医師であり、信頼されるリーダーであり続ける

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医師であり、信頼されるリーダーであり続ける

厳しい恩師のもとで立派なリーダーへと成長した寺井崇二先生のストーリー

新潟大学 大学院医歯学総合研究科 消化器内科学分野 教授
寺井 崇二 先生

「何もないけど、そこがいいところ」山口県宇部市での日々

私は小学校、中学校、高等学校、そして大学に至るまで山口県宇部市で育ちました。山口県宇部市はユニクロの創業者柳井正さんや、アニメ「ヱヴァンゲリオン」で知られる庵野秀明監督など多くの著名人を輩出していることで知られています。何もない静かな街ですが、「上を目指そう」という思いの強い方が多いのかもしれません。

私が医学部受験を決意したのは高校2年生の頃でした。それまでは理学部数学科などに進学し、将来は父と同じく企業の研究者を目指すつもりでいました。しかし、父や父の仲間の研究者が不況に左右され苦しんでいるのをみて、企業に勤め研究をすることの難しさを痛感。同じ研究職でも、具体的に人の体に関わることがしたい、という思いもあり医学部受験を決意しました。

もともと理学部に行くならば、東京大学や京都大学を目指すつもりでいましたが、進路相談の面談で担任の先生に医学部受験を相談すると

「君は長男だから、家から近い山口大学に行きなさい」

といわれ、それに従いあっさり山口大学への進学を決めました。山口大学は私が生まれ育った宇部市にありますから、自宅からの距離も非常に近く、自転車で願書を提出しに行ったことをよく覚えています。

 

山口大学第一内科との出会い

消化器内科の名門、山口大学第一内科へ入局

医学部を卒業しいよいよ診療科を決める頃、診療科の選択には非常に迷いました。最終的に残った3つの選択肢は「麻酔科」「循環器内科」「消化器内科」。そこで私は消化器内科を扱う山口大学第一内科教室の活気やパワーに惹かれ、第一内科教室への入局を決意しました。当時の第一内科教室はちょうど消化器病学会理事長を務められた故 竹本忠良先生が教授を退官され、2017年現在山口大学の名誉教授を勤められている沖田極先生が教授になる頃で、全国的に活躍が認められ、日本の消化器内科教室の中でも名門といわれていました。

私は第一内科教室で学んでいくうちに、消化器の面白さにどんどん惹かれていきました。消化器内科はさまざまな対象臓器があり、消化・吸収・代謝に関する疾患もあれば、がんもあるという非常に幅広い診療科です。特に消化・吸収・代謝のメカニズムには非常に面白いと感じ、興味を惹かれました。

「テーマはない、適当に泳げ!」教授・沖田極先生に鍛えられた若手医師時代

私は現在新潟大学消化器内科教室で教鞭をとっていますが、教え子となる医師には「医師という職種を選んだからにはリーダーにならねばならない」と繰り返し指導しています。医師は患者さんに対してはもちろん、他の医療従事者や医師に対しても頼れるリーダーにならなければなりません。

先にも述べましたように、私は山口大学第一内科教室の沖田極先生が教授になられたと同時に入局しましたので、一期生として何度となく叱られ、大変鍛えられました。今思えば沖田先生は私に対し、最初から「リーダー」になるためのトレーニングをして頂いたのだと思います。

沖田先生は私にさまざまなチャンスを与えることで、リーダーになるためのトレーニングをしてくださいました。入局してまだ右も左も分からないうちから英文論文を書くように指導してくださいましたし、潰れかかっている病院を立て直すため小さな病院に派遣されたこともあります。

私はこのような経験のなかで臨床も、研究も、病院経営も行わねばならない医師の役目の大変さを痛感するとともに、さまざまな立場を経験することで医師として必要なリーダーシップを自然と育むことができたと感謝しています。

非常に印象深かった極めつけのエピソードは、大学院入学時のことです。大学院では教室のリーダーである教授と相談して研究テーマを定めることが一般的ですが、沖田先生は私にこうおっしゃいました。

