時に当時の記憶が蘇ってきます。627枚の絵は、私の宝物であり、私そのものなのです。

しかし、私は後輩の医師に私の考えを丸ごと受け入れてほしいとは全く考えていません。同じ教育をする人間は2人といませんから、彼らは今後、別の医師から私とは異なる指導を受けることになるでしょう。これはむしろよいことです。ぜひ、たくさんの先輩医師の話を聞いて、その話を聞いたうえで自分自身の治療のスタンスを構築し、自らの手でそれを発展していってほしいと考えます。

私の教えを伝承した後輩がその一部を吸収したうえで、その技術を変革していってくれれば、こんなにも嬉しいことはありません。

実際の手術記録②③(絵:櫻井裕幸先生)

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