
DOCTOR’S
STORIES
トップランナーを目指し、心臓外科手術のスキルを磨き続ける岡本一真先生のストーリー
高校生のときに思い描いていた夢は“外科医”か“建築家”になることでした。当時から、会社に通いデスクワークを黙々とこなす、そんなサラリーマンになるつもりは1mmもありませんでした。自分で腕を磨き、その腕で仕事をこなし、最終的にそれが人の役に立つ。そんな人間になりたいと思っていました。
受験が近づき、外科医になるか、建築家になるかで悩むことになります。そのとき、より明確にイメージできた職業が建築家でした。人の生活に直結する住空間を作り、そこに住む人を支えていく。建築家の仕事に魅力を感じた私は、医学部ではなく理学部や工学部に進学する東京大学理科一類へと進学したのです。
熱い思いを抱いて入学した理科一類でしたが、入学後半年程度でドロップアウトすることになります。というのも、実は夏休みを楽しみすぎて、秋に学校に行くことをすっかり忘れてしまったのです。気が付いた頃には、すでに学校が始まってから2週間が経過しており、これが私の後の人生に大きな影響を与えることになります。
大学1年生は「体育」が必修科目なのですが、休んでいる間に私の選択競技が「卓球」に決められてしまっていました。卓球が嫌いというわけではなかったのですが、なんとなくそのまま体育の授業を投げ出してしまいます。お伝えしたように「体育」は必修科目だったので、この単位が取れないと早々に留年が決定してしまいます。さらに私が志望していた建築学科は非常に人気で、各教科の平均評価が高くないと進学できません。体育といえども出席日数が少なくて評価が低いとしたら建築学科への進学は厳しいことが予想されました。
このまま大学に留まる道もありましたが、せっかくだし医学部の受験でもしてみようか、という気持ちが湧いてきました。幸い現役で大学に進んでいたので1年くらいまわり道しても長い人生を考えると大したことはないだろうと考えました。私は紆余曲折を経て医師の道を目指すことになりましたが、そのきっかけが「体育」の授業だったとは当時の私には予想もつきませんでした。こんな弱い動機での再受験でしたので、3月になって無事医学部に合格したときにだいぶ悩みました。医学部に進むか、このまま1年留年でやり直すか。入学金支払いのぎりぎりまで振り込みをする郵便局の前で悩みましたが、結局は医者と建築家、最初にどっちをやるかというと医者だろうという、よく分からない理由で医学部進学を決めました。今思えばそのまま理学部や工学部に進学してもまた楽しい人生があったとは思いますけどね。
無事、医学部に進学し、最終学年6年生の夏休み。その夏休みを全て使って南米に留学し、ブラジル、メキシコ、グアテマラ、コロンビアで南米の医療の現状を学ぶ機会を得ました。
ブラジルの病院では、銃で頭やお腹を打ちぬかれた患者さんが毎晩10人は運び込まれてきました。生きて運び込まれる患者さんだけで10人です。現場で息絶えてしまった人はいったいどれくらいいたことでしょうか。そうした環境のなか、毎日当直に駆り出され、手術に対応しました。日本ではあまり見ないような状態の患者さんを目にし、散弾銃の弾を1つずつ取り除くような手術を経験していくうちに外科医の役割の大きさを実感し、「外科って面白いな」と感じるようになりました。
医師免許を取得し、研修を終えた私は慶應義塾大学病院に勤めます。しかし、担当できる手術の数は思っていたより少なく、このままのペースで果たして一流の外科医になれるのだろうかという悶々とした気持ちが芽生えてきました。
「なんとか海外に留学し、腕を磨きたい」
次第にそういう思いを強めていったものの、当時私が身を置いていた環境には海外へのルートがなく、自分で留学先を切り拓いていく必要がありました。
そうしたなか、ある学会で大きなチャンスが訪れます。ベルギーの医師が内視鏡で心臓手術をするという発表をしていました。「これや!」と思った私は、すかさず「そちらの病院で研修させてください」と打診。すると即座に「OK」の返事をいただいたのです。
しかし、その後が大変でした。よくあることかもしれませんが、その後、なかなか音沙汰がありません。何度もメールを出しましたが返事はありませんでした。しかし、研修に出ていた地方の病院で、珍しい症例の英語論文を執筆しました。論文執筆の指導してくれる人はいませんでしたが、1人で書き進め、なんとか実績を作ろうと無我夢中で動いたのです。すると幸運にも割と有名な雑誌に論文が掲載され、これをベルギーの医師に伝えました。するとすぐに「来ていいですよ」との連絡。こうして私は念願の海外留学を果たすことになるのです。