「君は分子生物学をやりなさい、それ以上のテーマはない!適当に泳げ!」

突然、分子生物学の世界に放り出された私は、驚きましたが、自分で考えられるだけのことを精一杯行いました。当時書いた論文は今読み返してもまだまだ十分とはいえず、苦い思いもしましたが、あの経験は自分で考え、自分で行動するという意味でよい経験になったように感じています。

自力で掴んだ留学先、アメリカでの日々

私の大学院生活が終わる頃、山口大学第一内科教室の当時の教授であった沖田極先生はある日こんなことをおっしゃいました。

「大学院の卒業後は、自分で留学先をさがしなさい」

当時ほとんどの医局では教授の斡旋で留学先を決めるのが普通でしたが、私は自分で自分の留学先を探す命を受けました。もともと「留学してみたいな」という気持ちがあったので、教授から直々に留学を指示されたことは嬉しくも思いましたが、留学先が決定するまでもちろん不安な気持ちもありました。

当時はまだEメールもない1990年代でしたので、私は興味のある研究室に片っ端から手紙を書いたり、FAXを送ったりと世界各国の先生にコンタクトを試みました。

各国のさまざまな研究室に自ら掛け合ったところ、アメリカ国立がん研究所のチーフで、肝臓特に肝幹細胞、肝発癌研究の権威であるSnorri S.Thorgeirsson先生の目に止まり、指導してくださることが決まりました。海外への留学には身元引受人(研究助成)が必要ですが、これは内閣府食品安全性委員会委員長を務められ、がんセンターの名誉総長でもある寺田雅昭先生が務めて頂き、厚生省の派遣研究員(Guest Researcher)としてアメリカ国立がん研究所で研究をスタートしました。

各先生のご協力があり、こうして無事アメリカへの留学が決まった私は、現地で基礎研究として遺伝子のクローニングなどを学びました。私は今でも臨床の現場に立つ臨床医ですが、臨床医で且つ遺伝子のクローニングを行っている医師は珍しいのではないでしょうか。アメリカで研究し、同定した遺伝子の機能は現在新潟大学消化器内科教室でも引き続き研究しています。

実際に留学を経験して、「経験できてよかった」と思うことは今でも多々あります。学術的な面だけでなく、外からみた日本の姿を知り、人としても成長できました。また、医療はどんどんグローバルになって来ていますから、これからの医療を担うリーダーは国際的でなければならないと感じています。

臨床の解決できない課題に思う気持ちが私を動かす

日本に戻ってきてからは、自己骨髄細胞を使った非代償性肝硬変症に対する再生医療を中心にさまざまな臨床・研究を行ってきました。自己骨髄細胞を使った肝硬変の再生医療は、山口大学では主にC型肝炎が原因の肝硬変症の患者さんに対して行い、そのうえアルコール性肝硬変の多い山形、メタボリックシンドロームによる肝硬変が多い沖縄、B型肝炎の多い韓国などに技術移転も行い、より多くの肝硬変の患者さんを救えるように尽力してきました。

質の高い臨床医でありながら、新しい治療や診断のために研究もしっかり行うことのできる医師……すなわちClinical Scientistとして、取り組んできたことをこれからも継続しつつ、後進の医師にもこの精神を受け継いでいきたいと考えています。

私はこれまでも幾度となく課題に突き当たってきました。課題に直面すると不思議な事に「なんとかしよう!」という気持ちがわき、今まで頑張ってくることができました。これもさまざまな経験を糧に、私自身が気づいたら「リーダー」になっていたからでしょう。そんな私も教授となり、いよいよ後進の医師を育てていく時期になりました。後進の医師が立派なリーダーになっていくのを目の当たりにすると、大変嬉しい気持ちになります。

医療の世界にはまだまだ課題があり、治せない病気を抱え藁をもつかむ思いでやってくる患者さんもいますし、医師の教育や育成の点でもまだまだ改善の余地があると感じています。私はこのような課題がある限り、自分はまだまだ前に進むことができるのではないかと思っています。

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