(やはり英語論文は、ある意味名刺代わりになるのかなと思います。特に日本人の場合は、英語をしゃべれるのかどうか、ちゃんとした人物かどうか、と疑問視されている節があると思います。向こうからしたら僕らのこと何にも分かりません。そういう意味では、1つでも英語論文を書いておくのは最低条件かも知れないですね。)
ベルギーの後、イタリアで経験を積み、次はタイに渡りました。タイでお世話になった大学病院は、当時のタイ北部には唯一となる心臓外科がありました。北部に唯一の心臓外科とあって、広い地域から患者さんが送られてきます。たとえばリウマチ性の僧帽弁疾患に対する手術など、日本ではあまり見ないような、比較的シンプルな手術も数多く執刀することができ、非常に大きな収穫となりました。
また、タイでの経験はこれまでのベルギーやイタリアでの経験とは大きく異なる点がありました。それは手術の「責任」の大きさです。それまでは基本的に立場が上の先生が同席し、その先生の指示とおりに手術をこなすのですが、タイでは上の先生が手術現場に入ってきません。手術現場には私と現地のスタッフのみです。場合によっては臨床実習の学生と2名だけで手術をこなすこともありました。
臨床実習の学生相手では技術が半人前というだけでなく、英語も通じずコミュニケーションすら困難でした。そのため、私自身で手術の全てを完結する必要に迫られます。たとえば、手術の手順、手術補佐の役割、使用する糸の種類まで、何もかもです。むしろ、それら全てを1人で準備しないと手術が始められない状況だったのです。
このような環境下で手術をこなしていくうちに、ふと新しい自分に気が付きました。1人でも、ベルギーやイタリアで行っていたものと変わらないクオリティで手術ができるようになっていたのです。私はそこで初めて「自分で手術する」という感覚をつかみました。
国内にいたら、当時の私のようなレベルの人に手術を任せてもらえる機会はまずなく、必ず立場が上の先生が手取り足取り教えてくれる状況だったでしょう。このタイでの経験は、今の私の人生を支える大きな糧になっています。
日本に帰ってきた私は2012年から慶應義塾大学外科学講師に就任し、慶應義塾大学での胸腔鏡下の
直近の目標は、浜松医科大学の心臓血管外科治療を質・量ともに国内屈指のレベルにすることです。浜松医科大学では外科・内科の区別なくシームレスに心臓病治療に取り組めるチームが構築されており、心臓病治療に長けたメンバーが力強く前進しています。そしてこのチームで静岡県の心臓循環器治療を適切に実施するとともに、高いレベルの診療を学べる教育施設としてもブランディングを進めていきたいと思います。
心臓血管外科と循環器内科が一体となって胸腔鏡下心臓手術(MICS・小切開心臓手術)やロボット支援下心臓手術(冠動脈バイパス手術、僧帽弁形成術)、経カテーテル大動脈弁留置術、経カテーテル僧帽弁形成術、経カテーテル心房中隔欠損孔閉鎖術、大動脈ステントグラフト手術など、多様な低侵襲心臓血管治療のリーディング施設として安全性の高い医療を提供できるように体制を整備しております。
それに加えて、
この記事を見て受診される場合、
是非メディカルノートを見たとお伝えください!
浜松医科大学医学部附属病院
浜松医科大学 皮膚科学講座 准教授
伊藤 泰介 先生
浜松医科大学 医学部精神医学講座 教授
山末 英典 先生
浜松医科大学医学部附属病院 元病院長、 浜松医科大学 整形外科学講座 教授
松山 幸弘 先生
浜松医科大学医学部附属病院 心臓血管外科 病院准教授
鷲山 直己 先生
浜松医科大学 内科学第三講座(循環器・血液・免疫リウマチ内科) 教授、浜松医科大学医学部附属病院 副病院長、循環器内科 科長、ハートセンター長
前川 裕一郎 先生
浜松医科大学医学部附属病院 循環器内科 講師
成瀬 代士久 先生
浜松医科大学 名誉教授、静岡医療科学専門大学校 学校長
金山 尚裕 先生
浜松医科大学医学部附属病院 第一外科診療科群 特任教授
船井 和仁 先生
浜松医科大学医学部附属病院 病院教授
柄山 正人 先生
「受診について相談する」とは?
まずはメディカルノートよりお客様にご連絡します。
現時点での診断・治療状況についてヒアリングし、ご希望の医師/病院の受診が可能かご回答いたします。